秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

困ったちゃん 困ったくん

世の中には、困った人がいる。

 

かつて、それはKYなどともいわれた。周囲の空気が読めない人ということだが、いまどきの困った人は空気が読めないだけではない。

 

やたら、正義を振りかざす人やさして知識もないのに、あるがごとき錯覚をしている人、表層的にしか物事をとらえられない人たちだ。そうした人たちがテレビに毎日のように登場し、無邪気に私見を垂れ流す。

 

テレビはドキュメンタリーや映画しかみない人間になったのは、マスコミが垂れ流す報道の軽薄さ、なんとか評論家の底の浅さに辟易したからだ。

 

「マスコミの劣化はこの国の政治家・官僚の劣化に等しい」という悲しむべき公式が誕生している。

 

ところが、多くの人はそうでもないらしい。いま、情報操作という言葉が大流行りだが、この国の多くの人がその情報操作によって、情報操作されていないものを社会からあぶり出し、たたき、打ちのめす。

 

ひどい世の中になったものだと嘆息をもらしながら、自分自身がひどい世の中をつっているひとりであるという自覚がない。それがこの国の国民の正体だ。

1959
年に上梓された、三島由紀夫の評論・随筆に『不道徳教育講座』(角川書店刊)がある。

講演会やテレビインタビューなどで軽妙洒脱に語る三島の口調がそのまま文体になった本で、既存の価値観に縛られて、画一主義、前例主義で保身に走る、この国の官僚機構や企業、組織の古めかしさを鮮やかに切っている。世間という実態ない同調圧力がこの国をダメしている指摘もこのときすでに三島はやっている。

いまの時代に息苦しさや嫌気の差している人にはぜひ読んでもらいたい。

その本の上梓から10年後、三島は自決するのだが、天皇制と憲法改正、軍隊の創設をいった三島が、古い道徳感や倫理観を吹き飛ばす軽妙な評論・随筆を書いているのが理解できないという薄学の人も多い。

 

だが、三島の中では一貫している。三島がこだわったのは、失われていく、この国の禁忌性だ。

 

禁忌性とは、侵すべからずもの、犯すべからずなもののことだ。逆の言い方をすれば、畏敬、畏怖すべきもの、触れてはならないものと言ってもいい。

 

三島が伝統文化や土俗的な地域性・地方文化にこだわったのも、そこに禁忌性の領域が残されているからだった。踏み込んではならない領域、場所。それは結界の張られた森の一隅であり、神社や海の岩礁に立つ社といった祭事の折でもなければ、その神髄に近づくことも立ち入ることもできない存在だ。

 

それらを軸としてつくられる秩序や伝統文化だ。

 

実は、法と法制度、その根幹をなす社会倫理や道徳とは、この禁忌性を拠り所として成立している。

 

禁忌性が失われることで、社会秩序や倫理、道徳、規範といったものが溶解し、歴史の中でつくられたきたその土地、その国、その社会の姿までもが崩壊する…。その危機感が三島に真正天皇=神としての天皇の必要性を切迫させた。

禁忌なるもの、畏怖と畏敬の存在。その最たるものが、天皇だったからだ。真正天皇の復活が独立国家としてアメリカと決別する唯一の道だと三島は考えていた。それは、日本国の文化基盤の回復と三島の中では等価だったからだ。

異議はあるにしても、思考の流れと壊れゆく日本社会と文化を立て直そうとする意志と覚悟において、ぼくは三島を否定しない。否定してはいけないと考えている。

いま、この国には、困ったちゃん、困ったくんが溢れ返っている。それも民の安全と生活を守るべき、政治の中枢、経済の中枢にはびこっている。

 

それは三島が指摘した、禁忌性の喪失が、国をつかさどる政治家、官僚に始まり、経済界、民衆にまで、後戻りのできない崖っぷちまで浸食しているからだ。

禁忌性は排他や差別、階級制といった矛盾もはらんでいるが、そこを新たな知恵で克服し、あるべき秩序と社会倫理を組み立て直すときをぼくら国民は迎えている。

 

コロナ禍は、困ったちゃん、困ったくんを一掃しなければ、この国、世界に未来がないと教えているのだ。

 

 

 

 

 

縺れ糸を解く

子どもの頃、なんの糸にせよ、糸で苦労した記憶がある。

 

ぼくは生来とても不器用で、細かなことがとても苦手だった。

 

ご飯を食べるときも「食べる先からこぼして~!」と母によく叱られたものだ。

これはいまに至ってもまったく治ってない。ぽろぽろこぼす。

 

買ったばかりのお気に入りのカットソーやワイシャツ、ネクタイ、カーディガンに度々食べ物をこぼし、染みをつけてしまう癖がある。その度にクリーニング屋さんに、あらん限りの染み抜きの技術を駆使させ、手間をかけている。

 

そんな少年がスイスイと針に糸を通すことができるわけがない。やっと通せても、縫ってる先から糸を絡ませてしまう。

 

父に釣りに連れていかれれば、今度は、釣り糸を絡ませてしまう。釣り糸というのは、絡んで、縺れてしまうとなかなか解けるものではない。しかし、父は器用に絡んだ糸を元通りにしていたものだ。決して、切って捨てようなどという考えはなかった。

 

そんな不器用なぼくだったが、小学校の高学年の頃から中学、高校、大学、劇団、映画、WEB、イベントと人を集合して物事をやるようになって、人を動かしていくには、うまく糸を通すこと、絡んだ糸を解く技が必要なのだと思うようになった。

人を集め、何がしかの目的に向かって、認識を共有しながら、連携していく。そこには人と人をつなぎ、共通の意志や幻想によってつながる糸がいる。

だが、それは絆とか、心ひとつにとかいった、感情論や雰囲気でできることではない…ということも、糸を通すことの難しさの中で教えられてきた。

システムや制度とまではいわないが、そこには、その場の勢いやノリで片付けられない、計算された図面や図面を立体化するための知恵やテクニックが必要なのだ。糸を通し、つなぎ、それによって物事が支障なく動き、人も動く。絆やワンチームといった言葉だけでそれは実現しない。

何か支障や障害があったときに、その絡み、縺れを解けるのも、その知恵やテクニックがあってこそのことだ。

いま、コロナ禍と景気の低迷へと加速度が増す中、ぼくらの国は愚策、無能といってもいい政権や中央官僚、省庁によって、絡み、縺れ切った社会の現実を突きつけられている。そもそも、糸を通してもおらず、ただ、権力中枢で利権という糸をつないで来ただけだからだ。

 

利権だけでつながった糸は、国家的危機や国民生活の困窮へ対処するつながりと力を持っていない。生半可にやろうとして、縺れ、絡ませ、手も足も出なくなる。国家的危機に対処するための国民国家のために糸をつないで来ていないのだから、当然だ。無力だ。

利益相反、癒着、贈収賄…白日の下に晒されたら刑法犯として多くの罪状が挙げられるに違いない政治の中枢とそれを指摘も批判もせず、利権、既得権に群がる官僚、企業、団体、個人の存在…。

これほどまでに、戦後、政治の中枢が腐り切った時代を見たことがない。またそれに異議を唱える国民の声がマスコミや内閣府電通の力で抹消されている時代も見たことがない。

だが、縺れた糸は必ず解くことができる。国民国家のための糸が脆弱で、ないに等しいなら、ぼくらの意志と行動、国民の声を糸にしていけばいい。

当時、まだ、巡査部長で薄給の父にはこれといった趣味も道楽もなかった。唯一の楽しみが釣りだった。その父が釣り糸ひとつを無駄にしないために、黙々と縺れた釣り糸を解く姿に、ぼくは子ども心にも尊敬を覚えた。

縺れた糸を解く…。それができる大人でなければ、次の時代を生きる人たちに、あなた大人たちは何を語れるというのか。





ソーシャルディスタンスとウェルフェア 超克の時代

他者との関係性をどう生きるか…それが有史以来、人類が絶えず直面してきた課題だ。

人と自然、人と人、人と集団、人と地域、人と社会…。その関係のあり方は、国家形成に深く関与している。これらの合意された関係性で国家はつくられているからだ。

また、関係性を保つために創造され、承認された国家基盤が、異なるそれらとの関係性、つまり、これを多国間と保てるか、保てないかの基本因子にもなっている。

税のしくみをもとにする国家と民との契約もここから生まれている。

民は公民として国家に納税し、同時に、国家はその貢献に見合う、生活と安全を公民に補償する、ウェルフェアの概念は、ここから誕生した。人々の公民としての国家への貢献は、国が補償する社会福祉と表裏一体で生まれたものだ。

仮にこの契約が守られない、反故にされるということが起きれば、民は国家に対して、公民としての義務を果たさなくなる。

場合によって兵役という形で、人々は国に貢献することで税を軽減、免れることもできた。契約が反故にされれば、納税を放棄するだけでなく、人々は国のために戦うことをしなくなる。

他国との戦争とは、いわば、異なる合意によってつくられた他国と維持できていた関係が破綻したことを意味する。それは、つまり、自分たちの国と民との契約が、異なる合意によってつくられた他国によって反故にされる危機に直面しているということだ。

これを守るための戦い。それゆえに、人々は兵役に自ら順じ、参戦した。にもかかわらず、自国によって反故にされるなら、戦うことそのものの意味を根本から失う。

つまり、納税の義務は契約上成立しなくなるし、公民として国家を維持するための兵役の義務を果たす必要も生じない。

契約なのだから当然のことだ。

国家への帰属意識や公民意識はこれを背景に形づくられ、その延長に「愛国心」なる不確かなものに一定の幻想を成立させてきた。それが、中世から近代、そして、現代への歩みであり、その強化にって、現在の国家という枠組みの集まりである、「世界」は形づくられている。

今回の新型コロナウィルスによる世界規模の感染拡大は、この問題を改めて、世界中の市民、国民、そして治世者たちに突き付けているのではないかとぼくは考えている。

15世紀から16世紀にかけたペストの大流行は、今回の新型コロナがもたらすであろうと想像されている社会変容と同じく、まったく新しいステージを世界に提供した。

 

ロシアに象徴されるように、民の大部分を占めていた農民は、ペストによってもたらされた生活苦で国家の契約反故に反抗できず、生活苦のまま農奴と化していく。

だが、一方で、「マグナ・カルタ」で王への帰属から自由を勝ち取った経験のあるイングランドでは、人口減により、農地を預かる小作農民が貴族に抵抗し、農業の維持を盾に独立自営農民の地位を確立していく動きが生まれた。

 

引いては、これが貴族社会を崩壊へ導き、産業革命につながっていったのだ。農奴と化したロシアの農民は、貴族エリート集団とつながって、その後ロシア革命を実現する。

いずれも貴族の崩壊。


こうした変化、あるいは革命は、間違いなく、新型コロナ禍によってもたらさせるだろう。これまでの国家と民衆の契約が変わるからだ。変えざるえなくなるからだ。


なぜなら、ペストの例からもわかるように、現状のしくみのままでは、国家と民衆の双方において、新たな合意形成がなされなければ、労働人口の減少、ソーシャルディスタンス時代のその後、次を生きられない。その中でのウェルフェアの提供もできない。

労働人口流動性、企業活動のグローバライゼーションが世界の先進国を底辺で支えてきた、新自由主義を基本とする現代資本主義社会において、ソーシャルディスタンスは致命的な弱点を露呈している。

自国ファーストが世界を覆おうとする矢先、新型コロナによる感染拡大が地球規模で起きたのは、何か見えない力の存在さえ感じさせるほど皮肉なタイミングだった…そう感じる人は少なくないはずだ。

人が人との一定の距離を保つという生活は、人々の生活意識、帰属意識、公民意識の在り方も変えていくし、現実にすでに変わり始めている。距離を保つことで成立する生活スタイルがあると考える人、距離を保っていては、生活ができないと痛感している人…


いずれも、どうこれまでとは違う人との間合い、関係をつくればいいかの問いに直面している。それは冒頭で述べているように、人と国、国と国の関係にまで広がっている。

距離を保ちながら、それでも帰属意識、公民意識をどう成立させられるのか。成立させるための社会保障をどのように提供していくのか。

治世者も、民衆も自らの問いとしていかなければ、この過酷な現実の次を見ることはできないだろう。それは、治世者自身が自らを超える能力があるかどうか。民衆が自ら、これまでの権力依存を乗り越え、蜂起できるかどうかにかかっている。

ニーチェが言う超人となれる自己超克を果たせる人がどれほどいま世界にいるか、それが問われている。







 

 

 

 

 

 

 

もがき方のヒント

新規サイトに移動した最初に、なんとなく書く。

三島由紀夫の文学にはふれても、三島がなぜ、あれほどに土俗的な生活文化、通俗と崇高さの混濁に執着したか、正確にいえば、憧憬を強く抱いていたかを知る人は少ないだろう。

演劇的にであれ、民俗学的にであれ、あるいは、哲学、宗教学、脳科学、生物学、運動生理学的にであれ、伝統や文化といったものへの探求は、身体性を通して、自分たちは何者であるかを問い直す作業だ。

地方文化の集積と洗練化が国、世界の文化をつくるように、土俗的、通俗的な習慣、慣習、それらがつくる社会通念といったものが、国、世界の様々な生活文化の基準にまで深く関与している。

言い換えれば、地方の土俗性が生み出す粗削りながら力強い確信に満ちた文化の発信がなければ、そして、その継続と維持がなければ、国、世界の基準を支えるものが揺らぎ、文化の停滞、引いては、国の疲弊を生むことにつながる。

流動性を生きないと決意したものたちにだけ与えられる、この確信が失われれば、地方の溶解が始まり、ついには、基準とすべき拠り所、根拠は失われ、自分たちは何者でもない、何かという不透明性しか得られなくなる。

自分たちの足元を見直していけば、窮屈さや優位さを含め、地方の何たるかがわかり、都市の何たるかが見えてくる。

その先には、この国の何たるか、世界の何たるかが見えてくるはずだ…三島はそう考えた。ゆえに、地方の文化、身体性にこだわり、性的で、通俗的、土俗的なものを突破する先に見える、崇高なものの屹立を夢想したのだ。

だから、三島は性を描いた。それも実に二次元的に。

生来、人間の営みとしてあり、業ともなる性なるものは通俗でありながら、性愛という言葉があるように、愛という掴みどころも、確かさもない、ゆえに、崇高なものとつながっている。それを相対化させ、より鮮明にするために、あえて二次元の表層として描いた。

愛を描くのではなく、葛藤を。憎悪を。愛を信じるのではなく、切りさいなむ。それでもなお、性でつながり、だが、通俗な単なる淫欲に終わらないものにこそ、美があると三島は信じたからだ。

ぼくらの時代は、この通俗と崇高の混濁が生む世界をよしとしない文化をつくってきた。通俗と崇高とに整理し、整理するだけでなく、通俗的なるものを猥雑なもの、余剰なものとして、葬ってきたのだ。

あるいは、通俗を消費社会に取り込んできた。それを文化の多様性という人もいる。

だが、それによって運ばれてきたのは、ますます深まった自己の不透明性だ。

ぼくはいま、二つの書籍の企画出版に挑戦している。自らの不透明性ゆえに、限りなく承認欲求が高くなったこの社会、世界で、そこでの<もがき方のヒント>となればと考えてのことだ。

自己責任という名のカッティングオペレーション

貧富の差を語るとき、自己責任という言葉がこの国では付きまとう。付きまとうだけでなく、まず、先に出るのは自己責任だ。

顕著になったのは、言うまでもない、小泉政権時代。アメリカ、イギリスから始まった新自由主義の潮流をこの国にいわば強引に導入したときだ。

同じ頃、就労形態の多様性は人々の新しい生き方の選択の幅を広げるという美名にカムフラージュされて、フリーター、契約、派遣といった非正規雇用労働の拡大が経団連の旗振りで始まっている。

終身雇用への足かせがはずれ、成果主義が登場し、ここにもリストラされる社員への自己責任論が登場する。

社会的にも、当時、いじめや不登校、ひきもり、ニートの問題が浮上していたが、これもそうなった側に問題があるとする自己責任論が幅を利かせていた。社会への適応能力に欠けているお前のせいだ。つまり、自己責任だというわけ。

中東の紛争地帯で活動していたNPO団体のスタッフが拉致されて、彼らが無事帰還したとき、激しいパッシングに遭った。その後、命を落とした青年やジャーナリストもいたが、ここでも紛争地帯へ行った本人の自己責任を問う声が激しかった。

自己責任という言葉は、じつに都合のいい言葉だ。すべを自己責任で片づければ、政治や社会、制度の問題点は指摘されることもなく、追求もされない。

あいつが悪い。それがあれば、自分の問題として考える必要もなく、自分の正当性だけを主張できる。社会の矛盾や根底にある政治や制度の問題に目をむけず、他者の苦しみや苦悶に思いを馳せる必要もない。

競争に参加できな者、競争に勝てない者、競争に置いていかれる弱い者は、社会の発展や成長に寄与しない。そんな考え方が、障害者施設を襲わせ、コミュニケーションが得意でない人間へのいじめや排除、暴力を生み、助長させる。外国人への暴言や偏見、高齢者への虐待を、児童への、女性への虐待を日常化させていく。

ぼくらの社会は、自己責任の名のもとに、問題を見えなくする、なかったことにする。ぼくらの社会は、自己責任の名のもとに、社会の速さとは別のスピードしか持たない者の人権や生活権、場合によって生存権すら反故にする。

社会に起きるさまざまな事件、事故、犯罪を犯人探しと自己責任で、表層的に片づけ、自分たちの問題、国や社会のあり方の問題としないとことで、この国はなんと長い間、多くの動機不明の事件、無差別殺傷事件を生み出していることだろう。

カッティングオペレーションで世界はよくない方向にこそ向え、決して改善はされていかない。












主役はだれかなのか忘れてはいないか

女性の参政権がこの国で認められて、まだ、わずか70年しか経っていない。戦後、日本国憲法が誕生してからのことだ。かのイギリスでさえ、わずか100年程前。

それまで、女性は政治にかかわることもできなければ、自らの権利や人権を主張することもできなければ、それが守られてもいなかった。

女性は国、社会、地域、職場、家庭で常に脇役であり、男性の雑用係であり、男性の隷従者であることを要求され、決して、舞台の主役となることはなかったのだ。

近代と前近代との大きな違いは、市民が分け隔てなく、政治に参加できているか否かだ。そして、政治の使命は、市民の実状と声に向き合い、分け隔てなく、市民一人ひとりの生活を守り、その質を高めていくことでしかない。

なぜか。それは舞台の主役は、市民であり、国民だからで、決して政治家でもなければ、官僚でも、まして、財閥や大手企業の経営者、天下り企業のものではないからだ。

ところが、いまこの国では、子どもの7人にひとりが貧困に置かれ、食事を満足に食べられない状況が放置されている。

若い単身女性の多くが非正規雇用でしか働けず、平均年収は114万円。バイトの掛け持ちでは追い付かず、風俗でからだを売るか、セックスで生活費をもらうパパ活でもしないと普通の生活ができない状態に置かれている。

それもかっての援交のように、遊ぶ金欲しさのお小遣い稼ぎではなく、今日の生活を維持するためにだ。

シングルマザーの生活に至っては貧困率が50%を越え、先進国でトップとなっている。

法外な年収を得る人間や親の資産を背景に安定した生活を過ごす層がいる一方、明日の暮しもギリギリの相対的貧困が広がっている。しかも、これは増大こそすれ、是正の方向には向かっていない。親の貧困が子どもへとつながる、貧困の連鎖が生まれ、固定化してきているからだ。

貧困と借金、大学の貸与奨学金返済による生活苦は、目の前の時間と仕事、それによって得る、わずかなお金しか見えなくさせる。生活苦は身体的に過重な労働となるだけでなく、それが心も壊していく。

そんな生活を強いられて、とても社会の問題や政治を考えるゆとりなどない。意見を言うどころか、自己の権利や人権にさえ、思いいたらない。

人は生活に追われてしまうと、何も考えなくなる。どんな理不尽さも受けれ、流されてしまう。社会の枠から外れてしまっている自分を責め、諦めていく。

そして、このつらさ、苦しさを終わらせるために、自死を選んでいく。この国の自殺率のトップは若年世代だ。自殺率を含め、それは先進国でも群を抜いている。

すべて主役は、政権や政治家、政党だ。中央官僚や行政だ。根拠のない正当性は雇う側、企業にあり、そこに働く人間は、脇役以下に追いやられている。

言葉遣いは丁寧で慎重ながら、自分が主役であるという意識は揺るがない。

指示通り、意のままに動いていればそれでよく、動かなくなっても入れ替え可能な人間はいる。親からの資産もない、非正規雇用労働者を量産しているからだ。格安で働く外国人労働者を受け入れていくつもりだからだ。

この状況が新しい日本の未来像の姿だとしたら、若い世代を食いつぶしていくことがこの国の未来だとしたら、夢を持ってこの国に来た外国人を使い捨てにすることがこの国のこれからだとしたら…

この国は、近代とは名ばかりの前近代を目指していることになる。いまの世の中、ぼくら国民を含め、主役がだれなのかをすっかり忘れてはいないだろうか…。














承認という病のバイオハザード

かつて、ぼくらの思春期の承認は、先生から褒められることでも、親から認められることでも、成績がいいことでもなかった。

それらはあった方がいいには決まってるし、ぼくらもあった方がいいだろうなとわかっていた。

だが、幼少期から思春期前期まではそうだったとしても、思春期になるとそれがすべてではない、当てにならないものという見限りが決定的に、ぼくら、少なくともぼくには、あった。

どこかで、いまある世間の承認の基準が絶対なものではないという確信があったからだ。それよりも、自分の納得いく形で、納得できることを、未熟さゆえの苦労があっても、大人の評価を気にかけず、楽しみながら実現していく方が、よほど自分に自信が持てる…そう考えていたように思う。

同世代の仲間や近い世代の後輩たちから認められることが何よりも重要で、上の世代や大人の照準に合わせて、もらう承認など、意味がないと思っていた。承認は勝ち取るもので、もらうものは何の価値もない。それは、本質的に、いまも変わらない。

ぼくの言葉や取組が若い世代や高校生たちの心に届かなくなったら…。社会的に居心地のいい肩書きを与えられ、評価を受け、それに安心感や優越感を覚えるようになったら…。それは、ぼくが思春期、青年期に評価されても仕方がないと思った、くらだらいない老害オヤジに成り下がった証だと思っている。

いま、若い世代から中年世代まで、憑かれたように、だれでもいい他者からの承認や組織や集団からの社会的評価の承認の欲求に溢れている。それは、ほぼ社会病理といっていい。

それが社会の保守化を進め、権力の求める従順で、批評性を失った人間を量産している。生活の障害や問題、苦難は、すべて自分のせいだと思い込むのも、被害、暴力に遭っても声を出せない人間をつくり出すのも、それを見過ごしてしまう人間を増大させているのも、それだ。

社会的な枠組みから外されてしまったら、どう生きていいかわらかない。そのために、社会的な枠組みの中にいるためには、何でもする、何でもやるという人間をつくり出しているのだ。

社会的な枠組みに残ることさえできれば、それをどのような手段で得たとしても、自分への承認がもらえ、弾き出されることはない…そう考えるからやっていられる。

しかし、それは一人の人間の生き方として、途轍もなく、恥ずかしいことだし、騙されていることになる。

倫理とかに照らしてなどいう、つまらない道徳観からではない。そうやって得た社会的な立ち位置から、かりそめに得た、底割れしそうな足場に立って、他者に語れる言葉があるのか、他者へ伝えられる何かがあるのだろか。次の世代へ残せる何かがあるのだろうか…ということだ。

それは、ぼくには、承認のための自傷行為のように思えて仕方がない。ぼくらの社会は、承認という病の感染者が広がる、バイオハザードへと向かっているのかもしれない。

感染者ではない者から見たら、その風景はあまりに異常に見えるはずだ。見えないとしたら、それはあなたがもうすでに承認という病に感染しているからに違いない。
















数学なんて苦手~とかいってる場合じゃない

人類は文明といわれるものが誕生する以前の古代から数学を使っている。石器をつくるにしても、獣を襲うにせよ、火を起こすことにも数学や物理学が関与している。

文明の誕生と発展に、数学は欠かせないもので、ぼくらが話す言葉、言語も数学だ。音楽も、演劇も、美術も、芸術といわれるものもその域から出てはいない。どんなアヴァンギャルドであっても、同じだ。使う数式や公式を変えているだけのことだ。

多くの人は気づかない。おもしろい小説、映画、舞台といったものには、必ず、神話や寓話が内在している。ぼくら人類は、そして脳は、ぼくらが思うほど、奇抜でも、斬新でもなく、じつは類型的にできているのだ。

ただ、類型的だからこそ、謎をみつけると解きたくなる。わからないことを知りたくなる。類型から抜け出すための新しい何かをみつけたくなる。いわば、それが人類の発展を支えてきた。いつの時代も同じように、じつに類型的にね。

結果、ぼくらの世界には、多くの定理が存在する。

定理が存在するのは、人類が自然界にある多くの謎を解きたいと思い、そこに命題見つけてきたからだ。

そして、それまでの歴史で見つかったいくつかの公理や定義をもとに、命題に解答し、これを証明することで定理としてきた。

なぜか。それは世界を知りたいと考えたから。自分とは何かを知りたいから。よりよくありたいと願ったから。もっといえば、世界をつくった創造主(神)は何かを知りたかったからだ。

天地人という言葉ある。何事かを達成するためには、天の時、地の利、人の和のどれが欠けてもうまくいかないという意味だが、物事がうまくいっているときには、そこに定理が動いている。つまり、理に適っていることをやっているからだ。

失敗事例や成功事例をぼくらは、ついつい感情的に説明したり、あるいは天地人のような譬えにしてしまうけれど、そこには、定理に基づく、きれいな数式が実は隠れている。

こうすればこうなるのではない。その式にたどりつくまでには定理が動いている。こうなるための、あらゆる要素がそこにある。当然ながら、こうしたいという感情、思い、願いとったものも、実はエネルギー、力という数にできる。

数、数式は嘘をつかない。定理に逆らい、勝手な公理や定義、でっちあげた数と数式は、それが正しいとは決して、証明されないからだ。

ぼくらの国、いまの世界は、定理を無視し、国のリーダーといわれる人たちが、勝手な数や数式をでっちあげ、あたかもそれが国や世界の命題を解決できる証明された
定理をみつけたかのようにふるまってはいないだろうか。それこそが正しいことであるかのように扇動、誘導しながら。

それを見破れないのは、ぼくら自身が定理をわかっていないからだ。数学なんて苦手~とか、いってる場合じゃない。

ぼくらくらいなもの

数人の高校生たちが始めた環境保護を訴える運動。それがいま欧米を中心に世界の高校生に広がっている。

ハリウッド女優や政治家のインターン女性が、勇気を出して声を上げたセクハラ被害。いまはme too 運動として世界的な言葉になった。

格差への反発はパリを中心に大規模デモを生み、政権が慌てて低所得者救済政策を打ち出したが、デモの勢いは止まらなかった。

「小事にとらわれず、大局を見ろ」「木を見て、森を見ず」。

つまりは、物事や事象を小さな視点、狭い視野でなく、俯瞰から捉えろということだけれど…果たして、この言葉、いまぼくらが生きている世界にふさわしい譬えといえるのだろうか。

食料品や日常雑貨品が値上げになり、年金支給額や生活保護費が削られる。社会のセーフティネットである高齢者保護や福祉予算が軒並み削られている上に、実質賃金は減少が続いている。

それでも、株価が20,000円代を維持しているだけで、日銀短観も政府の景気動向発表も決して悪いとは発表されない。根拠となる指数のデータの改ざんや破棄があってもだ。

先進国で唯一、子どもの貧困が7人にひとり。単身女性の平均年収が114万円。シングルマザーに至っては、その貧困率は世界1位。

東日本大震災からの復興は、お涙頂戴式の話題は盛んに取り上げられても、いまどうなのかを課題や問題点を的確に、丁寧に伝えるマスコミはじつに少ない。

そうしたことは、小事とされ、大局で復興は進んでいる、経済は安定しているとほぼすべての大手マスコミが報じる。大局でオリパラを盛んに煽りながら、小事で、どうあるべきかの議論を提案する報道はない。

多様性と流動性の時代といわれるようになってから、グローバリズムに軋みが出ているにもかかわらず、実態生活からかい離して、国際社会の動向だからと一律に小事を否定した結果、イギリスのEU離脱を生み、アメリカのトランプというおおよそ大統領にふさわしくないヤンキーを権力の頂点に置いてしまったのだ。

こうした視点を持つためには、当然ながら大局を、森を見なくてはできない。

だが、それを見るために必要なのは、小事をしっかり理解することからだ。漫然と全体を見ても、いまという時代、大局も、森も、その実態を捉えることはできないようになっている。どれが大局なのか、どういう森なのかがわからない。

まずは、自分の眼が届いていない、小事の現実に目を凝らすこと。グローバリズム資本主義を変えられるのは、そんな力だ。

そして、それは、いまもう始まっている。おそらく、まだ腰をあげなてないのは、この国のぼくらくらいなものだ。








どこへ行けるというのか

『オリンピックの身代金』(KADOKAWA刊・奥田英朗著)という本がある。テレビドラマ化もされている。

昭和39年の東京オリンピックを舞台にした、いまでいう爆破テロ計画を企てた男のノンフィクションだが、その背景に描かれいるものは事実だ。

当時、日本中がオリンピックに沸き、華やかな表舞台にしか目がいかない中、会場建設や高速道路整備に東北の農村地域から多くの季節労働者が動員され、事故死を遂げている。

余談だが、その中には、まだ福島第一原発のなかった、大熊町なども含まれている。原発を受け入れた最大の決め手は、原発があれば、家族が一年一緒に暮らせることだった。それほどに農家は出稼ぎに頼らなくてはまだ生活が厳しい時代だったのだ。

飯場といわれる簡易宿泊所に寝起きし、人入れ仲介業者(現在の派遣会社の前身)にピンハネされ、低賃金と過酷な労働の中で、楽しみといえば、博打と酒。それで身を持ち崩し、故郷を捨てた者もいれば、ホームレスになった人間もいる。

誘惑に負けず、懸命に働き、妻子の待つ故郷へ帰れる者が大半だが、現場での怪我や事故における傷害や死亡補償は当時、ないに等しかった。だから、過酷な現場、危険な現場ほど手当がよく、また、それが作業経験がないための死亡事故にもつながった。

ぼくらがいま利用する高速道路も、旧国立競技場もそのような犠牲の上でつくられ、ほどんどの人がその事実をいまでも知らない。

兄のいのちを奪われ、見向きもされない現実に、自らも東京という都市に受入れられなかった男が地域格差と貧富差への復讐として、オリンピックの虚栄を暴くために事件を起こす。

主人公にはっきりしたテロ意識があったわけではない。また、政治的な思想を持って行動したわけでもない。

しかし、思想犯に仕立て上げられ、左翼思想にかぶれた男の未遂事件として葬られる。それが権力の側にとって、彼が一番訴えたかった地域格差、貧困格差を隠す都合のいい筋書だったからだ。

この小説がいいたいことははっきりしている。そして、それは今日の東京オリンピックの姿にもつながっている。

昭和39年のあのときと経済事情は大きく変わった。だが、地域間格差はより広がり、経済はゆるやかな回復などという美名に隠れて、置き去りにされている貧困がこの国には広がり、ますます拡大する方向にしか、政策は機能していない。

復興オリンピックなどといわれながら、その恩恵を受けるのはごくわずかな東北の地域と東京だけのものだ。

いま新年号に沸く、この国は、繁栄の影で見捨てられているもの、切り捨てられているものへ目を向けることもなく、どこへ行こうというのか、行けるというのか。