秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

演劇のこと2

中学時代、ぼくは剣道部にいた。

小学校の高学年から剣道をやっていが、東京オリンピックでの女子バレーの活躍に刺激されて、中学に入

るとすぐ、バレー部に入部した。ところが、当時、バレーは女子のもので、男子部員はわずか一人、先輩

がいただけだった。新入生が4人入ったが、当時、バレーは9人制で、とても試合に出られる状態ではな

い。

それでも、先輩の心意気に感じてしばらく続けたが、結局一人抜け、二人抜けで、男子バレー部は解

散になってしまった。で、次に水泳部へ。3日休めば自動的に退部扱いになると聞いて、ただ泳ぐだけの

水泳部に飽きて辞めた。クラスの友人が剣道部に入っていて、しきりに進められたが、なかなか決心がつ

かなった。クラスで一緒に学級委員長をやっている相方の女の子がいたからだ。ぼくは、その子に入学

してすぐ、ひと目ぼれしていた。だれもに言わなかったが、それで剣道部に入るのがためらわれていたの

だ。1年の途中で彼女は剣道部を辞めた。ぼくは、ほっとして、まじめに剣道がやれた。当時は、先輩に

も勝つくらい強かった。他校との練習試合でも2年までは負けたことはなかった。3年になると生徒会に入

り、そっちがおもしろくなって、部活は度々休むようになった。生徒会の集まりがあると言えば、簡単に

休ませてくれたからだ。それも当然で、生徒会の副会長が中学1年のとき、ひと目ぼれしたあの子だっ

た。


そんなある日、図書室にいると国語の女性教師がぼくに声をかけた。

「島田くん。演劇部に入らない?」

ぼくの本好きは、中学に入ると異常なまでになっていた。卒業するまでに、図書室の主だった本はほとん

ど読んでしまっていた。とりわけ、門司の田舎から福岡郊外の中学校に進学してから、同じ小学校の仲間

もいず、かといって、小学校で、ちょっと勉強ができていたプライドもあり、なじめなかった。いや、な

じめなかったというより、自意識がすごく強くなっていて、回りとあまりうまくやれなかったのだ。本の

世界に埋没することで、ぼくは人との関わりをやり過ごそうとしていた。だから、1年のときは、やたら

に本を読んでいた。国語の成績は中学に入ってもまあまあだったし、図書室で本を借りると貸し出しカー

ドに名前が残る。また、ぼくには図書室が放課後のオアシスだったから、図書部員でもないのに、貸し出

しの手伝いなどしていた。国語の教師は、それを見ていて、本を読むような子なら、演劇にも関心を持つ

かもしれないと思ったらしい。


「島田くん。よく本を読んでるから、向いてると思うんだけど」。そんなに簡単なことか? と思った

が、「演劇」という言葉は当時のぼくには途轍もなく新鮮だった。しかし、これといった発表会もやって

いなかったし、演劇部が公演をやっているのを見たこともない。

「男子がいないの。だから、まだ、本読みくらいしかできないんだけど」と教師はいった。

「ぼく、剣道部ですから、ちょっと無理だと思います」。そう言うと、教師は落胆したように、「そう

ね。無理よね、やっぱり」とぼくの前から立ち去った。

この世に、演劇というものがある。それを自覚させたのは、その教師の誘いだった。


勉強熱心なぼくは、それから演劇ってどういうものだろうとNHKの芸術劇場で当時、発足してまもない、

劇団四季日生劇場の舞台などを観た。ちょうどゲーテの「若きウェルテルの悩み」をやっていた。若き

日の石坂浩二加賀まり子が出演していた。いま考えれば、大してうまい芝居だとは思わないが、当時

は、初めて観る俳優の輝きに圧倒された。大仰な衣裳と舞台装置の舞台で、いわゆる赤毛ものといわれる

ものだったが、それを観て俳優というのもわるくないなと思った。

昔、学芸会で主役がやりたくてできなかったことや、高学年になって自分で台本を書いて演出した記憶が

蘇り、俳優だったら目立つし、女の子にももてるのではないかと思ったのだ。


いろいろな事情で、当初、いやいやながらだったが、中学校の近くにある県立高校に入ると剣道部の先輩

からしつこく勧誘されたが、ぼくはまっしぐらに演劇部の部室に向かった。当時、演劇部に入る男子は希

少で、同学年で入部した男子は、なんとぼくだけだった。男子の新入部員はすでに将来の部長が約束され

ていて、だから、ずいぶん先輩たちに大事にされたと思う。とりわけ、男子部員の先輩や卒業したOBの先

輩たちからはとてもかわいがられた。兄のいないぼくにとっては、兄貴が何人もできたみたいなもので、

演劇部の活動より、男子の先輩たちと近くの山に登ったり、家に遊びにいたり、バイクの後ろに乗せられ

て、志賀島勝馬海岸や熊本の阿蘇山に連れていかれることの方がずっと楽しかった。


ぼくは、そこで、初めて、まともな恋愛をし、人生を変える先輩と出会った。だが、結局、2年のとき

に、生徒会執行部に入り、またしても、部活は休みがちになった。女子の先輩からはひどく怒られたのを

覚えている。


しかし、ぼくには、当時、すぐ上の先輩たちがやっている演劇が好きにはなれなかったのだ。

うちの高校の演劇部は社会派の芝居が好きだった。いわば、劇団民芸のような演劇部で、「夕鶴」「三年

寝太郎」といった木下順二の民話劇や当時、流行作家的に高校、アマチュア戯曲を書いていた、林黒土の

作品ばかりをやっていた。黒人兵と日本人母とのハーフゆえに差別され、それでも米軍基地に反対を唱

え、米航空機の機銃掃射でいのちを落とす少女を主役にした「黒い大陽」や広島の原爆を題材にした「静

かなる朝」といった反戦、反差別をテーマとした作品群だ。

演劇というのは新しいことやかっこいいことをやるものだと思っていたぼくにとって、それは、ある種、

失望だった。

そして、それ以上に、戯曲の一言一句にどういう作家の思いが込められているかと、脚本分析にやたら

時間をかけ、理屈にしばられて、演出や演技が決められることが生理的に合わなかった。


演劇は意味性を求めるものではない。直感させ、体感させ、そして、共感させるものだ。

しかし、当時、社会派系の舞台をやるところは、高校演劇でも職場演劇、プロの劇団でも、脚本を解剖す

るように、理詰めで芝居をつくろうとしていた。それが、スタニフラフスキーの演劇だと愚かな勘違いを

していたのだ。まず、文字ありき、まず、理屈ありきだった。

その意味で、ぼくのいた演劇部は、当時ですら、時代遅れになりかかっていた、くそリアリズム演劇を追

求していた。それが、ぼくには合わなかったのだ。


ぼくは、いまでもそうだが、自分で演出するようになってから、脚本分析や本読みにたくさんの時間をか

けない。「まず、動け。そして、考えろ」。それがぼくの演出スタイルだ。机上でいくら、思案したとこ

ろで、形に表すことができなければ、時間の無駄なのだ。問題は、舞台上、俳優の肉体がどう空間をつく

るかが重要で、その技量がどれだけ高いかの方が観客にとってはより重要だ。

後に、ぼくが鈴木忠志の影響で、世阿弥と出会い、「花伝書」に強く惹かれたのは、そうした理由があ

る。演技に意味性を求める演出のあり方や役者の指導法に反吐が出るのもそのためだ。感じること、ま

ず、脚本家も演出家も、俳優も、感じることから始めなくてはならない。それがない舞台は、実におもし

ろくない。金返せと言いたくなる。


しかし、そうしたちょっと古めかしい演劇部にいたことは、後に、ぼくには財産にもなった。

いま、市民劇場と呼ばれているらしいが、当時、労働者演劇連盟というのがあって、破格の安い値段で

東京から地方に来る芝居が観られた。ぼくの演劇部はそこに加盟するのが当然という雰囲気があって、

学生割引の会費を払うと、一回の芝居が当時、500円で観ることができた。

ぼくは、そこで、杉村春子の「欲望という名の電車」、滝沢修の「セールスマンの死」といった、日本新

劇の金字塔といわれる舞台、役者をじかに観ることができたのだ。後に、東宝で教えをいただいた、俳優

座の増見利清先生の画期的な舞台、山本圭、佐藤おりえの「ハムレット」も観ることができた。当時の新

劇の名作、佳作、傑作といわれるいい作品と思春期の多感なときに出会えたことは財産だったと思う。

そして、いやになるほど、脚本分析をやらされ、資料を読まされ、鬼のようなOBの先輩たちから、ゲネプ

ロの度に意地悪なダメだしをされ、ちくしょうと思いつつ、教えられたことは、やはり、いまでも役に立

っている。あれと同じやり方をしようとは思わないが、きちんと基礎を勉強するということは大切なの

だ。少なくとも、俳優でなく、脚本や演出、裏方に携わろうという人間には必要なことだったといまは

思う。



つづく。