秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ロストケア

劇場で予告編を観たのは、昨年のことだった。上映されれば、必見だなと思いつつ、見逃していた作品。

少し前、光文社に用件があり、その折、この原作が映画化された話は聞いていたが、出版社としては、ベストセラー作品でもなく、地味な作品だったこともあり、映画化の話が来たときは、少し驚いたというお話を伺っていた。上映公開されのは、出版から10年後の今年の三月。

いま進めている作品の参考になればと、配信されるようになって、やっと観た作品。おそらく、劇場で観ていたら、もっと揺り動されて、早々にブログで紹介していただろう。

10年も前に出版された作品を10年かけて、映画化した前田哲監督の熱意と根気、それに初稿から伴走して制作にかかわった主演の松山ケンイチさんにも頭が下がる。この熱意がなければ、映画化には至ってない。

いわゆるエンターテイメント映画ではない。原作自体が介護や孤独死の問題を深く抉った作品で、それを映像化するには、相当の検証と取材があったはずだ。そして、小説もそうだが、映画における観客動員も決して、ヒットと呼べるものではなかったはずだ。配給は日活と東京テアトル

こうした社会派映画は、日本ではいま、制作はもとより、上映することすら難しい。まして、介護連続殺人がモチーフで、多くの人が、いや社会全体が、かすかな福祉に押しつけて、見ないようにしている現実を突き付けている。

いろいろなとこで、語っていることだが、いまの分断された社会にあって、人々は、格差の谷間に落ちている人々の実態に目を向けようとしない。貧困、単身高齢者、介護といった現実を知ろうとしないだけでなく、知っても見えないふりをする。社会問題を白紙のページにして、きれいなものしか存在しない、清く美しく、元気で明るい世界だけを自分たちの視野に入れたがる。

仮に目を向けるとしたら、若くして病魔に侵され亡くなっていく、若いカップルの悲恋物だ。常に、そこにあるのは傍観者の視線だけだ。

この作品のクオリティの高さは演出や演技や脚本の素晴らしさだけではなく、福祉の問題、介護の問題を、その視座からしっかり、国や世界のあり方として捉えていることだ。それでいながら、介護や看取りの中にある、どうしようもない人間の感情の暗部もしっかり描こうとしている。

私自身、親の介護や看取りを姉夫妻にまかせ、郷里から遠く、仕事が忙しいという言い訳で、逃げて来た人間だ。だが、この映画は、自分自身がさらに老いたとき、自分の子どもにかけるだろう負担とその時自分が人としての尊厳を生きられるかの問いをぶつけてくる。

東映の作品で、『高齢者虐待』(教育映画奨励作品賞)を作品化したことがあるが、そこからもう一歩踏み込んだ世界が、監督としてだけでなく、一人の人間としての課題だと改めて認識させてくれた作品。

原作が推理小説だが、映画は、冒頭からネタバレの感がある。その点は否めないが、今年度の日本アカデミー賞作品賞候補にしてもおかしくない作品。

主演二人、長澤まさみ、松山ケンジの演技もいいが、何より、松山の父を演じる、柄本明の芝居が素晴らしい。出番は多くないが、柄本の芝居が、この作品にリアリティを与えている。彼の俳優としての名作のひとつになるだろう。映画『砂の器』の加藤嘉の演技を思わせる。

映画ロストケア



悲しいときには微笑みを

このブログでも以前、紹介した。

 

近代朝鮮史の研究では第一人者だった、大学時代からの親友が昨年10月に急逝した。卒業後も連絡を取り合い、機会があれば会っていた貴重な友人だった。

先月のお彼岸に、奴の遺稿をまとめた、研究書籍が明石書店から出版された。それを契機に、研究者としての実績を評価する座談会と偲ぶ会が教鞭をとっていた、福岡大学で開催された。私も旧友として、こちらも大学時代から知る、彼の奥方に頼まれ、偲ぶ会の司会で参加した。

つい先ごろ、佐渡金山の遺構が世界文化遺産に登録されるというので、物議をかもした。議論の的となったのは、佐渡金山採掘事業(旧三菱鉱業・現三菱マテリアル)を朝鮮人強制連行による労働者が支えていたのが事実かどうか。果ては朝鮮人強制連行労働そのものがあったか否かという、歴史修正主義者たちが仕掛けた、噴飯ものの議論にまで発展していた。

その学術研究論文として、衆目を集めたのが、福岡大学名誉教授・前福岡大学教授・元新潟国際情報大学准教授だった、広瀬貞三。

日朝併合下の近代・現代朝鮮史の中で、土木業や採掘業に光を当てた研究者がほぼいないこともあるだろうが、奴の論文は労を惜しまない日韓現地調査と貴重文書を丹念に紐解いた上でまとめられたもので、国会やマスコミでも取り上げられ、話題となっていた。

最後に、奴と電話で話したとき、その話になった。日本国内だけでなく、韓国を始め、海外メディアや市民団体、政党からの問い合わせが頻繁に来ていると言っていた。
「いい機会じゃないか」私は言った。近代朝鮮史はそのまま日本近代史とつながる。だが、日本人の関心はすこぶる低い。そこに光を当てる好機だと言ったのだ。「だから、マスコミの取材もテレビ出演もどんどん顔出しちゃえよ」

 

「いや。オレはいいよ。それは別の誰かがやればいい。その坩堝に入ったら、まともな研究がやれなくなるからさ」

白黒つけたがる世界とは、距離を置く。それは、大学時代から政治的な発言や行動をやりつつ、政治団体や組織とは一線を画して、独自の手段と方法で、何かに組みすることなく、自由な主張の道を拓くという、私たちの表現や主張の作法だった。

大学1年のときから、事あるごとに仲間数人で数えきれない程の議論をした。主張をぶつけ合いながら、社会の真相、人のあり方のどうしようもなさといった、きれい事や杓子定規な机上の空論では組み取れない現実にどう向き合うかを考えさせられた。

その議論に遅れをとらないために、大学の単位になるわけでもないのに、議論で知らない引用や著者名が出てると、それぞれが必死に勉強した。新しい視点の取り方、見つけ方。白黒つけたがる世界の虚妄を見破る訓練を私たちは、知らず知らずにやっていたのだ。

私たちの中で、その場の思い付きやマスコミの受け売り、何かに偏した記事や噂をネタとした議論は認められなかった。「だから、その根拠はどこにあるのよ」奴は、反論や異論を唱える仲間に、必ずそう言う。必ず反例や反証を求めたのだ。いま思えば、研究者として資質はあの頃から見えていた。同時に、それが奴自身をきつく縛る縄にもなるだろうと想像した。実際、奴は晩年、躁鬱に苦しんだ。

簡単にはいかない。

それが私たちの根本にある人間理解の基本だ。善悪の基準や世間の物差し、組織や団体、社会の常識とされている、すべてを疑え。なぜながら、人も社会も世界も、簡単にはいかないものだからだ。かとって、難しい議論をしたところで、社会や人は簡単には変わらない。

私たちの大学の校歌にある。「現世を忘れぬ 久遠の理想」。それを求めて奴も私もここまで走って来たのだ。

私も奴も福岡の出身だが、なぜ奴が近代朝鮮史にこだわり、かつ土木や採掘業に従事した朝鮮人労働者に目を向けていたのかはわかる。福岡は、炭鉱の町だった。強制労働で来させられた朝鮮人もいた。生活の苦しさから日本に来る朝鮮人も多く、仕事と言えば重労働。

福岡から釜山まで、高速船で4時間弱。早朝に出て日帰りできる。実に近い。常に、自分の生活の場に、朝鮮がある。だから、大人たちの差別も排除も目の当たりにして、私も奴も幼い頃から育った。

朝鮮人差別だけではない。中国人差別、黒人差別、同和差別。福岡では、歴史的にも社会生活においても、常に差別問題と向き合わされる。

だからこそ、簡単ではない人の世の現実が見えるのだ。人というものの浅ましさも醜さも、それでいながら、どうしようもないいとおしさも見えるのだ。そう。簡単にはいかないのだ。

それを一番知るからこそ、奴は朝鮮にこだわり、私は同和やいじめ、格差問題、女性問題、人権にこだわるのだ。

朝鮮の民謡に、「悲しいときには微笑を」という歌がある。辛酸をなめた歴史の中で生まれた歌だ。奴に昔、NHKのドキュメンタリーで見たその歌の話をした。理不尽さと不条理に溢れた人間世界の中で、名もなき人々がすがれるのは、言葉にすれば実に簡単なそんな表題だ。

簡単ではない社会、世界の片隅で、人を励ますその言葉は、実に簡単だ。奴は研究者の論文の向こうで、それを求めていたのかもしれない。

そして、私もそれを続けている。大学で互いに誓った未来を生きている。


 

 

 

ジャニーズジャパン

亡くなられた生物学者の藤田絋一郎さんや宮崎学さんと雑談していて、日本人の免疫力の低下や耐性の欠落の話で盛り上がったことがある。藤田さんとの雑談には、宮台真司さんも同席していて、藤田さんの話に共感されていた。

藤田さんは回虫博士でよく知られていた方だ。子どもの食アレルギーを始め、花粉症など免疫系のアレルギー障害が広く日本人に広がった要因に、回虫の駆除、絶滅があると科学的な調査データをもとに主張されていた。

いまの60代以上の方なら、体験しているが、高度成長期の小学生たちは、回虫検査が定期的にあって、回虫がみつかると数錠の薬が渡された。回虫は、投薬治療1日~3日で駆除できる。いまでは想像もつかないだろうが、あの頃、クラスの1/4くらいには回虫が見つかっていたのだ。つまり、それくらい日本人には一般的だったということ。

理由は、簡単。農作物の肥料にまだ人糞が使われていたためだ。人から排泄された回虫が農作物に付き、それが食として取り入れられることで、卵の状態で、体内を巡り、成虫となって胃腸に潜み、胃腸内の消化物の栄養をもらい生きる。

不衛生な環境で手洗いをしない、食材をよく洗わないなどすると、回虫は人体に取り込まれてしまう。通常1~2週間で死滅するか、体外に排泄されるのだが、場合によって、胃腸や盲腸を傷つけてしまうこともあるので、駆除の対象とされた。

いまでは、トイレが水洗式になり、上下水の完備など衛生環境がよくなった上に、農作物栽培に化学肥料が普及して、回虫がぼくらの体内に寄生することはほぼない。

だが、この回虫の駆除に比例して、食アレルギーや花粉症といった環境アレルギーが増大した。回虫だけではない。経済成長や医療の発展に伴い、衛生環境が徹底され、家庭でも職場でも学校でも、公共施設においても、除菌と消臭が、ある意味異常とも言えるほど徹底されていく中、人体における免疫系の脆弱さがより目立つようになっていく。

それは単に、身体的な傾向としてだけでなく、精神的な耐性にも影響を表し、いわゆる強靭さや打たれ強さ、めげない精神といったものまで低下させた。回虫のような存在は、時に悪さもするが、腸内の悪玉菌を食し、腸内環境を保つ役割も果たしていたのだ。

 

すべてをクリーンにすれば、何でも片付く。あるいは、すべてを白日に晒し、何にでも陽を当てる、正義を振りかざせば悪は駆逐できる。そう考えることの危うさを表している。

いま、ジャニーズ喜多川の少年へのパワハラによる性的虐待問題やこれを摘発できなかった事務所の体質が大きな話題になっているが、それらの報道を見て、ふと、この回虫の話を思い出した。

いまさら。実は、そう思ったテレビ・映画・舞台などの制作関係者や広告・マスコミ関係者は少なくないはずだ。今回のジャニーズ事務所に限らず、芸能事務所内の性的被害、テレビ業界にまつわる性の醜聞は、いくつもあったし、いまもある。もっといえば、表に出ていない、企業におけるパワハラ、セクハラ問題も多数ある。

それに目をつぶって来たのは、紛れもなく、今回ジャニーズ事務所を批判しているマスコミだ。多くのマスコミが、それこそ、噂としてでも、場合によって事実として、喜多川氏の性加害について知っていた。他の大手芸能事務所の経営者やそれに準ずる支配力を持つ者による性加害や枕営業の事実を知っている。

芸能界も腐っているが、実は、これを起用しているマスコミも腐っているのだ。BBCの報道という外圧で、ジャニーズのことになると、これだけの話題としていま取り上げているが、安倍政権時の多くの疑惑やこれまでの自公政権の悪行の噂や問題については、バランスある報道という美名に紛れて決して、今回のような批判はしない。

同時に、まるで当事者ではないように、ジャニーズ事務所を批判している輩も、これを同情的に擁護している側も、自分たち大衆自身が、未成年の少女や少年を性的な視線も含め、消費して来た事実を振りかえられない。

これは、福島第一原発の処理水の放出問題でもまったく同じだ。安倍政権以来のこの国の経済の低迷や庶民生活の困窮、物価高、格差の広がり、野放図な予算の配分といった本来、辛辣な視点で捉え、批評しなければいけない問題についても、まともに取り上げない。政権擁護の垂れ流し報道ばかりだ。これにも国民の側から声が上がることはない。

ジャニーズの問題は、そのままこの国のあり方の問題だ。わかっていながら、言葉にしない。きれいな所しかみない。差しさわりないところで抑える。それでいながら、何かが露見すると、自分は良識ある罪なき人として、徹底的に批判の側に回る。

自分たちの中にある暗部には目を向けず、清廉で穢れなき人を装うのが当たり前になった国。回虫を駆除すれば、自分は万全だと思ってこれを駆除することだけに必死で、じつは、人間としての矜持やあるべき姿、暗部も含め直視する力をなくした、情けない日本人の姿ばかりが浮き上がる。

回虫をなくし、他人の批判ばかりで、何一つ自分自身の問題として捉えられない、耐性を失った、腑抜けで生きるのか、異物を体内に寄生させながら、この暗部も自分のものだと認め、きれい事だけが唯一ではないと、自らを律し、人として恥じない生き方をするのか。

その選択をジャニーズ問題はぼくらに突き付けている。





 

 

 

敗北のアップデート

統一地方選挙の前半戦が終わり、後半戦が佳境に入っている。

この間、統一教会の関与が疑われる、子ども家庭庁が開庁し、旧態然とした少子化対策が打ち上げられ、敵基地攻撃能力配備などという無謀な防衛費増額など重要案件が内閣決議で次々に決定されている。

驚くべきは、安倍政権以後、菅が主導して、議論もなしに計上されている予備費。国会の審議なし、国民の監視なしに、政権が自由裁量で運用可能な税金が増加の一途で5兆円にまで膨らんでいる。

一方で、コロナ禍で疲弊している中小零細企業個人事業主で、年間1000万円以下の売上しかない会社・個人経営主に消費税が課税されるインボイスが10月から始まる。おそらく、倒産、閉鎖、閉店、廃業が増え、場合によって自死率増加につながりかねない。徴税の平等性といいつつ、要は逼迫した財政を弱者からも取り立て、政権の野放図な予算配分のツケを負わせただけのことだ。

 

電力会社を始め、公共性の高い大企業が軒並み、値上げを当然のように行い、コロナ禍で貯蓄を食いつぶしている個人にも物価高という次の苦難が押し寄せている。明らかに、便乗値上げもそこには隠れている。

いまさら、いうまでもなく、社会保障生活保護、年金を含め、減額と支給年齢や条件が益々厳しくなり、社会保障費の徴収が本末転倒して、生活者を苦しめるという状況が生まれている。そもそも消費税は社会保障にが、大前提だったものが、会計検査院が指摘しているように、一部しか社会福祉に使われていない。

国連からは、GDP世界3位でありながら、相対的貧困国14位にランクされ、報道の自由度は、ケニアにも劣る71位。要するに、表向き、豊かにみえて、貧困層が増大する格差大国であり、報道においては、それを詭弁でごまかすことが許され、真実を暴くことができない国になっているということだ。

 

安倍・黒田がやった異次元緩和という株式市場頼みの経済政策が、新規産業への育成投資や経済構造の改革に向かわせず、株操作という数字のマジックで、実態経済とはかけ離れてマネーゲームに企業・個人を夢中にさせ、実態のない数字が経済を支えるという虚偽経済をこの国に定着させた。ゆえに、賃金が多少上がったところで、物価高に追いつけない。

 

豊富な資金、蓄財を株で転がせる富裕層や大企業のための経済で、実動でしか稼げない国民全体のための経済政策ではないということ。


この10年、国民の生活感と国政の施策のズレがこれほど大きくなった時代は、戦後初といっていいだろう。にもかかわらず、内閣支持率が上がっているというのは、調査シートのマジックか、サンケイグルーブの虚偽調査ではないが、何かの恣意性を感じずにはいられない。実際、同じ意識調査でも防衛費増額は反対の方が多いし、自公の少子化対策に至っては、評価しないが圧倒的。

いまこの国のマスコミ報道は、ごくごく一部を除き、信憑性に欠けるから、政府政権ためのスピーカーでしかないことを考えれば合点がいくが、どうもそれだけではない。

先ほど触れたように、この国の民と認められているのは、一部の富裕層、大手企業、株投資の対象となっているIT関連や不動産開発や運用で潤う企業とそれを支える金融資本にかかわる人々。マネーゲームの一方で、実働を支える人々は、彼らとの距離によって、遠くなるほど、生活の濃度が希薄になり、格差の底へと押しやられる。

政権を支持する層はこのコアとなる一部の層に加え、濃淡でいえば、濃い部類の組織や人々。これらは、濃淡が濃いほど、現状維持、集団結束、帰属意識が高く、投票行動を当然のことと考える。逆に濃淡の薄い方へいくほど、現状に不満があってもその要因を考えず、何かに集うこと、帰属することを嫌い、投票行動が生活の中に根付いていない。

薄い層は、社会的な関心も薄く、教育水準も高くない。当然ながら、高い教育と社会的素養を受けられる環境になかったからだ。同時に、生活に追われ、社会や政治に関心を持つことではなく、自分の置かれた状況を忘れるための娯楽やトレンド、ギャンブルや飲酒など麻痺させるための何かに束の間身をまかせることが先になる。

この時期になると、「選挙へ行こう」が決まり文句のように、現状に異議を唱える人々から発せられるが、残念ながら、選挙そのもの、投票行動そのものが生活の中にない人々が多数なのだ。

現状に異議を唱え、投票行動を呼びかける手法はすでに意味を失っている。そのことに、まず気づく必要がある。

社会を変えるとか、社会改革を提唱するとき、人々は無意識のうちに、ある一定の教育レベル、ある一定の社会通念、社会倫理や道徳を基盤として、それらを持ち合わせていると想定される人々にその主張を展開していた。格差が小さく、おしなべて生活水準が一定の人が多数を占めた時代はそれもよしとされたが、いまは、そうではない。

同時に、団塊世代の子ども世代、かつていちご世代といわれた世代やその子ども世代であるZ世代は、政治や社会的な事柄を議論することや現状に異議を唱えることが世代の中でも異端視されてきた。宗教と政治の話はするなという言葉がかつてあったが、それが恒常化した世代。

要は、それらは対立や議論の要因であり、それにふれると、まともな人間関係がつくれない、つくれないところか、壊す。それでは、事がうまくいかなから、禁句は避けて、うまく立ち回れというものだ。

学生運動の後、文科省が強烈に進めた管理教育もあって、イチゴ世代は実に体制に従順に育った一方で、バブル崩壊後の就職氷河期やリストラにもさらされ、一層、寄らば大樹の陰の安全神話に寄りかかるようになった。物言わぬか、言っても体制支持。このままでいけば、それでいいのさ式になる。

その世代に育てられたZ世代は、格差という激烈な波にのまれて、さらに生き残るために安全神話に寄りかかる。

どうしてそうなるかといえば、敗北の記憶しか強調されていないからだ。いろいろに反体制や反権力闘争はあったが、負けたじゃん。負けて変説したじゃん。あるいは、安保法制反対で盛り上がったけど、一瞬だったじゃん。統一教会問題で批判轟々だったけど、だれも何もいわなくなってるべ…云々。

何も変わらないという敗北の記憶だけが上書きされ、このままいけば、それでいいのさが、アップデートされ続ける。これも、政権と一体化したマスコミ報道の責任でもあるが、この敗北の上書きと現状維持のアップデートを巧みに操っている何かが問題なのだ。

これに対抗するには、「選挙へ行こう」ではなく、逆説的ではあるが、選挙そのものの無意味性を訴えるしかない。もし、この国にまだ一類の望みがあるとしたら、物言わぬ、無投票の人々にある、選挙なんて意味ないじゃんという先に立ち現れる、新しい政治像、政治家像なのだ。

敗北のアップデートは、そのとき、現状維持ではなく、現状を変える力へと結集するかもしれない。















 

 

 

イニシェリン島の精霊

ある旧知の女性に言われたことがある。「あなたは、なぜ、そんなにアイルランド好きなの?」

ぼくは、答えた。「わからない。なぜだかはわからないんだ。自分でもどうしてだろうと思う」

いまでこそ、アイルランドは海外IT関連資本の進出で、経済的に先進国としての体裁が整っているが、かつては、10万人以上の餓死者を出すような貧しい国だった。国の貧しさの元凶は言うまでもなく、近世から中世、近代、現代に至る過程で、常に侵略され、経済的にも、宗教的にも分断され、内戦が絶えなかったことがある。

 

特に、イングランドへの併合以後は、イングランド貴族、特権階級が分割統治し、国民生活は長く窮乏のどん底だった。食料搾取は当たり前。自国のためではなく、イングラントのための兵役が課され、産業らしい産業といえば、漁業、畜産、羊毛、痩せた土地での農業といった一次産業しかなかったのだ。しかも、イングランドに買いたたかれた。

そのため、未来への希望が持ってず、貧しさから国外へ逃亡、移民化する人々が絶えなかった。受け皿となったのはアメリカ、カナダなど北米だ。かのケネディ家もそうした移民の末裔。差別された民のひとつだったから、暗黒街とのつながりでもないとアメリカの上流階級にのし上がることは容易ではない。かつて治安の悪かったブルックリンにアイルランド人が多く集まったのもそれに所以している。

 

第二次大戦後、国が自治権を獲得してからも、イングランドの干渉は続き、それが、IRAを生む、北アイルランド紛争にもつながった。それまで仲の良かったカトリック教徒とプロテスタント教徒の近隣住民同士、兄弟同士、親子が、裏切り、密告の上に、血を血で洗う内戦を繰り広げた。ベルファストの暴動虐殺事件はあまりに有名。

 

いまIRAとの和解により、平和は維持されているが、北アイルランドはいまもイギリス領のままだ。

こうした過酷な歴史を象徴するのが、アイリッシュダンス。映画「タイタニック」のデカプリオ演じるアイリッシュ青年と移民仲間が三等客船で踊る姿をご覧になった方もいるだろう。

アイリッシュダンスは、立ての跳躍とステップが主なダンス。そうした舞踏がなぜ生まれたのか。理由は、労働監視するイングランド兵士に見られたとき、踊って遊んでいると思われないためだ。外から家の窓を見られても、踊りに興じているように見られない。部屋の中を歩いているように見える。あるいは、足で小麦をこねているように見まがう。それほどに、享楽さえ制限された監視下にアイルランドの人々はいた。

その歴史の中から、アイルランドは、4人ものノーベル文学賞作家を生んでいる。イェーツ、ショー、ベケット、ヒーニー。ケルト文化の寓話や民話、アイルランドの土俗的文化を背景に、言葉の魔術といってもいい隠喩や暗喩に溢れた文学。その他にも、世界的作家として、「ガリバー旅行記」スウィフト、「サロメ」ワイルド、「ユリシーズジョイス、「吸血鬼ドラキュラ」ストーカーなどがいる。

荒涼としたアイルランドの海岸風景と一方で、自然林や湖畔といった美しい風景も持つ。自然を根幹にしたケルト文化を否応なく実感させられる生活。同時に、侵略と支配によって分断される理不尽さを受け入れざるえなかった現実。それらが見えてくると、ぼくは、アイルランドに特別な感情を持たざるえなくなっていくのだ。

人が近しくありながら、他人であり、友情や愛情、家族愛、それらを支える信頼や道理があるとき急変するという人の世の現実。その中で、同じ土地、同じ民として、どういう関係を生きなければならないかの選択を常に迫られる。そこから生まれる他者性をどう生きるかの問は普遍的なものになる。

ベケットの小説にこんな一節がある。「あの二人の男女は、いま口づけを交わし、ひとつに重なり合っていっている。だが、人がひとつになることなど不可能なのだ。人はいつまでも、ただひとつの魂でしかない」

この問いの厳しさが失われているいまの世界では、人と人がどう他者性を生きるかの正確で、冷静な判断を見失う。悲しいかな、それがいまの世界、社会の混迷の底にある。

映画「イニシェリン島の精霊」(監督脚本マーティン・マクドナー 主演コリン・ファイル)これを承知でご覧になれば、いかに優れた名作であるかご理解できると思う。
ドミニク役のバリー・コーガンの演技が素晴らしい。

 

あなたなんか、大嫌い!

社会に無関心であろうと、政治に興味がなかろうと、世界情勢と無縁だと思っていようと、人はそれらと無関係でいることはできない。

ごくありふれたぼくらの日常も、それらと関係なく存在するのではない。興味のあるなしや関係性の自覚・無自覚とは無縁に、ぼくらの日常はそうしたものに絡め取られているし、逃れることはできないのだ。その無数の積み重ねの上に歴史がつくられているに過ぎない。

ぼくが演劇を始めた15歳の頃から、常に意識させられたのはそのことだった。とりわけ、人間の身体性を表現の術とする演劇において、人間の生理としてある言葉の矛盾、所作の矛盾をどう表象するかは大きな課題としてあった。

たとえていえば、「あなたなんか、大嫌い!」と叫びながら、そこに内在するエロスをどう観客に提示するかの問いだ。リアリズム演劇のくだらなさは、これをすべて個人史に帰結させるところにあった。もっといえば、体験主義や経験主義に落とし込んでしまうところだ。

個人史やだれかの体験、経験という軽薄な類型にしてしまうことで制作者も俳優も、そして観客もひとまず安心する。だが、そこには、リアルは浮上しない。演劇におけるリアルとは、人間の生理における普遍的な何かにたどり着くことだ。疑念と問いを重ねないと、その何かには到達できない。でなければ、ギリシャ悲劇も、シェークスピアもいまに現前化などできない。

だが、この身体表現は、現実的であるか=普遍的であるかの尺度は、実は、演劇そのものの世界にはない。あるのは、いまを生きる俳優の身体性やそれを形づくっている暮らしや社会、国、世界の方だ。

シェークスピアにせよ、近松にせよ、イプセンチェーホフにせよ、ベケットにおいても、人間の根源にある自己矛盾や葛藤、愛憎、恨みつらみや嫉妬心、虚栄心といった人間の根源的にある生理を普遍的なものとして提示しているから今日まで生き延びている。それをさせているのは、折々にあった人間の生活様式(エトス)であり、それによって形づくられいる社会や国、世界のあり様だったのだ。

個人史や体験、経験主義に依存していては、それはできない。人の真実とは何かを問う先に、社会は、国は、世界は…という問いを持たない限り、リアルは浮上しない。戯曲の技も演出の巧みさも、すべてこれを浮上させられるかどうかにかかっている。

師と仰いでいる渡辺保先生もだが、鈴木忠志氏はわが意を得たりを20歳の頃に与えてくれた演出家。そして、宮台真司氏と齋藤環氏も、演劇とは異なる世界の方ながら、同じようにわが意を証明してくれた先生たちであり、志を重ねる友である。

昨今、テレビ・映画がつまらないといわれる所以にはこれがある。ということを改めて整理させてもらった書籍と舞台。

舞台の方は、何十年かぶりに観た、劇団SCOT(旧早稲田小劇場)の『サド侯爵夫人』(三島由紀夫作 鈴木忠志演出 吉祥寺シアター

書籍の方は、『神なき時代の日本蘇生プラン』(宮台真司藤井聡 対談書ビジネス社)
『「自傷的自己愛」の精神分析 齋藤環著 角川新書』

いずれも、お見事。名舞台 名著である。

#SCOT
#鈴木忠志
#齋藤環
#自傷的自己愛精神分析
#宮台真司
#神なき時代の蘇生プラン

だれか書いてくれないかねぇ

残された者、生き延びている者には使命がある…またそう思わせる親友の訃報を知った。亡くなったのはひと月前。

 

大仰なことや派手なことが好きではなかった。だからだろう。葬儀もお別れの会もなく、身内での見送りだったらしい。突然の死だったこともある。

 

つい昨年まで大学教授だった。退官してから論文書籍の執筆中だったこともあるかもしれないが、あまりの急な死だったために、関係方面への連絡や身辺整理、資料整理であっというまのひと月だったのかもしれない。妻子とは別居生活で、ほぼ単身暮らしだったから、奴の執筆資料の整理だけでも大変だったろうと思う。

この数年は毎年、正月と盆に、電話をくれていた。近況の報告と互いの仕事のことが主な話題だが、学生時代からの癖で、政治経済から社会問題、世界情勢まで尽きることがない奴だった。大学1年からの付き合いで、それが自然なことだった。


入学してまもなく、必須の英語の授業で声をかけて来たのは、奴の方からだ。研究者への道ヘ進んでからは想像もできないが、当時はアクティブな奴で、クラスで目を付けた人間を呼び集め、勉強会のようなものを始めた。

コアになるひとりとして、オレに白羽の矢を立てたのは、奴らより遅れて大学に入ったオレに思想的なにおいを直感したからだった。それは的中していた。だが、政治や思想と距離を置き、大学では英文学と演劇研究、シナリオ執筆に専念しようとしていた。それを引き戻したのは、紛れもなく奴だ。

とはいえ、貧しい学生たちだったから、四畳半のアパートで持ち寄りで料理を囲み酒を飲み、議論し合うだけ。それぞれ専攻に移ってからも、勉強会は続け、卒業論文集までつくってしまった。それぞれの進む道で社会変革を起こすというのが根底にあったが、それを続けたのは、結局、オレと奴だけになった。

人の面倒を診るのをいやがりながら、いつも世話役をやっていたのは奴だ。オレが劇団時代、芝居の上演費用のために、何人もの女性と付き合い、それがバレて吊るし首に合いそうになったとき、女性たちの相談相手になり、オレをけなしながら、事を丸く収めてくれたもの奴だった。

厳しい環境にあえて身を置くのが奴の流儀で、相当にしんどい事でもあえて挑み続けた。研究の道以外は、自己主張をしないで、何でもがまんの男。オレにはとてもマネのできるものではない。ねっからの研究者だったのかもしれない。

奴が最後に電話で話したとき、いつもの口癖のようにいった。「だれかいないかねぇ。オレたちの学生時代を書いてくれる奴…」。オレはリアル過ぎてどこかに虚構がないと無理だと返した。だが、奴の思惑はわかっている。オレに書かせたかったのだ。

こんなに早く先に逝きやがって…。生き延びた奴の使命って奴を、あいつはオレに担わせやがった。

踏み絵を突き付けた銃弾

遠藤周作の小説「沈黙」。国内外で映画化・舞台化されて来たが、記憶に新しいのは、2016年公開された『沈黙 サイレント』(監督マーティン・スコセッシ 主演アンドリュー・ガーフィールド)だろう。※余談だが、この映画公開のあと、私は札幌駅の千歳空港へ向かうホームでアンドリュー・ガーフィールドに会っている

ご存じの通り、遠藤周作の「沈黙」は、日本に武器商人たちと共に来日したイエズス会の宣教師たちと隠れキリシタンへの宗教弾圧を描いた作品だ。

 

その中で象徴的な宗教審判の道具として登場するのが「踏み絵」である。

「踏み絵」は、16世紀初頭から、江戸幕府の禁教令により、薩摩藩を除き、キリスト教の布教が広がっていた九州諸藩が隠れバテレン摘発や宣教師への棄教(キリスト教を捨てる)の道具として使用したものだ。後に、九州以外の諸藩でも使用された。

実際には、信長の死後、豊臣政権になってから、秀吉は、イエズス会キリスト教伝道を隠れ蓑に、日本をバチカン支配下に置くイエズス会のミッション、謀略を見抜き、キリシタン弾圧は始まっていた。イエズス会の布教侵略については、映画『ミッション』(監督ローランド・ジョフィ 主演ロバート・デニーロ 1986年カンヌ映画祭パムルドール賞)が詳しい。

 

18世紀になると、信仰心を失わなければ、踏み絵を踏んでも神への冒涜にはならないという考えが定着し、形骸化するが、九州、とりわけ長崎などでは正月の年中行事のようになり、俳句の春の季語にまでなっている。

だが、禁教令が出て数十年の間は、全国でキリシタン弾圧が続き、踏み絵を踏めなかった者は処刑、または獄死という現実が待っていた。宣教師(日本人宣教師を含む)の処刑も単に斬首ではなく、真冬の水攻め拷問など、その手法は残忍を極めた。

「沈黙」では、棄教してしまった先輩神父の抜け殻のような姿といまそこで踏み絵を踏むことに苦しむ隠れキリシタンの葛藤する痛ましい姿。その狭間で苦悩する若い神父が自らの信仰心とは何かを自問し続ける姿を描いている。

苦難にある人の前で、救いではなく、沈黙する神は一体、私や神を信仰する者に、何を問いかけているのか…。だが、その答えは、自からの信仰心の真偽を問う沈黙=神の沈黙の中にしかない。ナイフのように突きつける問い。それが踏み絵だった。

いま私たちの国は、イエズス会ならず、旧統一教会というエセキリスト教、カルト集団反社組織の謀略に、政権が同調、加担し、自民党ばかりでなく、保守系反共=反左翼=ファシズムの国会議員やエセ労働組合、エセ社会貢献団体、マスコミや大企業までも籠絡されている現実を知らされた。

統一教会とつながりがあるかどうかの政治家やマスコミ、大企業への踏み絵は、18世紀形骸化した踏み絵のように、いまその実効性はまったくない。

 

踏み絵に実効性がないのではなく、「沈黙」のような自身の存在を賭けた自問=反省がないのだ。だから、踏み絵をすり抜けた言葉の言い回しで、回避する。それで事は片付くと踏み絵(関係を示すデータ)を差し出されても、ごまかしている。報道としても、一部の番組を除き、反社集団としてからの議論を始めない。

だが、それは同時に、こうした政権、政権の圧力に隷従するマスコミ、企業を長く許して来た私たち国民ひとりひとりへの踏み絵でもあるのだ。

統一教会という反社集団によって引き起こされた事件によって、失われた家族関係もあれば、貧困や生活難にあえぐ人々がいるだけではない。

政権の汚濁を請け負う反社組織として汚れ役を担わせ、国政を利用して利権で私利私欲を貪る政治家たちの特権を許し、結果、非正規雇用でしか働けない者、そこにすらすがれない貧困を増大させ、中小零細企業の倒産や廃業の増大、若年世代の自死者の増大など、国の未来に希望を持てない国民を増大させてきた。

それは、踏み絵を前に、なんら内省しない、できない愚かな政治家を国会や地方議会に送り、経済的な利益さえあれば、それがどういう利権に基づいているかも斟酌しないで
踏み絵を前にしなかった、私たち、あなたたちの責任でもあるのだ。

この国は、いま踏み絵を差し出された、無知な子どものふりをする輩が跋扈している。それは魑魅魍魎の顔を仮面の下に隠した、安倍晋三に代表される姿だ。

それを突き付けたのは、山上という青年の放った銃弾である。彼は、それによって、結果的に、私たち国民にも踏み絵を突き付けている。


その問いを政治家が受け止める気がないなら、私たち国民みずからが、次の世代へ向けてあるべき、自問と行動を起こさなければならない。

 

 

      ”Please forgive us, We forgive you."

2002年の初夏のことだ。9.11からあと数か月で1年という時期だった。ぼくはある平和イベントの企画プロデュースを任されていた。そこで流す取材動画収録のため、単身、撮影機材を抱えて、アメリカへ飛んだ。

 

折しも、ネオコンに支配されたブッシュ政権が9.11の報復としてアフガン空爆を行い、イスラム圏の過激派を支援し、化学兵器を開発している証拠をつかんだとして、イラクへの軍事進攻が現実のものになろうとしている時期だった。

だが、国連安保理の承認は得られず、共同作戦という名目で、イギリスを始め、フランス、ドイツなど、主要先進国アメリカのイラク戦争に参戦を表明し始めていた。日本も海上自衛隊の派遣を決定しつつあった。イラク戦争は、もはや時間の問題という情勢だったのだ。

だが、イラクやアフガン、パレスチナなど、イスラム圏の紛争地域で難民や被災住民の支援を続けていた日本のNGO、NPOや活動家を知っていたぼくは、彼らからの情報で、アメリカの根拠なき報復が世界の秩序をより混乱させると確信していた。

そのため、アメリカ国内の実状を知りたいと、9.11以後アメリカ国内で反戦平和を願い活動する現地の市民団体やジャーナリズムの情報を追いかけていた。アメリカの良心がそこにあると信じたからだ。

そのとき、ネット情報で知ったのが、ニューヨークに拠点を持つ、Peaceful Tomorrowという9.11遺族会から生まれた反戦市民団体だった。自分の家族、親族を奪われながら、イスラム圏への報復の攻撃をやめよと訴えた人々だ。

また、ベトナム反戦運動当時ワシントンポストの記者だった人物が立ち上げた、ロスの市民ラジオ放送局がアフガン空爆イラク戦争に強く反対する報道をしていることを知った。

ロスとニューヨークの現地コーディネータに連絡し、撮影許可と取材協力を取り付けるように依頼した。それを受けて、平和イベントの中で取材動画を流すことと、今現在、イスラム圏で活動している国内NGO、NPOなどの担当者に登壇してもらい、会場で現地の動画と反戦のメッセージを発表してもらう企画にまとめた。

このイベントの趣旨に賛同して、ミュージシャンの山本潤子さんが生ライブで参加してもらえることにもなった。「こうしたイベントに参加させていただいて、光栄です」潤子さんの言葉が胸に刺さった。

3日間のロスの取材のあと、国内線で5時間かけて、JFK空港に降り立ち、真っ先にワールドトレードセンター跡地に向かった。当時は、瓦礫が撤去されていたが、倒壊したビルの回りに囲いがされているだけのものだった。周辺のビルには、センターが倒壊したときの破片による生々しい傷跡がいくつも残されていた。そして、マンハッタンの至る所に、星条旗が掲げられている。

ぼくは、そこで、被災者への鎮魂の言葉や大切な人を失くした悲しみの言葉、いのちを賭して、救出に当たり、亡くなった消防士や警察官への感謝の言葉の中に、この一文をみつけたのだ。

               ”Please forgive us, We forgive you."



Peaceful Tomorrowから、取材対象者として、紹介された、現代美術のキューレーターのバレリーという高齢の知的な女性は、トレードセンターで働いていた甥を亡くしていた。未婚で子どものいなかった彼女には、自分の子どものような存在だったと話してくれた。

しかし、ニュージャージーでのクエーカー教徒の集会での講演でも、彼女は甥の話に涙しながら、こう人々に訴えていた。

アメリカがこれまで中東やイスラム圏の人々にしてきたこと、イスラエルに無償で大量の武器を援助し、それによっていかに多くの人が理不尽な死や怪我を負い、生活を奪われたきたか。そして、それすら9.11が起きるまで、自分を含め、多くのアメリカ人は知ろうとも学ぼうともして来なかった…。

「私たちの悲しみをまた他の多くの人に与えないでください。そして、私たちを許してください。私たちもあなたたちを許しますから」

バレリーはそう言って話を締めくくった。その言葉はいみじくもぼくがトレードセンター跡地でみつけた、一文と同じものだった。偶然であるが、Peaceful Tomorrowの人々の願いそのものだったのだ。いや、心あるアメリカ人のそれは総意であり、ユニバーサルバリューそのものだとぼくは実感した。

後に、バレリーは、長崎の原爆の日に来日し、講演をしてくれている。

平穏で豊かな日常にいる人は、それだけが世界だと思う。あるいは思いがちだ。だが、自分たちの平穏で豊かだと思っている毎日は、だれかの犠牲の上に成り立っている。

富める人には見えない風景と現実が、この世界、社会にはある。テロという最終手段に訴えるしかないところまで人を追い込むのは、その想像力の不足と現実認識の甘さだ。

キリスト教的に、互いの許しを乞う前に、自分の優位性が見落としている社会の現実を知ること、それは市民にも求められるものだが、政治家がまず最初に始めなくてはいけないことだ。

それが失われているところに、貧困が生むテロは、姿を現す。



 

茶番劇と茶菓子

茶番劇という言葉がある。日本では、歌舞伎から生まれた言葉だ。

下働きの未熟な役者は、楽屋で上位の役者たちにお茶の給仕をするのが常だった。つまり、お茶の係、茶番が楽屋でのもっぱらの仕事。

舞台での出番がないので、上位の役者たちが楽屋を出ていってしまうとやることがない。そこで、下手な即興芝居をやって茶番の仲間内で戯言のようにして遊んでいた。そのうち、開幕前や幕間のつなぎに、客の前でも出たとこ勝負の即席でやるようになる。大方、芝居の師匠に勉強させてくださいと懇願でもしたのだろう。

だが、素人同然だし、出たとこ勝負だから何の計画も設計もない。芝居は当然、下手でどうしようようもない。芝居が下手だけでなく、即興劇自体が内容もなければ、芝居の落ちまですぐに見え透いてしまう駄作。とても見るに堪えないというので、だれも見向きもしない。最初っからネタバレの漫才やコントのようなものだった。見え透いている上に、技量も工夫もないから、飽きられる。

そこで、茶番の得意を生かして、楽屋で余った茶菓子を即興の終わりに無料で配るようになる。つまらないが、菓子がもらえるならと、これに付き合う客もいたが、茶菓子をもらうだけのこと。


それが転じて、見え透いて下手くそなウソやバカバカしい行動を奏して茶番劇というようになった。

この国は、この30年というもの、自公政権の茶番劇を見させられ続けている。

とりわけ、安倍政権は、反共、反社で世界のっとりをたくらむ旧統一教会と岸以来の密接なつながりを持ち、国益を売り飛ばして来た。

しかも、政権の汚れ仕事、それは選挙動員だけでなく、目障りな人間や政権を批判する人間、政権や議員の機密や陰謀を知る人間を恫喝や暴力の脅威、社会からの排除といった恐怖に陥れる役割りまでやらせていたのではないかという疑念まで裏コミではもたれている。実際、マスコミやジャーナリズムへの旧統一教会の抗議は、ほぼ恫喝だ。これは、これまで安倍政権が堂々とやってきたこと。

それゆえに、宗教法人格の剥奪や解散命令が出せない。旧統一教会の悪知恵は、政権や議員個人の表に出せない情報を握ることで、政権や議員を支配することだ。これは彼らの信者獲得法とまるっきり同じ。そのためには、汚れ役であろうが、刑法罰に問われようが平気でやる。

目的は国家ののっとりであり、世界支配だから、人々の生活困窮や破壊、いのちの重さは重要ではない。目的のためには、手段を選ばない。これも安倍政権の政治手法と同じ。

だが、この茶番劇が成立したのは、終わりに菓子が配られ、それほしさにこれに付き合う客=安倍政権支持者がいたからだ。

山上容疑者の犯行で白日になりながら、安倍と旧統一教会の関係を追求しない。安倍がキーマンであったことは政権もわかっていながら、麻生の恫喝で、国民の合意なし、国会審議なしで、国葬をやる。

安倍国葬で利するのは、国家でも、国民でもなく、旧統一教会。安倍国葬は=旧統一教会の権威保持になり、2世3世への被害ばかりか、新たな被害拡大を生む。

麻生を含め、こうしたことが自公政権でなんのてらいもなくできるのは、弱みと同時に、菓子さえ配れば客は茶番劇に付き合ってくれるとタカをくくっているから。つまり、投票にいかない半数の国民は政権では、国民の数に入っていないのだ。

茶菓子(利権)に群がる、固定票があれば、安泰で、投票にいかない国民の中から反旗を挙げる人間が出たら、またぞろ旧統一教会など反社に圧力をかけさせればいいと考えているからだ。旧統一教会も政権コントロールを手放す気などさらさらないから、のっとりのためには、闇でますます力を貸すだろう。

しかし、これほど見え透いた猿芝居、茶番劇を前に、マスコミもジャーナリズムも新聞も深く切り込む声を上げない。ごく一部のマイナーといわれるジャーナリズムだけ。

逆に、政権が数にいれてない国民の方が、自公の実態、国葬の実態、引いては、東京オリパラの実態、モリカケや桜の実態を見透かしている。

だれも指摘しないが、山上容疑者は、恫喝好きの育ちの悪い麻生を筆頭に、政権が数にいれていなかった、その国民のひとりだったのだ。