秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

恋のこと2

風間ゆみというアダルト女優がいる。

20代前半でデビューし、10年近く、いまでも一線で活躍している女優だ。

若い頃から、他の女優がやらないような、多重人格障害の女性など、複雑な役をこなしていた。

不器用で無口な女性、貞淑な女性が、突然、妖艶で淫靡な女性へと変身する。

それは、男性がどこかで理想としている女性の姿だ。生来の色気からか、それが、うまい。

さらの芝居はいまいちだが、眼と表情がいい。

それにプロ。常にカメラアングルを意識し、乱れた髪が顔を隠さないよう、視聴者にわからないよう、

されりげなくフォローする。

そうした役をやった後は、お決まりの作品に続けて出演し、体型がやや豊満になった最近は人妻物などが

多い。

まっさらでデビューしたばかりの新人の原紗央梨は、風間ゆみに似ている。

いすれもファンだ。


ぼくが30代終わりに、宝島社から出した短編小説をヘアヌード写真で構成し、東京芸術大学美術学部のU

教授に監修してもらった『ロスト・オブ・マインド』という作品がある。

その実写版がやれるなら、風間ゆみに出演依頼をしたいと思うほど、入れ込んでいる。

芝居を鍛えれば、いい女優になれる。

日活ロマンポルノやAV監督からメジャーデビューするきっかけになった、廣瀬隆一の『夢魔』という作品

にテイストが似ている。制作とリリースは、こちらの方が早かったが、宝島社の写真集との抱き合わせ企

画だったから、がんばってはみたが、写真構成で実写版は実現しなかった。


アダルト作品は、きれいごとの人権や社会派の大人たちから見れば、眉をひそめたくなるものだし、性的

に未成熟な子どもの眼にふれさせていいものではない。

だが、ぼくは現在の有害情報規制については反論もあるし、性的な映像情報を子どもひとりだけでなく、

数の子どもと大人も一緒に視聴すると、それらが対象化でき、客観視することができて、異常で、歪な

性的感情を持たせない抑止効果があるというアメリカの社会学の研究もある。

いまでは情報規制の考え方において、アメリカではそれが常識にさえなっている。

問題なのは、未成年者一人、淫靡な情報にさらさせている大人の方なのだ。

現在のケータイの問題がまさにそれだ。


あまり知られていないが、人権や社会問題の根底には性がある。暴力や虐待の背景には男女性の問題だけ

でなく、性が介在しているのだ。暴力で他者を隷従させる快感は、性的な快感と同じだから。人権や社会

問題の作品に、そうした意識が働いていないと薄っぺらな深みのない作品になる。視聴者への説得力も

なくなるとぼくは確信している。つくる側にも、暴力への、言葉の暴力も含め、威圧などの芽がないか

自分の心の深淵をのぞく勇気と正直さが必要なのだ。そうしないとリアルなセリフにならない。


それは別の議論として、男性の威圧や暴力で女性をもてあそび、やがて、女性が性の快感にのたうちまわ

るという作品は、海外のアダルトでは禁止されている。

人権意識が高いからだ。

男女が共に性を楽しむ。それが基本で、男性が一方的に性を楽しんだり、女性を隷従させることは許され

てはいないし、そうした作品は受け入れられない。

男女が自立して性を楽しむという文化が当然のこととされているから。

しかし、日本では男女の性が自立していない。

とりわけ、団塊世代は性的な自立が幼い。その子ども世代である、俗に「いちご世代」といわれる20代中

盤から30代前半の世代も同じ。

幼児、未成年の性を商品にしてしまう文化を支えて来たのは、実はこの世代だ。

反抗せず、一方的に男性性を受け入れざるえない幼児や未成年者は、甘えを受け入れくれる母親像と同

じ。また、幼児や未成年者でなく、成人した対等の立場にある女性でも、そうした男性の甘えを許して受

け入れている、女性にも、古い母親像の幻影があるのだ。

つまり、男女ともに性的に自立できていない上に、保守化が進んでいる。

男性は、甘えをすべて受け入れてくれた母親像を女性に求め、女性は、自分に甘える男性に母性をくすぐ

られる。

いま問題になっているデートDVカップルのとりわけ男性が、女性に暴力をふるい隷従させるという関

係も同じ。

暴力や威圧をした後、「悪かった。反省している」「好きだから、そうしてるんだ」「愛しているのはお

前だけ」「お前がいなくなったら死ぬ」…。その言葉に、女性は母性をくすぐられ、それが愛だと信じよ

うとする。

DVには類型的なパターンと段階がある。それに気づくことがむずかしい。恋しているからだ。

当然ながら、恋愛の最初は互いにやさしくあろうとする。その最初の段階から、暴力や威圧の眼はあるの

だが、人はそれに気づけない。男性はわがままをいい、女性はそれくらないならと男性のわがままを許

す。しかし、もうすでに、そこに男女の上下関係ができあがってしまっている。

性的な結び付きが深くなれば、なるほど、この上下関係は激しくなり、男性は母親に甘えるのように、自

分の都合や事情、こうしたい、こうでないと付き合えないと説得する。説得とは名ばかりで、自分の都合

のいい、男性優位の関係を確立しないと落ち着かないからだ。女性もこれを受け入れないと付き合えない

と思うから甘えを許す。

弁の立たない女性であれば、それでも仕方がないかと受け入れていくしかない。かりに、さすがにがまん

できず、抗弁すると「じゃ、別れよう」と切り札を出す。さらなる暴力が生まれる。

こうなるとエロス的上下関係から、男も女も抜けられなくなっていく。それが暴力につながると、女性は

それにも甘んじてしまうようになるのだ。もちろん、激しい暴力とストーカーに苦しめられ、恐怖から声

が出せずに隷従に甘んじ、自殺を考えるほど追い込まれている人もいる。実際、自殺者も多いのだ。

その要因は ただひとつ。

依存症。

自立できず、保守的な母親像を軸に男女関係が成立してしまう背景には、互いへの依存がある。

自立できず、責任の取り方、相手の立場に立った身の処し方を知らないから、甘えの世界で互いが依存し

てしまう。喪失感への怯えもあるし、執着もある。それが依存をより助長する。

男女が互いの存在だけに頼るのではなく、それぞれに生きる目標や生きる指針をもてれば、こうした悲劇

はないのだが、目標や指針を持つには腕力もいるし、大人であること、つまり、自立した人間であること

が必須条件だから、日本文化が培ってきた母性の世界から人々は自由になれない。


と えらそうなことをいっているぼくだが、ある日、はっとなったことがある。

外国人の女性と付き合っていたときに何度も言われた言葉。「私は、あなたのお母さんじゃないのよ!」

そのときは、なにくそと思ったりもしたが、おふくろが亡くなったとき、自分がどれほどおふくろに愛さ

れ、おふくろに甘えて生きていたかに気づかされた。そして、いままでの人生で付き合ってきた、いろい

ろな女性に、おふくろが許してくれていた愛を、身勝手な愛を求めていたことに気づかされた。

おふくろが亡くなり、葬儀のときに、久しぶりにおふくろの若い頃の写真を見て、愕然とした。

風間ゆみとどこか似ていたのだ。

ぼくは、いい年になるまで、母親の幻影を追いかけていた、ちょろい男だったのだ。

相手が求める愛に応えもせず、たぶん、いままでいろいろな女性を傷つけ、悩ませていたに違いない。

自分がこうしたい、こうして欲しいという愛ではなく、自分が彼女のために何ができるのか。そう考え

られるようになったのは、本当に最近のことかもしれない。

その気持ちがむくわれなくても、母親像を求めて、わがままを押し付けてしまう恋はしてはいけない。

それに気づくのに、ずいぶん時間がかかったような気がする…。


つづく。