秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

あの素晴らしい愛をもう一度

恋のこと3

男も 女も 最初に出会う異性は自分の母親や父親 前々回 その親を対象化できる大人にならなければ きちんとした恋も人を愛することもできないのではないかという話を ギリシャ悲劇の例を挙げて 話し た 前回は それを乗り越えることができている気になってい…

恋のこと2

風間ゆみというアダルト女優がいる。 20代前半でデビューし、10年近く、いまでも一線で活躍している女優だ。 若い頃から、他の女優がやらないような、多重人格障害の女性など、複雑な役をこなしていた。 不器用で無口な女性、貞淑な女性が、突然、妖艶で淫靡…

恋のこと

最初に恋心をいただいたときのことを覚えている人は少ない 幼稚園の先生とか 幼稚園の同じクラスの子とか 近くのお姉さんだとか いや 本当は最初に恋をするのは 男は母親なのだ 女は父親 ギリシャ悲劇のほとんどが近親相姦の悲劇に見舞われる気高き人々の姿…

ファッションのこと7

志賀さんには本当によく心を砕いてもらった。 そのおかげで、それまで自分では決してチョイスしなかったような服にも興味を持つようになり、また、 いい歳だからと視線からはずしていた服にも関心が生まれた。 そして、いつか、どこか人の視線を評価を気にし…

ファッションのこと6

病名は胸膜炎。 肺胞を包んでいる膜が炎症を起こし、罹患する病気だが、ぼくの場合は胸膜に腫瘍があった。 良性のものか、悪性のものかを判別するには、肺にたまった水を取り、検査する必要がある。 そればかりか、肺にたまった水を取り除かなければ、肺胞が…

ファッションのこと5

生まれて初めて救急車というものに乗った。 その数週間前から上半身をひねると痛い。近くの病院の呼吸器科でも観てもらい、レントゲンもとったが 原因がわからず、肋間神経痛の症状に似ているということでシップと消炎剤をもらい、「一週間しても様 子が変わ…

ファッションのこと4

その頃、ぼくはある団体のサテライト放送のヒューマンドキュメント作品をレギュラーで担当していたの だが、もう一つの幹部教育向け放送の番組に担当を変えられた。 そのとき、社会の現状についての認識を団体幹部であればしっかり持つべきだろういと思い、…

ファッションのこと3

バーニーズ・ニュヨークがアジアに最初の店舗を出したのは新宿。 ファッショの伊勢丹が提携して実現した。 30歳過ぎて、ある会社の役員をやるようになり始めた頃 接待や打ち合わせやらがでやたら飲酒の機会が ふえ、自宅が遠いものだから 最終電車で駅にたど…

ファッションのこと2

IVYが最初に日本に入ってきたのは60年前後のこと。当時のアメリカのティンエージャーの間で流行し ていたIVYリーグファッションが映画や雑誌の影響でどっと入っていた。 俗に「みゆき族」と呼ばれ、コットンパンツの裾がみゆき丈の短さだったことからそう名…

ファッションのこと

高度成長期のぼくら子どもたちにファッションという言葉は入ってきたのは ぼくが中学生も終わりの頃だったのではないかと思う いまミキハウスだ、成美屋だなんだと幼児や児童のファッションは当たり前のようになっているけど ぼくらが子ども時代、そんな子ど…

演劇のこと5

映像の世界に入って痛感したのは、いかに映像の世界の人々が演劇の知識を持ち合わせていないかという ことだった。 俳優の生理や演技というものをきちんと勉強していないか、リアルな演技を追求するあまり、過剰な芝居 を俳優に要求し、過剰であることが、あ…

演劇のこと4

早稲田小劇場(現、SCOT)の「夜と時計」を観たときの感動は忘れない。 早稲田小劇場は「劇的なるものをめぐって」シリーズで白石加代子という女優を生み出し、高い評価を既 に受けていたが、シェークスピアの「マクベス」を下敷きにした、その舞台は圧巻だ…

演劇のこと3

当時、福岡の高校演劇のレベルは高いといわれていた。 レベルを押し上げていたのは、筑紫ヶ丘高校演劇部だった。当時、不条理演劇というジャンルの芝居が 一世を風靡していて、人間存在の不確かさを描いた作品をオリジナル台本で発表し、かつ、演劇部員たち …

演劇のこと2

中学時代、ぼくは剣道部にいた。 小学校の高学年から剣道をやっていが、東京オリンピックでの女子バレーの活躍に刺激されて、中学に入 るとすぐ、バレー部に入部した。ところが、当時、バレーは女子のもので、男子部員はわずか一人、先輩 がいただけだった。…

演劇のこと

みんなに経験があることだと思うのだけど 小学校の学芸会というのは、なぜか成績のいい、イケメンの子やかわいい子が主役をやった。 いまはそういうことをやると、モンスターペアレンツが学校に怒鳴り込んでくるのだろうが、ぼくが小学 校の頃はあからさにエ…

映画のこと5

ATGは、50年代、映画の母といわれる、当時、東和映画の社長だった川喜多かしこが芸術映画の上映専 門館、アートシアターを設立しようと提案したことから始まっている。それに、東宝の副社長だった森岩 雄が賛同し、興行館を経営する三和興行の社長、井関にも…

映画のこと4

いま、「傷だらけの天使」のその後を描いた、矢作俊彦の「傷だらけの天使 魔都にハンマーを」が話題 になっている。放映当時から熱狂的なファンがいたが、DVDを観た若い世代が、いまでも当時のロケ地を 訪ねるらしい。 しかし、放映された、74年から75年の同…

映画のこと3

ダスティン・ホフマンを観たときは、とにかく、びっくりした。 身長も低く、決して美男子とはいえない小づくりの男の演技は、圧倒的だった。それまで、邦画でも、洋 画でも、ましてやテレビでも観たことのない、その存在感は強烈な印象と同時に、魅力にあふ…

映画のこと2

映画を観ること、本を読むこと、音楽を聴くこと、そして、テレビを見ること。 この四つのことに、父も母も驚くほど寛容だった。 小学校の低学年時代、ひどく成績が悪くても、その後、転校した北九州の門司の片田舎の小学校で、担任 教師から、「この子は、小…

映画のこと

父と母は映画が大好きだった。大牟田にいた、ぼくが幼い頃は、よく母に映画に連れていかれた。貧しい警察官なのに、なんであんなに映画にいけたのか、中学生を過ぎた頃、ふとそう思ったが、理由は簡単で、当時、地元の警察署や派出所、交番はいまとは想像も…

父の詫び状5

父も祖父も、家庭を壊すような男ではなかったが、深い仲になった女性がいえれば、それを遊びと割り切 れるほど、遊び上手な男ではなかったのだろうと思う。 母にすれば、許せることでなかったのはよくわかるが、妻子があっても、真剣な恋に出会ってしまうこ…

父の詫び状4

贅沢で、放蕩な祖父は亡くなる寸前まで 女がいた。 80歳という年齢で女がいたのだから、たいしたものだったと思う。 その祖父に膀胱がんがみつかった。 父の兄は、40代の若さで急逝していたから、直系の親族の長は、次男の父だった。しかし、警察官舎住ま い…

父の詫び状3

実は、父と母が本気で離婚しようとしたことがあった。 ぼくが中学生の頃のことだ。 原因は、祖父母を父の親族のどこが引き取るかでもめたときのことだ。 父が不治の病といわれていた肋膜炎を患い、医療費や生活費の工面に追われ、生まれて初めて質屋通いを …

父の詫び状2

よく物書きの世界で言われることだが、作家自身の力ではない、何者かの力によって、作品が生まれると いうことがある。うまく書くということではとても及ばない何か。それを体感することは、文学、映像、 絵画、その他のあらゆる創作分野に携わる者にとって…

父の詫び状

51歳という若さで急逝した、直木賞作家向田邦子のエッセイ表題だ 女流作家はだれが好きかと訊ねられたら、ぼくは迷わず彼女の名を挙げる どうあがいても勝てない作家はと問われたら ぼくは同じように、迷わず彼女の名前を挙げる 幼い頃から、ぼくは映画やテ…

プリンに茶碗蒸し

ぼくの母は料理が苦手だった。 父と一緒になる前まで、女中さんが何人もいるような地回りのやくざのような家で育ったのだから、無理もない。 母がまともに料理をするようになったのは父と結婚してからだし、若い頃の父はその料理がまずいと星一徹のごとく、…

福岡には雪は降らない。だって、九州なんだもん。 上京して大学へ通うようになって、ぼくは関東以北の出身者の多くがそう信じて疑わないことに驚いた。 一年を通じて、宮崎県の日南海岸や鹿児島県の指宿辺りのような温暖な気候が九州全域の気候だと友人の 多…

お百度参り2

福岡市の東公園に日蓮聖人像がある。元寇襲来の折、聖人が天に護国を念じ、嵐を吹かせたという謂われ で建立された像だ。戦争中の神風信仰にも利用された。 いまはどうなのか知らないが、ぼくが高校生の頃まで、その聖人像の足元には様々な願いを込めて、い…

お百度参り1

父と母がどう出会い、そして結婚したのか。それを知ったのも六本松にいた頃だった。 敗戦から間もなく、父は警察官を拝命してしばらくすると金印の発見で有名な志賀島と福岡を結ぶ「海の 中道」に近い「西戸崎」という港町の派出所に勤務した。そこで出会っ…

包帯のようなウソ3

当時、鑑識課にいた父は自殺死体や殺人現場の写真を記録して、そのファイルを家に置いていた。ある 日、どうやったら楽に死ねるかという話をぼくと姉が冗談交じりで話していると、突然父からそのファイ ルを見させられたことがある。 何枚かの悲惨な写真の中…