秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

渡辺保先生のこと ーヘンタイー

東宝戯曲科に入ると、帝劇・芸術座の芝居が無料で鑑賞できた。鑑賞学習という名目で、大劇場・中劇場の舞台を観たことない人に大規模劇場の表現方法を学させるためだ。

 

事前に東宝本社の演劇企画室に行き、戯曲科担当の事務方に観賞届を出さなくてはいけない。その折り、稽古場ではできない雑談をすることがあった。

 

何かの話の流れで、渡辺先生の話題になった。先生はお忙しく、どこかに打合せに出られていた。

 

「歌舞伎や演劇評論のほか、歌舞伎の研究書を出版されながら、企画室長として帝劇、芸術座の舞台制作に関わる先生は、本当に演劇好きだ」そんな話を事務担当の方が、独り言のようにお話された。

「いやいや。そりゃそうですよ。だって、先生は、慶應の学生時代。早慶戦で学校が休みになると、神宮球場ではなく、早稲田の演劇博物館に来て、歌舞伎の資料や古書を読み漁っていた方ですから」

ぼくがそう言うとその方は、驚かれたような顔になり、「君ぃ。よく、渡辺さんのそんな事まで知ってるね!」と言われた。

渡辺保ファンなら当然知っていることだが、先生は小学生のときに歌舞伎を初めて観てから、雷に打たれたようになって、歌舞伎に夢中になった。因みに、渡辺先生は、明治期に誕生した財閥、東京渡辺銀行創業者の子孫。歌舞伎を始め芸術文化に早くから触れられる余裕と機会があった。

 

かって、鈴木忠志氏が、渡辺先生との対談で、シェークスピア、鶴屋南北は、悪人や狂人、ヘンタイばかりを題材にして、それが人間の真実を付くからおもしろいという話になった。

すると鈴木氏は、「何いっての。あんたも、ヘンタイじゃない。寝る間も忘れて、歌舞伎を観て、評論書くなんて、ヘンタイの狂人だよ」と冗談めかしに言われ、会場が爆笑した。

 

先生は、歌舞伎と名のつくもの、歌舞伎と縁のあるものに、貪欲に触れ、学び、狂気と言ってもいいほどに、歌舞伎の人だった。

歌舞伎や能楽、演劇に夢中になるご自分のことを「自分の業(さが)」なんだよと、よく口にされていた。インタビューでもだが、ぼくは、実際に先生の口から聞かされた。

 

晩年、歩行も危なっかしい状態で、お供も付けられず、新劇、歌舞伎、能など、芝居をお一人で、観劇される姿を見て、まさにそう思わされた。芝居の神さまが憑依している。そう感じることが多々あった。

先生お薦めの人間国宝の大蔵流茂山先生の能楽、狂言を国立能楽堂でご一緒したときも、介添えがいるほどの危うい歩き方をされていた。幸い公演関係者の女性が「私が帰りのタクシーにお乗せしますから」と引き受けてくださった。


劇団SCOTの東京公演の折も、ご一緒になったが、お供しますと言っても「大丈夫。大丈夫」とおっしゃり、教育評論家で映画監督の和田氏と話し込んでいらした。

先生は、人に迷惑をかけること、頼ることをとてもいやがる頑固ものでもあったのだ。それが最晩年に仇となったが……。

話しを戻す。

 

戯曲科では、まず、原稿用紙数枚のスケッチのようなオリジナル台本の提出に始まり、それを俳優科の俳優たちが実際に読み合わせして、役者の体をとおして自分の書いたセリフがどうなるかを学ぶ。

 

次に一幕物の戯曲を書く。そして、1年以内に2幕物の戯曲を書き上げ、その成果を評価されて、デビューできるかどうかが決定される。

 

はず、だった。

 

ちなみに、ぼくは数枚のスケッチ原稿までは提出したが、一幕物は提出できなかった。

入社したばかりの映像制作会社が、CM制作と企業CI、販促動画の制作をスタ―トさせ、そのすべての脚本、演出、プロデュースを任されてしまったからだ。戯曲科に顔を出すのがやっという状態だった。


面接のときにお会いし、その後も脚本構成のあり方を教えていらした演劇評論家の藤木宏幸先生からは、こっぴどく叱られた。戯曲科の講師としていらしていた演劇評論家の大笹吉雄さんも未提出の理由を厳しく問われた。

ぼくはその頃、捕鯨禁止の問題をテーマに一幕物を書こうとしていて、実際に虎ノ門にあった、日本捕鯨協会や捕鯨基地だった、神奈川県の田浦にも取材で行っていた。だが、自分が舞台にしようとしていた景色と感覚が違い過ぎた。

どうしたことか、大笹先生にそう言うと、「それは理解できます。台本がそれで遅れたのなら、それはそれで仕方ない」と許してくださった。

藤木先生からは、それからチクりチクりと嫌味をいわれながら(笑)、戯曲科に顔を出していたが、「遅くてもいいから、とにかく一幕物を出しなさい」が先生の口癖だった。

 

嫌われてるなぁ……と思いつつ、ふと思いついて、劇団解散後、結婚式の引き出物のひとつとして、袋とじの軽印刷した、過去の自信のある上演台本をまとめた作品集を、ある日、藤木先生にお渡しした。

「ちょっと新作は時間が掛かりそうなので、参考までにこれを提出します。先生のご意見を聴かせてください」。確か、そんな言い訳をしたと思う。

それから、一週間程経ってからだ。

戯曲科のまとめ役をしていた、松永忍と山村美絵から、ちょっと内密に話があると声をかけられた。松永忍は、前進座の制作を辞めて東宝に来ていた。山村は、元CAで、専業主婦だった。後に、中丸美絵の名で、『喝采鳴りやます』(新潮社刊)で日本エッセイストクラブ賞を受賞した。ちなみに妹は、日本人初のマリア・カラス賞を受賞した、中丸美千絵だ。

呼ばれたのは、他に2名。東宝現代劇企画室から、5人の指名があって、内々に、直接、次に帝劇で上演予定の原作本の台割シノプシスを書いて、企画室に提出してもらいたいという知らせだった。

理由は、はっきりしていた。規定の戯曲科の提出台本を待たず、直接、企画室で作家の選抜試験をやるということだった。

そのとき、ぼくは、はっとなった。他の4名には、悪いと思ったが、自分を選ぶだめの渡辺先生が仕掛けた選抜試験トリックだとわかったからだ。

ぼくが提出した戯曲集が渡辺先生のところに届いている。そう直感した。

 

ぼくが高校生の頃から新劇の名作を鑑賞して来たこと、面接であった当時の若手演劇人、ブリキの自発団の生田萬さんや善人会議の横内健介と面識があったこと。いずれも後に岸田戯曲賞を受賞している。

 

東大の野田秀樹と同時期に早稲田で劇団を興していたこと。清水邦夫や別役実の作品を読破していること。渡辺先生を始め、当時の演劇関係者の著作を読んでいること……

 

企画室の事務方の人たちの反応。藤木先生や増見先生の反応。それらを勘案すると答えは一つしかなった。


そして、始まった選抜試験。始めは、『舞化粧』という山本富士子主演の江戸時代劇のシノプシス(あらすじ)書きだった。

 

 

                               続く。

 

 

 

 

 

渡辺保先生のこと ー菊田イズムの継承と発展ー

今日に続く、東宝現代劇の礎を築いたのは、言うまでもなく、戦後、小林一三東宝社長に求められ、商業演劇を塗り替えた菊田一夫先生だ。

 

敗戦後の荒廃した日本にあって、『鐘の鳴る丘』を始め、戦争の爪跡を描きながら、明日への希望を描いた、菊田ドラマは、国民から圧倒的な支持を得ていた。

 

昭和27年(1952年)『君の名は』がラジオ放送されると、全国の銭湯が空っぽになったという逸話がある。それほどに影響力があったということだ。

 

東宝の取締役に就任されてからは、谷崎潤一郎、林芙美子といった作家の作品を戯曲化し、文芸路線の商業演劇を確立される。小林一三社長の悲願でもあった、自前の劇団、東宝現代劇がつくられると、常設劇場として、芸術座(現在のシアタークリエ)がつくられ、菊田先生は、その経営と運営にも関われた。

越路吹雪を起用し、オリジナルミュージカルを日本で初めて創作上演したのも菊田先生だ。舞台演出の経験から、改築する帝国劇場(2025年2月第四次改築のため閉館)の舞台構造の様式や仕様にも関わられた。それは、テレビ時代へ向かう中で、舞台に求められるものが、テレビに負けない、銀幕の大女優を軸にした文芸路線とミュージカルだと予見されていた証だ。

 

そして、この菊田イズムを発展させたのが、企画室長を務められた渡辺保先生だった。

山田五十鈴、山本富士子、佐久間良子といった映画界の大女優を主役にした、文芸路線を踏襲されながら、小劇場出身の型破りの演出家、蜷川幸雄を使い、秋元松代先生の台本で、浅丘ルリ子、太地喜和子といった映画、新劇出身の大女優の舞台を演出させた。

後に、先生から東宝の舞台の話を聴かせていただく中で、大御所の大俳優、長谷川一夫先生の演出や蜷川幸雄氏の商業演劇デビューで大変なご苦労をされていたことを知った。

演劇には、「いい舞台は、いい本がなければ生まれない」という言葉がある。本と言うのは、戯曲のことだ。60年代小劇場運動では、この戯曲第一主義が徹底的に否定され、俳優の身体性や生理に主眼を置く作品づくりが隆盛を極めた。

だが、渡辺先生は、決して、俳優も身体性や舞台の生理をないがしろにする方ではなかった。歌舞伎こそ、まさに俳優の身体性と切り離せない芸術であり、それを新たな解釈で再生させた早稲田小劇場の舞台を理解できる方だったからだ。

 

その上で、舞台台本の重要性を訴えられていた。それは、キャスティングに拘った菊田先生も同じだったと確信している。だからこそ、渡辺先生は、俳優科と別に、新たに戯曲科をつくられたのだ。

東宝戯曲科は、新しい商業演劇の書き手、優れた劇作家を養成するために、渡辺先生が自ら音頭を取り、設置されたものだったのだ。そして、企画室長、評論家として舞台に関わるご自身を越えて、菊田一夫先生のように、創作者の立場から東宝現代劇の新たな地平を拓く、人材を求めていらした。

 

小劇場と違い、大きな資本(投資)が動く商業演劇には、いくつかの決まり事がある。その枠の中で、台本には、マンネリ化しない創意と工夫がいる。大劇場・中劇場の舞台構造やその規模の舞台が持つ生理を知った上での斬新さも求められる。

 

渡辺先生は、歌舞伎が形骸化することで、次第に衰退し、人気が凋落たように、早くから商業演劇の限界を見据え、菊田先生から受け継いだ東宝現代劇の文化を次代に繋ぐことに、当時、知恵を絞られていたのだと思う。それは、歌舞伎評論家ではなく、東宝の社員としての使命感だっといまは思う。


                              続く。

 

渡辺保先生のこと  ー菊田イズムの継承と発展ー

今日に続く、東宝現代劇の礎を築いたのは、言うまでもなく、戦後、小林一三東宝社長に求められ、商業演劇を塗り替えた菊田一夫先生だ。

 

敗戦後の荒廃した日本にあって、『鐘の鳴る丘』を始め、戦争の爪跡を描きながら、明日への希望を描いた、菊田ドラマは、国民から圧倒的な支持を得ていた。

 

昭和27年(1952年)『君の名は』がラジオ放送されると、全国の銭湯が空っぽになったという逸話がある。それほどに影響力があったということだ。

 

東宝の取締役に就任されてからは、谷崎潤一郎、樋口一葉、林芙美子といった作家の作品を戯曲化し、文芸路線の商業演劇を確立される。小林一三社長の悲願でもあった、自前の劇団、東宝現代劇がつくられると、常設劇場として、芸術座(現在のシアタークリエ)がつくられ、菊田先生は、その経営と運営にも関われた。

越路吹雪を起用し、オリジナルミュージカルを日本で初めて創作上演したのも菊田先生だ。舞台演出の経験から、改築する帝国劇場(2025年2月第四次改築のため閉館)の舞台構造の様式や仕様にも関わられた。それは、テレビ時代へ向かう中で、舞台に求められるものが、テレビに負けない、銀幕の大女優を軸にした文芸路線とミュージカルだと予見されていた証だ。

 

そして、この菊田イズムを発展させたのが、企画室長を務められた渡辺保先生だった。

山田五十鈴、山本富士子、佐久間良子といった映画界の大女優を主役にした、文芸路線を踏襲されながら、小劇場出身の型破りの演出家、蜷川幸雄を使い、秋元松代先生の台本で、浅丘ルリ子、太地喜和子といった映画、新劇出身の大女優の舞台を演出させた。

後に、先生から東宝の舞台の話を聴かせていただく中で、大御所の大俳優、長谷川一夫先生の演出や蜷川幸雄氏の商業演劇デビューで大変なご苦労をされいたことを知った。

演劇には、「いい舞台は、いい本がなければ生まれない」という言葉がある。本と言うのは、戯曲のことだ。60年代小劇場運動では、この戯曲第一主義が徹底的に否定され、俳優の身体性や生理に主眼を置く作品づくりが隆盛を極めた。

だが、渡辺先生は、決して、俳優も身体性や舞台の生理をないがしろにする方ではなかった。歌舞伎こそ、まさに俳優の身体性と切り離せない芸術であり、それを新たな解釈で再生させた早稲田小劇場の舞台を理解できる方だったからだ。

 

その上で、舞台台本の重要性を訴えられていた。それは、キャスティングに拘った菊田先生も同じだったと確信している。だからこそ、渡辺先生は、俳優科と別に、新たに戯曲科をつくられたのだ。

東宝戯曲科は、新しい商業演劇の書き手、優れた劇作家を養成するために、渡辺先生が自ら音頭を取り、設置されたものだったのだ。そして、企画室長、評論家として舞台に関わるご自身を越えて、菊田一夫先生のように、創作者の立場から東宝現代劇の新たな地平を拓く、人材を求めていらした。

 

小劇場と違い、大きな資本(投資)が動く商業演劇には、いくつかの決まり事がある。その枠の中で、台本には、マンネリ化しない創意と工夫がいる。大劇場・中劇場の舞台構造やその規模の舞台が持つ生理を知った上での斬新さも求められる。

 

渡辺先生は、歌舞伎が形骸化することで、次第に衰退し、人気が凋落たように、早くから商業演劇の限界を見据え、菊田先生から受け継いだ東宝現代劇の文化を次代に繋ぐことに、当時、知恵を絞られていたのだと思う。それは、歌舞伎評論家ではく、東宝の社員としての使命感だっといまは思う。


                              続く。

 

渡辺保先生のこと ー出会いー

渡辺保先生を知ったのは、大学の教養課程選択科目で武智鉄二先生(日活ロマンポルノの監督もやられた)の演劇概論、河竹登志夫先生(河竹黙阿弥の御子孫)の日本演劇史概論、鳥越文蔵先生の歌舞伎概論などを学んだときだった。いずれも第一人者で早大卒の先輩たち。

だが、それらの講義で渡辺先生を知ったのではない。先生たちの話の中で、歌舞伎を現代に復活させた稀有の演出家として、鈴木忠志という存在を知ったことが大きなきっかけだった。

ぼくは、少し遅れて来た早稲田小劇場(現在の劇団SCOTT)ファンで、大学前のモンシェリーという純喫茶の2階を拠点に公演活動をする最後の頃に、初めて舞台を見た。

それは、鈴木氏の構成による、シェークスピアの『マクベス』を土台にした、『夜と時計』。完璧に打ちのめされた。ぼくは、英文科に進もうとそのとき、決めた。シェークスピアを原書で読みたいと思ったからだ。以来、早稲田小劇場の舞台にのめり込んだ。


それからしばらくして、早稲田小劇場は、富山の利賀村に拠点を移した。

その間、鈴木演出を学ぼうと舞台だけでなく、鈴木氏の著作を読み、氏が絶賛する、世阿弥の「風姿花伝」に始まり、鶴屋南北の歌舞伎やシェークスピア、海外の現代演劇の演出家の演劇論、現代思想まで、関連する本は、とにかく読み漁った。

 

早稲田小劇場初期に座付き作家だった別役実もすべて読破し、文学座の公演にも通った。当然ながら、『テアトロ』『新劇』など、演劇雑誌は発売日に買っていた。新作の戯曲と演劇評や演劇論を読むためだ。


その中で、早稲田小劇場を絶賛した、渡辺保先生を知ったのだ。

早稲田小劇場の富山でのこけら落とし公演後、友人の知り合いが女優として参加していた縁で、声を掛けると「どうぞ、どうぞ」と、なぜか、打ち上げの席に同席させられてしまった。

 

そこにいたのは、舞台に登場していた、観世流能楽師の観世寿夫先生、弟で俳優、オペラ歌手だった観世栄夫先生。劇作家の清水邦夫氏、演劇評論家で後に、東宝で再会する大笹吉雄先生など、早大卒の演劇の先輩たちの他、錚々たる方々がいらした。女優の白石加代子さんにお酌いただいたときは恐縮した。

その中に渡辺先生もいらしたのだ。

先生は、東宝現代劇企画室長で、他の評論家や演劇関係者と違い、東宝の社員でもあった。後に、いまでは信じられないが、東宝は、帝国劇場で、早稲田小劇場の俳優と著名俳優を使い、鈴木忠志構成・演出の『スウィニー・トッド』を上演している。

あまり一般には知られていないが、いまも東宝で上演が続く、『レ・ミゼラブル』など、海外ヒットミュージカルの国内上演権を獲得したのは、演劇企画室長の渡辺先生と演劇部プロデューサーだった古川清先生の力が大きい。

余談だが、古川先生とは東宝戯曲科の頃には、面識がなかったが、晩年、友人が経営する外苑前の飲み屋でお会いし、東宝戯曲科にいたとお伝えすると、「何だ。君だったのか!」と言われ、主宰されていた舞台も拝見した。

「渡辺さんから、いい歳で小劇場なんて、やるんじゃないよって、怒られちゃたよ」笑いながらおっしゃったのを覚えている。ちなみに、古川先生は、昭和のコメディアン俳優、古川ロッパの息子さんだ。

渡辺先生とは、富山でのそんな微かな出会いだけで、ご専門の歌舞伎評論のほか、新劇、現代劇、前衛演劇まで広く評論活動を行われていて、そんな著名評論家の先生とまたお会いできるとも、演劇について語り合うことなど、恐れ多くて、到底ないと思っていた。

何冊か先生の歌舞伎関係の評論や研究書を読み、他の評論家とは全く違う視点や切り口があることに新鮮な驚きがあった。だが、実は、豊富な知識と見識、視点以上に、文章の巧みさに圧倒された。評論というより、美しい文章と斬新な言葉遣いに溢れ、こんな文章を書く才能とは、生涯ご縁はないと思ったのだ。

高校、浪人時代、そして大学と演劇をやり、そのまま就職もせず、劇団を続け、15年が過ぎた頃。利賀村で、微かに渡辺先生と同席してから5年以上経ったときだ。

劇団を解散し、結婚を機に、貧しい演劇人の暮らしから、社会復帰して、映像の世界へ舵を切ろうとしていた矢先のことだった。新聞の募集広告に、「東宝戯曲科募集」の記事を見つけた。

商業演劇に抵抗がなかったわけではない。だが、募集記事の公募主催に、東宝現代劇企画室とあった。すぐに、渡辺先生の姿が浮かんだ。早稲田小劇場を絶賛した方なら、自分の脚本や舞台を認めてくださるかもしれない。そんな淡い期待があった。そして、合格するかどうかもわからないまま、応募したのだ。

筆記試験の後、面接があり、そこには、演劇評論家で、共立女子大学の教授をされていた藤木宏幸先生、俳優座の演出家だった増見利清先生がいらした。いずれも演劇人ならだれもが知る方だ。増見先生の新劇とは思えない、斬新な演出『ロミオとジュリエット』(山本圭・佐藤オリエ)の舞台を高校のときに見ていた。

面接では、いままで上演した舞台のことや演劇トークで生田萬さんや流山児さんと登壇したことなど、聴かれるまま、答えたが、その席に、渡辺先生はいらっしゃらなかった。ただ、両先生の反応で受かったなと思った。

合格後、戯曲科のパスを渡され、帝劇の楽屋口から地下の稽古場に通うようになった。

しばらくして、東宝現代劇企画室の戯曲科担当スタッフと両先生、戯曲科のメンバーとの懇親会が東宝御用達のパブレストランであった。渡辺先生は、一瞬顔を出されたが、風のように帰られた。

富山利賀村と同じく、またも微かな出会いだった。それが、数ヶ月後思わぬ展開になるとは、まったく想像もしていなかった。


                               続く。

 

桶が笑う

かつて黒船に乘って、ペリーが来航したときの話だ。下田の町にある桶屋の桶に目を止めた。

木材と竹のタガだけでつくられた桶は、水を入れても漏れない。日々の生活用品で、水桶、洗濯桶、湯桶、そして棺桶と日本人の生活には欠かせないものだった。

ペリーは、日本人の生活の中にある、この木工を主体とした技術の高さに驚き、当時の米国大統領ミラード・フィルモアに書簡を送っている。

「日本は、そう遠くない将来。世界有数の技術大国になる可能性が高い。日本人の初等教育普及率は高く、勤勉で、いずれ欧米に比肩する力を持つだろう」

実際、江戸の寺子屋文化のおかげで、国民の半数以上が読み書きができる国は、当時の世界では高い水準の教育レベルだった。イギリスでさえ、3割程度の時代だ。

ペリーは、日本の潜在的な力を見抜き、それが徒弟制度の中で磨かれた職人技にあり、同時に、寺子屋文化で幼少の頃から身に付けられていった算盤、暗算、読み書きといった知的教育と道徳、倫理、社会規範、礼儀の躾教育、生活態度の育成によって支えられていることをわずかな滞在で理解したのだ。

 

これは日本に限らず、どの国家にも、そして世界の持続可能性を考える上でも当てはまる。重要な要点を指摘している。

私の子どもの頃もそうだが、水桶でも洗濯桶でも風呂桶でも、長く使うと水漏れが始まる。プラスチック製品などだと、割れてしまえば、捨てるしかない。

だが、木桶は、桶屋に持って行けば、修理ができる。板を貼り換え、タガを交換する。それを木槌でしっかり叩いて固定すれば、木が腐食するまで、持つのだ。器用な大人は、自分で修理していた。

こうした文化でわかるだろう。

物を大事にする。しかも、高い金属製ではなく、安価に手に入る木材で間に合わせる。

壊れ掛ければ、それを直して使う。腐食しても乾燥させれば、風呂煮炊きに使える。土地に返せば、土になる。すこぶる物、自然にやさしい。

そして、そのやさしさは、物に向かう姿勢。物を作ってくれた人、それを使う人の心のあり方と互いへの感謝と尊敬を育てた。

物資もない日本が資源国家であり、経済大国のアメリカと4年もの間、負けるとわかっていた戦争を継続できたのも、そして敗戦後、世界が驚嘆する経済復興と成長を遂げたのも、一重に、この江戸300年の歴史が培って来た、文化があったからだ。

そこにあったものは何か。

簡単なことだ。社会の基軸がしっかりとあり、法の前に、社会道徳や社会規範、倫理が機能していたからだ。

桶がそうであるように、ひとつの物、形、考え方に生活の末端まで、自然との共生を基にしたそれらが生きていた。それが、多くの生活の試練や困難。戦争という理不尽な暴力と人権疎外、弾圧にも耐え、敗戦という苦渋の中でも立ち上がる基軸として、私たち日本人にあったのだ。

第一次安倍政権誕生のときから、私は言い続けている。いまこの国は、法や秩序、制度や国家システムが桶が笑った状態にある。

私が言い出した頃より、その状態は深刻で、この国を持続して行くのなら、腐った桶の板をほとんど剥がし、新しい木板に変え、ゆるんだタガを締め直さなくてはいけない。

三権分立を守り、そこにある者は自ら範を示さなくてはいけないのに、その当事者が、政治や検察、司法の腐敗と無効化を進めている。

国、社会を維持するには、法や制度が機能していなくてはいけない。その基本にあるのは、社会学者マックス・ウェーバーが言うように、社会規範、倫理(エトス)だ。

それは、各民族に受け継がれ、培われた行動様式、考え方、ふるまいを意味する。これが不遜な利己心や汚れた私利私欲で汚濁されてるとき、当然ながら、法や秩序、制度そのものが溶解する。

 

ひとつの国家、国が成立し得るのは、国民が押しなべて、自分たちの行動様式、倫理観を維持でき、それゆえに、法や制度を信じることができるときだ。つまり、国、国家というのは、その幻想を人々が共有できることによって、成立できる。

経典宗教国家である欧米や中東諸国は、同じ神を信じることによって、幻想を人々が共有しうるステージを生み出した。

賛否はあるのは承知だが、この国では、天皇が存在することにって、それを成立させて来た。明治から戦中まで、それが政治家や軍部の軍国主義政策に利用されたもの事実だ。だが、戦後日本において、天皇の存在は、かつて以上に、この国の法制、道徳倫理の要になっている。

戦後民主化の中、アメリカ隷属国家となった中で、日本国憲法の存在意義と重要性の象徴として、天皇家は衣替えしたからだ。

天皇家には、故事神話から続く、伝統文化と行動様式がある。だが、その基本にあるのは、自然との共生だ。同時に、自由・博愛・共生、そして平和をそのふるまいによって、国民に示す、私たち日本人が敗戦後を生きるための知恵とした象徴そのものだ。

それがあることによって、私たち日本人は、意識するしないに関わらず、寺子屋で教えられる子どものように、社会規範、道徳、倫理、そして、生活態度を見直し、幻想としての国家とその法制に従う意志を確かめ、また、異論や反論を感じれば、それが、自由・博愛・共生、そして平和の精神に反していないかどうかを議論して来たのだ。

今般の国会で議決されている法案はすべて、この日本人と日本人のつくり、育て、育んで来た歴史と文化に真っ向から反する。

ただでさえ、詐欺や汚職、贈収賄が当たり前のこの世の中で、天皇制の基本を壊す行為を行えば、桶が笑うように、国家は崩壊する。

円安と株安。国債長期金利の上昇。トランプアメリカに追従する属国主義で、それが乗り切れるわけがない。

無知と不勉強。無教養と学識のなさ。それがこの国を、世界を混乱と崩壊へ向かわせてる。

止めるのは、あなただ。もし、あなたにホントの愛国心というものがあるなら、郷土愛や家族愛、身近な人々のこれからを願う愛があるなら。

 

 

からだに訊く

アンチエイジングという言葉がある。

もともとは、ホルモンバランスの回復で老化による疾病を防止しようという医学的研究から生まれたもので、その狙いは、高齢化で発祥する疾病を抑止するものだ。

それが、1990年代の世界的な好景気に乘って、美容、若返りといった商業主義に利用される。化粧品はもちろんのこと、美容、痩身のための健康食品が爆発的に登場したのもその頃。

老化による疾病対策が、いつか若い世代から高齢者にまで広がる老いへの抵抗、美への追及の手段と化した。

これに呼応するように、職住環境では、消臭剤や芳香剤、空気清浄機や除菌グッズが飛ぶように売れ出した。ウォシュレットが普及したものこの時期。

美しく、汚れのない、清潔で澄んだ環境。汚いもの、古びたもの、老いたもの、朽ちたものを排除し、視界から、生活から遠ざける。見えないものにする。

その反動もあってか。昭和レトロという猥雑とし、非衛生的とも思えた路地裏や昭和から残る、雑然とした商店街などが注目もされた。だが、二度目のオリパラ開催に呼応し、微かに残された猥雑で煩雑、非衛生的なそれらは、再開発という名の下に、消えていっている。

いまの20代~30代は、こうした職住環境に育ち、「見ないものにする」価値観に準じて大人になった世代だ。同時に、空白の30年と言われるように、経済的には、低成長と格差、倒産、そして、コミケ弱者がいじめられるのが当たり前の学校、社会を生きて来た。

この親世代は、40代~50代。消費社会の繁栄を体験せず、低成長から就職氷河期を生きて来た。負け組勝ち組の価値観の中で育った世代で、当然ながら、負け組になると学校、社会のヒエラルキーから落ちこぼれ、それに反抗してもスポイルの対象とされる社会を見て来た。


当然、彼らには、20代30代より見える風景があるが、スポイルされる者の姿を知っている分、子どもたち世代以上に、「見えても、見たいものしかみない」訓練に長けている。

よく、「日本はどうなってしまったのか」「かつては、こうじゃなかった」という言葉を聴く。だが、いまの社会を担い、動かしているのは、こうした20代~50代の連中だ。

当然ながら、「見えないものにする」「見えても、見たいものしかみない」ことが、いまを生き延びる道と訓練された者に、「それは間違っている」と言っても、言葉が通じない。

勿論、20代~50代世代の中にも、社会情勢、世界情勢を深く見て、いまの現状のおかしさ、政権や政治、制度のおかしさに異議を唱え、発言し、行動する人々もいる。それは、幸いにして、いい育ち方をして来た人たちだ。豊かさにあるというのではない。

しかるべく、法と秩序、社会倫理のあるべき姿を学ぶことのできた人たちだ。また、その運用において、市民、国民、生活者の側の幸いを願える教育を受けられた人たちだ。

簡単にいえば、家庭教育においても、地域教育においても、社会教育においても、バランスの取れた視点を論理的、理数的に見る眼を養ってもらえた人たちだ。

私たちは、衰えることを怖れる。いまままで通りにできないことを不便に思う。だが、果たしてどうなのだろうか。

成長と言う名において、私たちはいつまで、誰かを排除し、誰かに苦難を押し付け、誰かの犠牲を忘れ、自分たちだけの幸いを求め続ければいいのだろう。

高度成長期や消費社会の発展を、それによって失われる教育のあるべき姿を見失いながら、いつまで地球環境を蝕み、自分たちだけの豊かさが正義とするのだろう。

人にも老いがあるように、国にも老いは来る。そのとき、自分のからだに尋ね、どういうあり方が、自分たちにとっても、世界にとっても幸いであるのかを考える。それこそが、先進国とかっていわれ、いま老いつつあるこの国が、国民のために、そして世界のために行く道だ。

日本よ、そのからだに訊け。その老いや衰えに相応しいあり方を探せ。その中に、次の成長の新しい形がある。

世界ぜんたいが幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない。





 

耳を澄ませば

映像作品の音響効果付けの際、画面にはない音を意図的に入れることがある。

 

遠くに聴こえるヘリコプターの音。救急車のサイレン音。廃品回収のアナウンス。午後5時の帰宅時間を告げる地域放送。何処の部屋からか、風に乗って聴こえる三味線やピアノなど楽器の音。人通りの足音。変ったのでは、鹿威しの音や蛙の声……。

 

室内での会話の長い間やシーンの変わり目。そこに、場面にない音、無関係な音を意図的に入れる。脚本の段階から想定して入れる場合もあるが、音効の打ち込み作業中にふっと閃いて、急遽、追加で入れることも少なくない。

才能のある音響効果さんだと、すぐに私の意図するものに気づいて、ドラえもんのポケットのように音効データを出してくれるのだが、そうではない担当者だと「えっ?」と戸惑う。あるいは、怪訝な顔をする。

 

意図が読めるスタッフとしか組まないので、そうしたケースは稀だが、不慣れな若い担当プロデュサーがいたりすると「なぜ?」と訊かれることもないわけではない。

ほぼ、その段階で、その人の映像や編集、音効センスは、アウト。

説明するのも面倒なので、「ま、仕上げてから、観てみてよ」と言うことになる。

できのいい奴だと、仕上げを見て「ああ。そういうことだったんですね」となる。それでも気づかない奴は、論外。映像や舞台の制作、演出、シナリオの仕事に向かない人間ということになる。

これは異化効果を体感で理解できているかいないかの差だ。

異化効果と言う言葉は、舞台演出家ブレヒトが提言した演出法だが、異質なものをわざと入れ込むことで、逆に虚構である舞台にリアリティが生まれるという手法のことだ。

一聞、一見、場違いのようで、それが舞台空間、映像空間にリアリティを生む。

 

これとは違うが、音を聴き取ることの大切さを、これも著名なロシア演劇の演出家が実践している。

スタニフラフスキーの「俳優修業」という著書に、眼を閉じ、体の力を抜き、集中力を高める俳優訓練法が紹介されているのだ。まるで、坐禅の修行のようだと15歳のとき、初めて読んで思った。

だが、これは、いまも世界の俳優養成所で当たり前のように使われている。集中からからだを解いて、指導者が訊く。「いま、何の音が聴こえました?」

その問いに、初めての者は戸惑う。ほとんど気に掛けていないからだ。そして、大方が最も音の大きかったものを聴こえたと指摘する。外の車の音、指導者が部屋を歩く足音……とかいった風に。

できる奴は、車の音だけでなく、車の加速音、停止音、バイクのエンジン音まで分解して言ってくる。室内の音でも、足音だけでなく、部屋にある時計の音、自分たちが座る椅子の軋みまで指摘できる。

人間は普段の生活では、聴きたい音しか、見たいものしか見てないない。

漫然としている方が、大量の情報量を脳がインプットできるからだ。だから、漫然とした状態のままでは、瞬時にそれを再生できない。だが、意識を集中すると曖昧で漫然とした記憶の底から、個々の事象を拾い出すことができる。

俳優修業では、これが集中力を高める訓練にもなれば、毎回同じ演技をしながら、その時々の相手役の調子、観客の息遣い、照明や装置の展開の微妙な変化に、即時的に対応する能力を養うことができる。

なぜなら、舞台は生もので、毎回同じ条件で芝居ができる訳ではないためだ。映像においても、撮り直しはできるにせよ。何回も同じ条件で撮影できるわけではない。ここにも生身の役者、スタッフがいて、かつロケだと光の当たり具合、風、気温など自然の変化を受ける。

360度、三次元の空間すべてを相手にして、俳優は体ひとつでそれと対峙する。

そこに過不足が生まれないために、五感を研ぎ澄まし、耳を澄ます力がないと、虚構の世界に真実の光を導き出すことができないのだ。

これをブレヒトの異化効果と組み合わせると漫然として脳が集積している情報を目覚めさせ、意識させるためには、集中に加え、異質なものをそこに割り込ませるとより覚醒が進むという話になる。

私たち現代人は、五感を研ぎ澄まし、耳を澄ますという生活から、自分の見たいもの、聴きたいもの、触れたいものにしか接しない生活をストレスフリーな自由で、豊かなものとして築いて来た。

だが、その結果、フェイクニュースや虚偽、虚言を見抜き、自分を取り巻く世界の真実を知る力を失って来ている。漫然と情報を受け止めているだけでは、そこに虚偽、欺瞞を発見することができなくなっている。

いまや耳を澄ませば、聴こえてくるのは、戦前の足音であり、軍靴の規律正しい足音ばかりで、そこにある旧統一教会の犯罪、旧安倍派を中心とした裏金問題は、マスコミからも掻き消されて、忖度の声ばかりが聴こえている。

それをしないためには、異化効果を生む、場違いな何かが私たちの生活や社会、世界に入り、人々の意識や記憶を覚醒する何かが生まれなくてはいけない。

山上の首相暗殺事件ですら、漠然とした記憶の底に埋めてしまうこの国が、覚醒するには、それ以上の何かを経験しないとどうもいけないらしい。

そこに軍靴の跡に来る悲惨な悲鳴や嗚咽、慚愧の号泣が聴こえて来るのは私だけではないはずだ。それが異化効果となる経験を私たちは80年前に経験している。

それ以外のことを残念ながら、日本人は自力でやり遂げた過去が一度もない。異化効果を演出できる政治家、政党、国民、市民がいないからだ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

大見得を切る

高市という人物は、歌舞伎役者で言えば、「大見得を切る」のが好きだ。そして、そこに間髪入れず、「よっ。音羽屋!」「成駒屋!」と客席から声が掛かるのも大好きな人だ。

歌舞伎の「大見得を切る」というのは、演出のひとつで、芝居の大きな見せ場。

 

主人公役やそれに準ずる登場人物が、自分が「何処の何者であるか」を明かにする時や自分の行動や言動にある「本音」や「目的」を相手役や周囲に明かす。そして、「その何処がおかしい!」「それ、見た事か!」と決め台詞を吐く。それに合わせて、大きく体を使い、相手役を威嚇する動きで、圧倒し、その場の空気をつかむ。


「見得を切る」が出る場面は、芝居の転換点や筋書きが明らかになる場など重要なところ。そこに、観客の息をコントロールするように、大見得を切るから、思わず、観客は、登場人物の役者に呼吸を合わせ、体の筋肉も呼応し、役者の動作に同調する。

 

つまり、セリフと動作を見せるだけでなく、役者の呼吸、台詞の言いまわしに同調させ、ぐっと観客を引き込むのだ。見得を切った後に、余韻を残す間がある。文章で言えば、段落や文末の点。そこで、はっと我に返った客席から声が飛ぶ。今で言う「いいね」の代わりだ。かつては、そこに投げ銭もあった。いいね投票の一票だ。

これ。選挙の街宣や街頭スピーチに似ている。

見得は大きい程、効果がある。内実がそうであるかとか、見得を切った台詞の中身がどうであるかは、左程重要ではない。どれだけ観客の呼吸と体を自分たちの息や言い回し、間合いに乗せられるかが重要。

大見得を切って、劇場が熱狂するように、その空間は、限られた人数しか見られない場所がいい。屋外であれば広い場所ではなく、狭い路地や歩道のように人が群れてしまうようなところ。つまり、大勢の人ではなく、芝居小屋のような人が集るのに限りのある方が効果が上がる。

人が群がる様子が、周囲から見えることが大事なのだ。その列や人だかりに、「何だ。何だ」と人が集まる。室内であれば、500とか700の収容劇場。立ち見と列がつくれる空間。やがて、2000、3000となっても、立ち見と列が恒常化する。そこにまた、「何だ。何だ」と人が集まる。

再度言うが、内容は重要ではない。見せ場が必要なのだ。そして、見せ場をみせる息と所作が必要なのだ。

安倍晋三も大見得を切るのが得意だった。その言動が危険でも、危険度より「見得を切る」政治に人々は同調した。安倍ほどではないが、高市は、それを見て知っている。やり過ぎると叩かれることもわかっている。高市は、やり過ぎになる性格だが、そうなるとわかっているから、国会討論が苦手。党首討論などもっと無理。

「見得を切る」には、あらかじめ自分の本心にある思いを、ここぞとばかり、ぶっちゃける感情が前に出る。出なくては、客席を乗せられない。その癖が悪癖になることを知っている。つまり、論理的な話や議論は、まったくできない。感情の勢いで声を出す時、高揚感に浸り、言ってはならない言葉、言ってしまうと取り返しのつかないことでも平気で口にしてしまう。制御できないのだ。

 

この国は、30年の間に、見得を切るのが好きな人たちとその見得を切る姿がリーダーの姿だと信じる人たちによって、法においても、経済においても、国際社会においても、先進国とは言えない国に成り下がった。

アメリカの良心、国際社会の良識といったものが悉く破壊されている中で、人類の反省から生まれた国際的な良識や地球環境を守るという人類の果たさなければいけない勤めも、すべて放棄して、治世者や権力者の見得に魅了され、翻弄され、それが、じつは、そうした支配層のただの「見栄」が生んだ私利私欲であることを見抜けない。


この国は、見栄を見得と謀れて、疑うこともなく、亡国となる道を豊かさへの再生と勘違いする愚かな民衆の国に成り下がった。


 

 

死と向き合う

人の死と向き合うことは、容易なことではない。

 

家族であれば、それまでの親子関係、夫婦関係、親族・縁者との関係がその場面に凝縮されて来る。

一方、孤立死は増加の一途。

高度成長期から消費社会へとこの国の経済が豊かになるにつれ、核家族化の延長に、家庭崩壊や家庭内暴力、不和、対立が起きた。

低成長期になると家庭内にあっても個を求める時代が到来し、家族関係は変容した。それが、離婚率の増加、高齢離婚の増加にもつながり、働くこと、働く場にしか価値を見い出せなかった人々をセルフネグレクトへ導いた。

格差が明確になると、生活苦や貧困に遭遇しながら、社会的支援を求めることを恥とし、人に迷惑をかけてはいけないという核家族教育、学校教育の道徳観に縛られ、女性の孤立死も増大した。

幸いにして、家族、近親者に看取られながら亡くなる人でも、そうではない孤立死であっても、人それぞれに、幾通りもの人生がそこにある。韓国テレビドラマの名作『遺品整理人』に描かれている世界は、名もなく亡くなった人にあった「思い残し」を遺族や縁者に届ける話だ。

しかし、現実には、思い残しに触れてもらえることもなく、司法解剖もされず、人にも知られず、腐乱した遺体を焼却され、引き取り手のない遺品に眼をくれる人もいない。

そして、あたかもその人がこの世に存在していなかったかのように、行政の無縁墓地に合葬され、そこに手を合わせる人も、故人を偲ぶ人もいない。

少子高齢化がこれ以上進むと、ひとりの人間が10人以上の親族を看取る時代になる。だが、経済的にそんなゆとりは、いまの社会にない。益々、生きた痕跡すらない残らない人々の合葬の山が築かれていくことになる。

そうした社会や地域のあり方。弧の世界や死を自分たちの生活の日常に取り込まない。

若々しく、明るく、元気で健康であること。陽気で気さくで、誰とでも仲良くあること。ファッションやヘアメイク、スタイルの美しさが、食の豊かさが何よりも大事なように、街も職場も家屋も清潔で快適で、きれいなもの。

そこには、障害のある人の姿も、老いの姿も、内向的で人とうまくやれない人の姿も、生活苦から見すぼらしく見える人の姿も組み込まれていない。

そうした人々が死を迎えるとき、手を差し伸べる人もいなければ、寄り添う人もいない。公的支援はいろいろあっても、隣近所のつながりや同じ地域に住む人同士としての縁がなければ、その手を握って、大丈夫よと言ってくれる人も、怖がらなくてもいいと諭してくれる人も、あなたを忘れないと受け止めてくれる人もいない社会だ。

いま、この国に一番欠けているもの。そのすべてが死と向き合うという中にあるのではないか……。

ぼくが大嫌いだった祖父の死の看取りを20歳のときに体験し、大きな、大きな大事なメッセージをもらえたのは、社会にまだ死と向き合うという文化が残されていたからだと思う。それほど、祖父の死に様はみっともなく、だらしなく、身勝手なものだった。

あの死と向き合っていなかったら、きっとぼくは、劇作や演出の道に進まなかったかもしれないし、処女作を書くこともできなかっただろう。

だから、ぼくは思う。人の死は、どのようなものでも生きる人々の中で受け止めていかなくてはいかない。自分がいつ死んでもおかしくない年齢だから思うのではない。

そうではない社会。死や老い、病や障害、それを誤魔化して、見えないところに覆い隠さず、それも社会の中にあるひとつ。地域の中で受け止めていくひとつ。抵抗や隠したい気持ちもありとして、光の当たる場で話し合える社会であること。

そうした社会、地域を目指すことが、いまこの国の政治や経済、社会や街中で起きている様々な課題と向き合い、解決していく道しるべだ。


『死と向き合う』大慈学苑の取り組み  東映㈱より今月末リリース

死と向き合う案内













編む

子どもの頃、母の毛糸巻の手伝いをした記憶がある。

 

戦後数十年の庶民の家庭で、贅沢品ながら、ミシンは必需品だったし、裁縫箱はどの家にもあった。手編みのセーターやカーディガンも当たり前で、秋になると古くなった編み物を解き、毛糸玉にする。

いまは、ファーストリテーリングの拡大で、安価で使い捨て同然に、市販の服が買える時代になった。だが、当時は、服飾店や百貨店に行かないと既成の衣類やイージーオーダーは買えなかったし、廉価で売る商店街以外は、採寸してつくるオーダーメイド店が殆どだった。

勢い、台所事情から手作りできるものは、家庭でやる。冬の毛糸の衣類はその典型で、手袋やセーターは、母の手編みだった。中古の編み機を何処からか手に入れて一時使っていたが、機械が苦手だったからなのか、すぐに人に上げてしまい、母は手編みに拘った。

小学生は成長が早いのもあり、1年~2年生の時、着られていたものがすぐに着れなくなる。着られなくなったセーターを解いて、旧い糸と組み合わせ、サイズを大きくしたのを着せられる。

私は、両手を挙げ、左右に腕を揺らしながら、母が持つセーターの糸が解かれ、自分の手首に巻いて行く感覚が好きだった。一旦、巻いたら、今度は、母がそれを毛玉にしていく。

不思議なことに、その光景を昨日のことのように鮮明に覚えている。

形のあるものが解かれて、その姿を失くして行く。しかし、編直しすることで、柄や大きさの違う新しい何かに生まれ変わる。

成長や発展の基本には、何事につけ、それがなくてはならない。

 

SDGsが叫ばれる時代。スクラップ&ビルドは、依然として都市開発の定番で、欧州のように古い物を生かす街づくりには程遠い、この国。

だが、旧いものをただ生かすだけでは、時代の盛衰に付いていけない。旧い景観を今に生かす知恵がなければ、結局は、大手デベロッパーに風情のある街並みは、破壊され、どこにでもあるような無個性で、利便性と清潔感だけを追求しただけの感触のないタワービルが立ち並ぶだけだ。

私たちの国、世界は、このタワービル建築に象徴されるように、成熟社会から低成長社会へと移行する中で、見下ろす側と見下ろされる側に峻別されていった。

 

そこで「そんなのやってられねぇ」と登場したのが、反民主主義のうねりとグローバルから自国ファーストへの大転換だ。見下ろす側はより肥大さを追求し、見下ろされる側は、民主的でなない、強行な再分配と社会的地位の保全を政治に求め出した。

知性的であるより、野性的であること。思慮深さより無教養さ。タブーを守るより破壊。論理性より感情。直情的であり、無知で危険であっても、地雷原をものともしない、偏狭な意固地さ。

逆を言えば、知性がどうのこうの、思慮深さがどうのこうのと言ったところで、オレたちの生活楽にならねぇし、小難しいことばかりでスカッとしねぇじゃねぇかという情動が勝ってしまったのだ。

つまり、知的で論理的な思考や行動ではなく、短絡的で非論理的(カルト的)信念を信じようとし出した。

譬えて言えば、ヤンキーな奴、あるいは、ヤンキー崩れ。だから、非論理的で非科学的だけど、信念みたいなものがある。

窃盗であろうが、カツアゲであろうが、「暮らしをよくしてくれりゃ、それでいい」「オレんちの存在認めてくれれば、それでいい」といった輩が、軽薄さゆえにフェイク政治や愚鈍、愚集政治を支える。

これまで窮屈だったセーターの毛糸が解かれて行く、小気味よさ。心地よさ。そして、他人の毛糸玉でも、糸を合わせて編直すとゆったり、気持ちのいい着心地になる。大事なのは、略奪したことよりその心地よさ。

いままで、「バカっじゃないの!?」とか、「あいつ数に入れねぇ」とか言われ、自尊感情が希薄だった人間が、その心地よさを味わうと何でもありの世界になって行く。

だが、その無教養と無知性では、採寸通りのセーターを編むことはできない。気づいてみれば、着心地のよくない、左右の腕の長さ、丈の短い、歪なセーターを着る羽目になる。

人から、取り分け女性から手編みのマフラーやセーターをもらうのが、思春期の頃から嫌だった。気持ちは嬉しいし、ありがたいと思うが、決して上手とは言えない、手編みの物ほど、身に付けるのに困る。それに、私は、子どもの頃からイングランドやスコットランド調の毛糸物が好きで、趣味に合わないからだ。

当然、くれた女子にそんなことは言えない。だが、少しするとくれた子も身に付けてない私の姿に気づいてくれるのか。そっと傍から離れてくれる。

そう。自分のこだわりをきちんと示す。自分の考えや意向を示す。かっての女子には悪いが、それが着心地のいい毛糸物との出会いにつながる。