秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

演劇のこと3

当時、福岡の高校演劇のレベルは高いといわれていた。

レベルを押し上げていたのは、筑紫ヶ丘高校演劇部だった。当時、不条理演劇というジャンルの芝居が

一世を風靡していて、人間存在の不確かさを描いた作品をオリジナル台本で発表し、かつ、演劇部員たち

の発声や発音は高校生離れしていた。脚本も書け、俳優養成もできる、きちんとした指導者がいたせいな

のだが、民話劇や社会派の泥臭いリアリズム芝居ばかりやっている、ぼくら演劇部の対極にあった。


ぼくは、高校時代、勉強以外のことはほとんどやりつくしていた。演劇部の部長をやり、そこで知り合っ

た女の子と恋をし、学生運動を支援し、生徒会で文化祭を仕切った。フォークサークルをつくり、演奏会

を定期化させ、地元の大学祭やイベントで唄っていた。やりたいと思ったことは、すべてやったが、一つ

だけ、やっていないことがあった。演劇部をコンクールで勝たせることだ。

いまでもそうだが、高校演劇は、野球や吹奏楽のように、全国大会がある。地区大会、県大会、九州大会

を勝ち抜き、初めて全国大会の舞台に上がれる。

ぼくらの高校はもう8年、地区大会すら通過できないでいたのだ。


台本さえあれば…。ぼくはいつもそう思っていた。そして、本はあったのだ。前にちょっとだけふれた、

ぼくの人生を変えるような出会いをしてくれた、OBのIさんの本だった。

Iさんは4浪の末に埼玉にある私大に入ったものの、途中で止めて、消防士になった人なのだが、彼と出

会わなかったら、ぼくは、東京の大学を目指すことも、物を書くという世界、演劇や映画の世界に足を踏

み入れたかどうかわからない。

小説の師であり、演劇、映画の師だった。先輩がいいという作品は、とにかく、読み、そして観た。

ぼくがそれまで出会った中で、作品の鑑識眼は断トツだったし、筆力があった。ぼくのように、淡々とし

た作品ではなく、物凄いドラマチックな本を書く人だった。あのまま、書き続けていれば、いい作家にな

ったのではないかと、いまでも思っている。

そのIさんが浪人時代に書いていた本をやりたかったのだが、顧問が頭が硬く、本のよさが理解できず、

高校生らしくないなどとアホな指摘をして、いつも撥ねられた。


しかし、卒業してOBになると、顧問も代わり、OBの威圧でコンクール作品に物を言うことができるように

なった。ぼくは、先輩OBたちを説き伏せ、先輩の本をやれと現役を煽り、演出にもあれこれ口出しした。

現役との信頼関係がなくてはできなかったと思うが、その本で地区大会を通過できた。8年ぶりの快挙だ

った。ちなみに、そのときの現役の部長は、いま舞台照明家の大御所になっているYである。


翌年、先輩が結婚するという時期で、心そこにあらず。結局、本はぼくが書くことになった。なんとして

も、1回で終わらせたくなかったのだ。その方法は、もうわかっていた。いい本と的確な演出。それだけ

あればよかった。ぼくの高校の演劇部は当時、舞台装置や照明などでは、群を抜いていたと思う。裏方

は万全だったのだ。

ぼくはそのとき初めて、きちんとした戯曲を書いた。処女作である。にもかかわらず、コンクールは通過

できるし、創作脚本賞もとれると断言していた。


いまでもそうだが、そのときも、「どうして、そんなに確信が持てるんですか?」と訊かれる。

自分でもよくわからない。

しかし、もし理由があるとしたら、小学生の頃からたくさんの映画をみ、本を読み漁り、その時代時代の

象徴的な作品から学び、かつ、それを生かして、オリジナル作品を具体化しようとして、若さゆえに、自

分の意見や考えが受け入れられず、そのためにますます、思いは深くなり、深くなった分、具体的な絵が

自分の中に設計されていったからではないかと思っている。

どういう本であるべきか、どういうふうに創るべきであるかの具体的な絵が、自然と自分の中にあったか

らだ。

しかし、だからといって、ないものねだりをせず、いま自分の周りにいるスタッフや出演者の潜在能

力を引き出し、それに賭けた。


一流であることが、必ずしも一流とは限らない。

三流だからといって、必ずしも三流とは限らないように。

大切なのは、熱意や思いなのだ。

たどたどしくとも、そこに、懸命の努力と労苦を惜しまない精神があれば、技術は必ず向上する。

いい設計図、いい企画。そこに、きちんと観る人の生活や空気をとらえていれば、そして、自分の得手不

得手を心得ることのできる謙虚さがあれば、その表現は必ず、人の心に届く。

ぼくは、15歳で演劇部に入ったときも、そして、いまも、そう確信している。

熟練した俳優、熟練している舞台ほど、実は、弱いものはないのだ。


結局、ぼくの予言は的中し、処女作「あの河を泳ぎぬけ」で創作脚本賞をとった。

エリート集団の筑紫ヶ丘高校演劇部のようなきれいな芝居はできない。ならば、徹底的に自分たちの泥臭

さにこだわろう。それが徹底すれば、あるセンスを浮び挙げることができる。泥臭い中に、キリッとした

品格やセンスを持ちたい。それは、当時からぼくがねらっていたことだった。

自分たちの身の丈の芝居。そう考えるうちに、博多山笠が頭に浮び、山笠を取り込んだ芝居を書いた。

同じく、山笠を舞台にした、「博多っ子純情」が話題になる、はるか10年近く前のことだ。


ぼくが演劇、あるいは映画・テレビドラマを本気でやってみよう。そう決心したのは、だから、くそリア

リズムの先輩たちに囲まれた、現役時代ではなく、卒業してからのことだった。

しかし、その直後、ぼくは、東京で、自分の作品の無力さを痛烈に感じさせられるいくつかの舞台に出く

わしてしまったのだ…。



つづく。