東宝戯曲科に入ると、帝劇・芸術座の芝居が無料で鑑賞できた。鑑賞学習という名目で、大劇場・中劇場の舞台を観たことない人に大規模劇場の表現方法を学させるためだ。
事前に東宝本社の演劇企画室に行き、戯曲科担当の事務方に観賞届を出さなくてはいけない。その折り、稽古場ではできない雑談をすることがあった。
何かの話の流れで、渡辺先生の話題になった。先生はお忙しく、どこかに打合せに出られていた。
「歌舞伎や演劇評論のほか、歌舞伎の研究書を出版されながら、企画室長として帝劇、芸術座の舞台制作に関わる先生は、本当に演劇好きだ」そんな話を事務担当の方が、独り言のようにお話された。
「いやいや。そりゃそうですよ。だって、先生は、慶應の学生時代。早慶戦で学校が休みになると、神宮球場ではなく、早稲田の演劇博物館に来て、歌舞伎の資料や古書を読み漁っていた方ですから」
ぼくがそう言うとその方は、驚かれたような顔になり、「君ぃ。よく、渡辺さんのそんな事まで知ってるね!」と言われた。
渡辺保ファンなら当然知っていることだが、先生は小学生のときに歌舞伎を初めて観てから、雷に打たれたようになって、歌舞伎に夢中になった。因みに、渡辺先生は、明治期に誕生した財閥、東京渡辺銀行創業者の子孫。歌舞伎を始め芸術文化に早くから触れられる余裕と機会があった。
かって、鈴木忠志氏が、渡辺先生との対談で、シェークスピア、鶴屋南北は、悪人や狂人、ヘンタイばかりを題材にして、それが人間の真実を付くからおもしろいという話になった。
すると鈴木氏は、「何いっての。あんたも、ヘンタイじゃない。寝る間も忘れて、歌舞伎を観て、評論書くなんて、ヘンタイの狂人だよ」と冗談めかしに言われ、会場が爆笑した。
先生は、歌舞伎と名のつくもの、歌舞伎と縁のあるものに、貪欲に触れ、学び、狂気と言ってもいいほどに、歌舞伎の人だった。
歌舞伎や能楽、演劇に夢中になるご自分のことを「自分の業(さが)」なんだよと、よく口にされていた。インタビューでもだが、ぼくは、実際に先生の口から聞かされた。
晩年、歩行も危なっかしい状態で、お供も付けられず、新劇、歌舞伎、能など、芝居をお一人で、観劇される姿を見て、まさにそう思わされた。芝居の神さまが憑依している。そう感じることが多々あった。
先生お薦めの人間国宝の大蔵流茂山先生の能楽、狂言を国立能楽堂でご一緒したときも、介添えがいるほどの危うい歩き方をされていた。幸い公演関係者の女性が「私が帰りのタクシーにお乗せしますから」と引き受けてくださった。
劇団SCOTの東京公演の折も、ご一緒になったが、お供しますと言っても「大丈夫。大丈夫」とおっしゃり、教育評論家で映画監督の和田氏と話し込んでいらした。
先生は、人に迷惑をかけること、頼ることをとてもいやがる頑固ものでもあったのだ。それが最晩年に仇となったが……。
話しを戻す。
戯曲科では、まず、原稿用紙数枚のスケッチのようなオリジナル台本の提出に始まり、それを俳優科の俳優たちが実際に読み合わせして、役者の体をとおして自分の書いたセリフがどうなるかを学ぶ。
次に一幕物の戯曲を書く。そして、1年以内に2幕物の戯曲を書き上げ、その成果を評価されて、デビューできるかどうかが決定される。
はず、だった。
ちなみに、ぼくは数枚のスケッチ原稿までは提出したが、一幕物は提出できなかった。
入社したばかりの映像制作会社が、CM制作と企業CI、販促動画の制作をスタ―トさせ、そのすべての脚本、演出、プロデュースを任されてしまったからだ。戯曲科に顔を出すのがやっという状態だった。
面接のときにお会いし、その後も脚本構成のあり方を教えていらした演劇評論家の藤木宏幸先生からは、こっぴどく叱られた。戯曲科の講師としていらしていた演劇評論家の大笹吉雄さんも未提出の理由を厳しく問われた。
ぼくはその頃、捕鯨禁止の問題をテーマに一幕物を書こうとしていて、実際に虎ノ門にあった、日本捕鯨協会や捕鯨基地だった、神奈川県の田浦にも取材で行っていた。だが、自分が舞台にしようとしていた景色と感覚が違い過ぎた。
どうしたことか、大笹先生にそう言うと、「それは理解できます。台本がそれで遅れたのなら、それはそれで仕方ない」と許してくださった。
藤木先生からは、それからチクりチクりと嫌味をいわれながら(笑)、戯曲科に顔を出していたが、「遅くてもいいから、とにかく一幕物を出しなさい」が先生の口癖だった。
嫌われてるなぁ……と思いつつ、ふと思いついて、劇団解散後、結婚式の引き出物のひとつとして、袋とじの軽印刷した、過去の自信のある上演台本をまとめた作品集を、ある日、藤木先生にお渡しした。
「ちょっと新作は時間が掛かりそうなので、参考までにこれを提出します。先生のご意見を聴かせてください」。確か、そんな言い訳をしたと思う。
それから、一週間程経ってからだ。
戯曲科のまとめ役をしていた、松永忍と山村美絵から、ちょっと内密に話があると声をかけられた。松永忍は、前進座の制作を辞めて東宝に来ていた。山村は、元CAで、専業主婦だった。後に、中丸美絵の名で、『喝采鳴りやます』(新潮社刊)で日本エッセイストクラブ賞を受賞した。ちなみに妹は、日本人初のマリア・カラス賞を受賞した、中丸美千絵だ。
呼ばれたのは、他に2名。東宝現代劇企画室から、5人の指名があって、内々に、直接、次に帝劇で上演予定の原作本の台割シノプシスを書いて、企画室に提出してもらいたいという知らせだった。
理由は、はっきりしていた。規定の戯曲科の提出台本を待たず、直接、企画室で作家の選抜試験をやるということだった。
そのとき、ぼくは、はっとなった。他の4名には、悪いと思ったが、自分を選ぶだめの渡辺先生が仕掛けた選抜試験トリックだとわかったからだ。
ぼくが提出した戯曲集が渡辺先生のところに届いている。そう直感した。
ぼくが高校生の頃から新劇の名作を鑑賞して来たこと、面接であった当時の若手演劇人、ブリキの自発団の生田萬さんや善人会議の横内健介と面識があったこと。いずれも後に岸田戯曲賞を受賞している。
東大の野田秀樹と同時期に早稲田で劇団を興していたこと。清水邦夫や別役実の作品を読破していること。渡辺先生を始め、当時の演劇関係者の著作を読んでいること……
企画室の事務方の人たちの反応。藤木先生や増見先生の反応。それらを勘案すると答えは一つしかなった。
そして、始まった選抜試験。始めは、『舞化粧』という山本富士子主演の江戸時代劇のシノプシス(あらすじ)書きだった。
続く。
