秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

もたれあいの国

高度成長期から消費社会へ移行し、バブル崩壊の過程で常に言われた言葉がある。

護送船団方式からの脱却」という言葉だ。記憶している50代以上は少なくないだろう。

要は、業界毎の談合容認や国の施策としての業界保護から、自由競争へ。排他的だった業界の解放によって新規参入による競争意欲を高める。といったものだ。

背景には、グローバル経済において、国内レベルの競争力と業界もたれあいで満足していた日本式経営では、今後、海外の多国籍企業に太刀打ちできないという認識があった。

すでに破綻し、寡占主義による世界的格差の元凶に置き換わったグローバル経済の是非は置くとして、この排他的な政財界の業界癒着を破壊することは自由経済の本来の姿であるべきだったし、ベンチャービジネスの促進という点においても決して否定するものでもなかった。

が、しかし。

これに見合う国政の変革は棚上げされたまま。市場の自由化と企業の改革は、競争至上主義に変わっただけで、業界・企業構造とそれらを生む制度設計やシステムは何ら変更されないまま今日に至っている。

そもそも「護送船団」の解体のために必要なのは、監督官庁や政策決定機関である国会と行政府の財界や既得権集団との決別と自立が必要だったはずだ。自律的で解放された市場の形成と国政改革のためには、それに見合う、もたれあいから自由になれる補償が必要だったはずだ。

つまり、国政、広域行政、地域行政においても、企業間、企業内においても、これを解放するための行動の自由、発言・意志表明の自由、表現の自由、選択の自由、探求する自由。そして、構造改革とこれらを実現するためのコストの容認だ。

ところが、小泉政権以後、アメリカ隷従の形で進められた自由競争の市場主義は、サッチャーのごとく、自立自助だけをいい、そのために必要なコストと自らの改革は先送りしてきた。

結果、いまこの国には、依然として、葬ったはずの「護送船団」が悠々と監督官庁、国政、財界の癒着構造を肥え太らせ、自助は国民、公助は自分たちという、まか不思議な国の姿をつくり出している。

このもたれあいを象徴するのが、いまは日常化してしまった、批判的な意見、改革へ向けた発言をねじ伏せ、まともな政策議論をしないというご飯論法やかみ合わない政策議論に現れている。

常識で考えれば、普段の会話では通じない回答が、ここでは異様とは感じられない。

なぜか。それは、監督官庁、国政、広域行政、地域行政、財界、その取り巻きが、もたれあいというぬるま湯にもう30年近くどっぷり浸かったままで、自分たち護送船団の常識が現実社会にも、あるいは国際社会にも通じるものと驚天動地な勘違いをしているからだ。

それはまさに、高度成長期時代の成功体験そのまま、終わってしまった制度設計の上に座りながら、それが砂上の楼閣と気づいていない果てしない無知さの表れでしかない。

だが、悲しいことに、これを支えているのは、選挙にも、政治にも、世のあり方にも諦めと言い訳しかもたない、主権者意識のない、もたれあい国民の成せる技だ。自ら市民政治を拓くことのできない、もたれあい国民による、もたれあい国民のための政治。

グローバル主義を打破できるのは、自分たちの文化や歴史にこだわるパトリオティズムだが、残念ながら、それは新自由主義を打破する武器ではなく、仲間内でぬるま湯につかった日常の満足を満たすただけのものでしかない。

壊すことも変えることもできない、もたれあいしか知らない、あなたたちがつくる、私たちだけの素晴らしき国、世界。










 

風のない大人たち

ぼくはいつも風を感じる、風のように生きていたいと思う。

一つ所に留まらず、変化を恐れず、だれかの尺度や世間の下世話な噂さ、他人の評価ではなく、自分の納得する生き方を自分の手で拓いて生きるためだ。

「いい歳なのに、子どもみたい!」とよく人に言われる。子どもみたいで何が悪いと、その度にぼくは思う。

風を感じる。風のように自由に生きる。それが子ども染みているというなら、風を感じることも、風になることもできない大人とは、なんという俗物で、つまらない人間たちだろう。

風は気ままだ。

そのとき、折々に吹く風に違いがある。方向も同じじゃない。激昂したように吹き荒ぶこともあれば、癒すようにやさしく撫でることもある。

いろいろな風があるけれど、風がある風景とそこにあるいのちの景色に身を置くと、言葉や表象ではなく、物事の本質を透かして見せてくれるようにぼくは感じる。

 

思春期の頃から、内実がないのに落ち着き払って、世界のすべてを知っているかのような顔をしている大人たちが大嫌いだった。ほぼ、論理的にいっても彼らの言い分や考え方の大半が現実認識を誤っていたし、ぼくよりは明らかに無知だった。

社会の現実に迎合して改革しようという意志のない人間たちばかりだったからだ。あるいは、そういう振りをしているだけで、改革の何たるかを知らない連中がほとんどだった。

だから、彼らの理想のない、形而下ばかりで通俗な話は退屈極まりなかったし、やってる気満載だが、実のない行動もかっこいいとは思えなかった。

 

 風を感じないのだ。変化や新しさがないのだ。物事を創造する手際の良さがないのだ。

 

自分が大人と言われる世代になったとき、決して、ああいう風にはなるまいと、誰に言われたのでもなく、心に誓って来た。

 経験値やそこから導かれる社会との付き合い方、世の中をうまく生きるための処世術には長けていても、人生の道しるべや知性の鏡となるような人間はごくわずかしかいなった。

世阿弥花伝書に「初心忘るべからず」という有名な言葉がある。

 

若い世代の人生の節目に贈る言葉としてよく間違って使われているが、これは若い世代に向けた言葉ではない。それなりに立場を得た人間、熟練した大人への諫めとして書かれた言葉だ。

つまり、子どもの頃の未熟さ、それゆえの過ち、恥ずかしさ、それに倍する一途さ、一途さえゆえの激しさ、その背後にある清廉さ、よりよくあらんとする気持ちが生む内なる葛藤(技芸の鍛錬)と他者(相手役や観客)とのせめぎ合いをいつも忘れるなということなのだ。

それを失くしたとき、成長は止まり、道は閉ざされ、未来はなくなるという諫めだ。

 

コロナの感染拡大対策で当てにならない治世者たちの姿に、多くの国民が愕然とし、落胆し、失望している。

やってる感ばかりを演出し、逆に現場を混乱させている者。方針やビジョンもなく、行き当たりばったりの政策を出しながら、その実、政治力学ばかりに目がいっている者。既得権益や利権を守ろうと国民生活には目もくれない者…。

そのだれもが、わかったような顔をして、わかったようなことを口にする。自分たちの発言と行動に落ち度は微塵もないように。不足はないかのように。無知なまま。

彼らには、風がない。風を知らないか、風を忘れた大人たちだ。いつか、彼らは、その風に吹き飛ばされていくだろう。

 

It ain’t what you don’t know that gets you into trouble.

It’s what you know for sure that just ain’t so.

Murk Twain

やっかいなのは 知らないことじゃない。

知らないのに 知っていると思い込むことだ。

 

あなたと私のダンディズム

かつて、ダンディズムという言葉があった。

 

いまでは死語だし、ジェンダーからいっても、男性に使われて来たそれは、使われた方によって、いまでは男性性や女性性における差異を助長し、差別になるものだと言われるだろう。

 

だが、ダンディズムを言い換えれば、「あたなは何にこだわりを持ち、そのこだわりを生活の中でどう形にし、それに似つかわしい生き方をどう実現しようとしているか」の尺度のことだ。

 

生き方の尺度、基準、あるいは価値観や美意識と言ってもいい。ダンディズムという言葉の表層に惑わされていると、つまらない誤解が生まれる。

 

そもそも、ダンディズムは、ジェントルマン社会の対極にあるもので、イギリスでは自分の見掛けばかりに執着する軽薄なナルシストとして蔑視されて使われていた(背景にはイギリス階級社会の階級の住み分けの対立があるが、いまは詳細は省こう)。

日本で使われるこの言葉は、フランス革命後、文学者の中から生まれたイギリスの騎士道や貴族文化の価値観や美意識への憧れが生んだもの。

革命で低俗や通俗なものとされていたものと、貴族的なものが入れ替わり、階級社会があることで保たれていた美意識が粉砕された。いわゆる本物がことごとく否定された結果、じゃ、本物って何?というコンフューズが知識層を困惑させたのだ。

たとえれば、明治維新で貧乏な下級武士や郷士、その下男たちが、貴重な文化財をことごとく非西洋的として廃絶したのと似ている。

文化がわらかず、西洋かぶれの伝統美を知らない輩の愚行が愚行ではなくなり、教養以前の駆け引きや要領のよさ、つまり、低俗、通俗さだけで、出世もできれば、権力者や金持ちにもなれた時代、のようなものだ。

その困惑と不安がフランスの知識人をイギリスの騎士道や貴族文化の知性の高さと堅牢さへの憧れ、ノスタルジーを生んだ。革命前のフランス貴族にはそれらが失われていたのもある。この変形したダンディズムへの理解がそのまま日本に持ち込まれた。

だから、イギリスのそれとは違い、フランス、日本では、孤立、孤独でも、孤高を放ち、「何にこだわりを持ち、そのこだわりを生活の中でどう形にし、それに似つかわしい生き方をどう実現しようとしているか」の尺度を持つ人間をダンディ、かっこいい人と理解するようになったのだ。

 

自分の生き方としてだけではなく、何のために、誰のためにそうあらねばならないのか。孤立無援でも、誇りや矜持を持ち、守るべきもののために生きれるかの問いがダンディズムを生きる人間の必然的な問いになった。

 

日本では、新渡戸稲造が示したように、武士道精神の文化的背景と歴史がこれに共鳴して、社会や組織のリーダーが備えるべき人格の重要な要素のひとつにもなり、高い倫理感に基づく、行動力とそのための知識教養が求められるようになる。


だが、残念なことに、このダンディズム、日本が成熟した消費社会へと向かう過程の中で、イギリスのジェントルマン社会から蔑視されていような見掛けだけのものに先祖返りしてしまう。

 

いわゆる、ミーハー文化に低俗化した。高級ブランド品をそれに見合う人間ではなくても所有でき、それらしい風に外見を装うことを恥としなくなったからだ。

背景に、低俗、通俗な連中が高度経済成長からバブル消費経済へ向かう過程で、社会の表舞台にのし上がるチャンスを得たことがある。

のし上がった彼らは、バブル後の低成長経済の中でも株を転がし、利権を使い、既得権益を守ることで、経済的な豊かさ、格差の頂点に居座り続けるようになる。あるいは、そうした輩を支える汚い仕事を請け負う連中が増殖する。

ダンディズムが死語になった頃から、この国から社会規範、倫理、道徳といったものが希薄になり、利他から自己中へと社会は変容した。

そこに警鐘を鳴らしたのが、実は、自決した三島由紀夫だった。

そして三島の死から50年後のいま、三島が予見し、警鐘を鳴らしたように、この国は、治世者なき国、リーダーなき社会へと見事に三島の不安を的中させている。

一国の首相の不正が暴かれず、政権閣僚、取り巻き官僚が甘い汁を吸い、国民の血税を食い物にする。そこに群がるアホ学者やバカ知事、コンサル、企業とそれを支える闇集団は利権を得て、国政にまで口を出す。マスコミは腑抜けとなり、これを批判するどころか無言を決め込む。

社会の重要な立場、果たすべき役割を担う人間たちが、国民生活の何たるかを知らず、また見ようとも、知ろうともしない。

一重に、ダンディズムの死語化と貴族的なもの(エリート)と低俗、通俗の入れ替え、はき違えが生んできたのだ。

もちろん、貴族的なるもの(エリート)ですら、問題がある。ジェントルマンの顔をして、名作『夜の訪問者』に描かれているように、低俗を生きる者たちも少なくない。

本物であろうとする人間の絶対数の少なさは、高貴なるものも、低俗なもるものにも等価だ。だが、範を示すべき、人間たちにそれが失われば、すべてが低俗、通俗なものへ堕落する

コロナ禍で幕を開けた1年がもうすぐ終わる

今年は、意識するにせよしないにせよ、すべての人に問われた年だ。そして、その回答を出さなければ行き止まりしかない来年がやってくる


「あなたは、何にこだわりを持ち、そのこだわりを生活の中でどう形にし、それに似つかわしい生き方をどう実現しようとしているか」


青山のこと

所用で表参道にいった帰り、ふと思い出して南青山三丁目のアートスペースまで歩く

乃木坂から歩いてすぐのところだ

 

南青山の住宅地の路地裏には、こじんまりとしてはいるが、それぞれの分野の逸品、一流品、希少品を扱う店が点在している

 

知る人ぞ知るという店だが、陶芸、アパレル、着物、スイーツ、ビスロトなど飲食店、ギャラリーが住宅地に溶け込むように店を構えている

 

法令上、「住宅地」なので、南青山界隈では大通りに面する246号線や外苑東、西通りに面した周辺ではないと5階以上の建物を建築できない。マンションも低層マンションしか建設できない。だから、ひとつ道路を入ると、住宅を改造、リニューアルして店舗にしているところが大半だからだ

 

もともと住んでいた方が趣味が高じて、好きな陶芸や着物のショップ、スイーツのショップを開くということもあるが、まさに軒先を借りるように、青山に店を開きたくて利用しているという店舗オーナーも少なくない

 

住宅地らしく、新宿区と渋谷区のはずれに接する北青山界隈には、秩父宮ラグビー場、国立競技場、テニスコート神宮球場とそれを包み込む、外苑の森がある

住宅地エリアだからだこそだが、道路一本渡るとすぐ近くにリスも生息する森があるというのは都心の真ん中でも青山くらいなものだ

ブランドショップや大手デパート、大きなテナントビルが並ぶ銀座はハイセンス、ハイクオリティのトップランナーだが、銀座と青山のタウンカラーの決定的な違いはそこにある

 

生活の中に、逸品、一流品、希少品とこだわりの店、そして自然が共にあることだ

かつて、トラッドファッションを日本に持ち込み、男性ファッションという分野を拓いた、石津謙介氏の会社は、当初、繊維、織物問屋が密集していた日本橋にあった。それをVANジャケット創業の折、本社を青山に移している

石津謙介氏は、「青山じゃなきゃダメなんだ」とそのとき周囲に強く言ったそうだ。石津氏の先見性と青山のタウンカラーの理解はすこぶる正しく、青山に受け入れられたVANはファッション業界の革命児となった

同じ言葉を初めて訪ねたアートギャラリーの女性オーナーから聞いた。

「ここじゃないとわかってもらえないものがあるんです。青山にいる人、来る人には本当にいいものをわかる力があると思います。他とは違います」

ぼくは、そのとき、紹介された作家の作品がなぜ人気があるのか、アート的な視点からではなく、わかったような気がした。彼女たちの作品は、まさに青山の空気にじつに合っている、馴染んでいる

クリエイティビリティのある街は、人をつくる、人を磨く

 

トレンドに踊ったものや店、作品はすぐに消えていくが、亜流を嫌い、こだわり抜いたもの、人が創造する何かは都市、地方関係なく、磨かれたセンスを呼び集める

渋谷でもなく、広尾でも、代官山でも、中目黒でもない

クリエイティビリティのある街で試したいなら、それは青山しかない

 

大坊珈琲店の大坊勝次がどうしても青山にこだわった理由もそれだった

「青山でやれないなら、店を閉める」それが最後に店で聴いた大坊さんの決意だった

 

 ふと、こうしたこだわりは知性が伴ってのことだが

いまの政治、政権、検察にそれはまったく失われていることが強くよみがえった

 

 

 

Hold Up Stage Up

私、悪くないもん!

 

その言葉が必ず先に出る人がいる。出ないまでも、まず、相手への批判や文句、ケチをつけることから始める人がいるものだ

 

仮に、相手への批判をするにせよ、論理的にそれができれば、まだましだが、論理以前に「自分は悪くない」を前提として批判を始めるものだから、それが論理的であるはずもない

 

心理学に「認知不協和」という研究がある。何かの問題が生じたときに生じる不快感や違和感を自分の言動、ふるまいが原因だとすることを認めない、認めたがらない心の動き、状態のことだ

特別な人に起きることではない。ただ、日常的な生活会話から一歩踏み込んだ会話になると、とたんに会話がかみ合わなくなる人がいる。自分の利害に絡むと一層そうなるという人がいる

背景には、プライドがある。もっと正しくいえば高慢さ

プライドにも認知の歪曲があり、演技性人格障害ではないが、実績も実際の能力においても欠落があるのに、自分はたいした人間なのだという誤謬が働くと、この認知不協和は起きやすい。

そもそも、本当の意味で、プライドある人は、問題が生じたときにその問題点を分析し、理解し、次にどうするかを考え、善後策をとることでプライドを保とうとする

 

感情的な批判や相手を貶めるような言動で責任を回避することはプライドが許さない

それが恥ずべきことだと知っているからだ 恥ずべきことをするくらいなら、降参してホールドアップし、次の道を探す。

新型コロナ感染症対策の政権の言動をみていると、この認知不協和を絵に描いたような姿と思えるのは、ぼくだけではないだろう

前首相の安倍晋三もそうだが、菅首相にいたっては、記者会見を嫌い、やっと開いた記者会見もあらかじめ台本を用意し、記者質問も事前に出来レースで準備させている。政権の問題や過ちを指摘されることを最初っから排除し、不快感を感じなくするためだ

逆をいえば、自分及び取り巻き閣僚や官僚がやってきたことの不具合には気づいている。だが、それを認めないし、謝罪もしない。実体のないプライド=高慢さが根深くあるからだ

いやま政治家、官僚、医者、弁護士、教師、企業経営者といった社会的職責のある人間に、かつてのような倫理観など正当性が担保されていると考えている人間は少ない。終ってしまった階層社会のヒエラルキーだけが残り、そこに知性や理性、教養が伴っていないことは、まともな国民ならわかっている。

空疎な肩書や地位にだけ重きを置いているから、空洞化したヒエラルキーに乗っかっているだけの自分の実態が見えていないのだ。また、この空虚さがこの国の政治を動かしていることに気づいてない、終わったヒエラルキー、権威づけにこだわってるおバカな国民が多いからだ

人はもちろん万全ではない。同時に、こうした認知不協和を持つ人間にも社会に貢献できる能力はあるだろう

だからこそ、自らの現実を知り、能力ある人材や自分の不足を補う人を重用し、過ちや愚かさを謙虚に認め、人の力なくして、我が身がない現実に目覚めることが不可欠なのだ

そのためには、現場に塗れること、現実の人と深くかかわり合うことしかない

現実にはいろいろな人間がいる 自分が好む人たちばかりではない

だが、その力が必要不可欠なときがある

 

ぼくも経験があるが、生死の際に立たされると人は自分の力では何もできない

他の力を頼みとするしかないのだ

そうした経験の中で、人は初めて人に過ちを認め、謝罪し、感謝できる
万全ではない、ぼくらがよりよい社会を築くために、いまもっとも必要としていることだ

ホールドアップは恥ずかしいことではない 次へのステージアップだ








 

 

 

 

なにひとつ、未来は手に入らない

コロナでいろいろなものが変わり
きっと大きく変わっていくだろう

スローライフにも スローフードにも
ライフスタイルそのものが自然を消耗したり
心を消耗させる生き方から

そうでない生き方の選択があることをぼくらは
知った

自動車業界はハイブリットから電気自動車や
水素自動車へと転換を始めている

日本はまだまだだが、ヨーロッパでは再生可能
エネルギーの活用へ大きく加速し始めた

減農薬や有機食材が当然とされるようにもなって
いる

都市の在り方さえも見直しが始まっている

そこに乗り遅れているのはじつは、この国だ

避妊治療対策で事が好転することなどない
少子化対策においても先輩であるヨーロッパに
少しも学ぼうともしていない

急速な高度成長と消費社会の到来、そして
バブル崩壊からいまに続く低成長、実質マイナス
成長へと急激で、極端な変化に

この国の法律も制度も政治まったく追い付いていない
それに気づいている大人も政治家も財界人も
まったくといっていいほど少ない

本当のことが、本当にわかったというのは
行動においてしかないのだ

言葉だけで、体裁をつくり、対策を先送りする
この国人たち


とりあえず変化は好まないというこの悠長さは
どこから来てるのだろう

おそらくは何かを意図的に、かつ理念を持って
選択するという尺度を持っていないからだ

 

選択することがいやま怖くなっているからだろう

井戸端会議のように何に不満をいい、愚痴をこぼし

人を非難することはできても

 

何が大切で 何が重要なのか それを推し量る

知恵も 知性も 教養も 品位もない人たちが

増えている

 

だが、悲惨を被り、生活の困難に直面し、未来を
失うのは自分たちなのだ

いまに心地よさを感じてそうできない人は

なにひとつ、未来は手に入らない

 

 





もう一度考えてみるといい

三里塚闘争のとき…といってもわからない人もいるだろう
成田国際空港開港阻止闘争=三里塚闘争という空港建設反対闘争があった

いまはとある大学の教授をしている親友が仲間が止めるのもきかず、反対派農民の農業支援=援農と闘争に参加した

何かあったときのため、主としてパクられたときのためにだが、ぼくらは救隊=救援隊として情報収集に努めていた

テレビをつけると、6時の報道に奴が出て、インタビューをうけている。奴が政治的メッセージを発言し、インタビューアーを論破するだろうとぼくらは固唾をのんで見入った

すると、奴の答えは。。。

 

「最後は正義が勝つでしょう!」

 

ぼくらはその場でずるっと、こけたw

 

確かに成田闘争そのものは敗北し、空港は開港した
だが、開港当時滑走路は1本しかなく、かつ都心から遠隔地
国際空港としての体をなざず、その後さらに施設を拡充したが、いまでは羽田国際空港を利用した方が便利という国際便もある

後の国土交通大臣は空港開設について地域農民に謝罪している
強権力による強引な土地撤収と思い付き計画の杜撰さを謝罪し、和解が成立したのだ

ぼくらはあのとき、笑い転げたが、奴の一言は正しかったことを証明した


権力、政権のすべてが常に誤っているとはいわない
だが、誤ることが往々にして多い

そのとき、声を挙げなければ、過ちが糺されないまま、人々、つまりは国民、要は自分たちの生活権や人権が踏みにじられ続ける

 

その瞬間は勝てなくてもいいのだ、大事なのは、過ちを糺すという発言と行動によって、自分という人間の矜持や誇りを守り抜くことなのだ

それが自分たちの生活と未来を守ることなのだ


権力の言われるまま、成すがままを許す それに従順であることは決して、未来を拓く力にはならない

そして、最後に、奴の言うように、権力の過ちという審判を下すこともできない

過ちを糺すのは、同じ過ちを繰り返さないためだ 同じ苦難を他に経験させないためだ

同じ哀しみを次の世代へ引き継がないためだ

いまさえ安心ならいいのではない いまがよければいいのでもない 権力や権威におもねれば、必ず裏切られるときが来る

いや、自分自身が保身や自分だけの身の安全のために権威や権力に隷従する人間になってしまう

それほどに、恥ずかしいことはない

それを知ることに、日本人という民族の矜持も保たれていたのだ

三島由紀夫の命日…もう一度、考えてみるといい

 

 

手が回んないんだから、仕方ないでしょ

パニック障害という言葉を聞いたことのある人もいるだろう。

障害の初期は動悸、発汗、めまい、窒息感(過呼吸)、胸の痛み、吐き気といった症状が出る。

ひどくなると、周囲のリアリティが失われ、テレビや映画のシーンを見ているような感覚に襲われる。風景が歪んでみえたり、狭い空間や逆に広い空間、音や匂い、色、数字、尖端のあるものに強い不安感を感じる、理由のない恐怖感、自分はいますぐ死ぬんじゃないかと思うほどの恐怖感を感じたりもする。

からだの感覚は麻痺し、凍えるほどの硬直を感じる場合もある。あるいは逆に、熱さを強烈に感じる場合も。

自傷行為にはいろいろな要因があるが、共通して顕著にみられる幼い時期、思春期での近親者との性的関係強要のトラウマのほか、こうしたパニック症から自分を取り戻すためにあえて、からだを傷つけ、我に返るためにやるという傾向も多いのだ。必ずしも自傷行為を責められない理由のひとつになっている。

簡単に、耐性の問題としてだけ片付けられるものではないが、障害とまではいえないまでも、ぼくらは往々にして、パニックを経験しているはずだ。どのようなストレスであれ、家庭、学校、職場などいろいろな場面で、焦る、慌てるといった経験がある。

いまぼくらの社会、世界では、子どもじみた事柄が当たり前のように起きている。ちょっとしたことで過剰に反応し攻撃的になったり、他人を否定して自分の言い分だけを主張し、間違いにも気づかない。

子どもじみたというのは、中国、ロシア、アメリカ、日本の指導者の姿と政策をみればすぐにわかる。嘘がスケスケの服を着て、「ちゃんと服を着てます。私は嘘じゃありませんよ」といっているようなおかしな政策、施策、いわゆる愚策の数々だ。

同時に、こうしたスケスケの服なのに、「そうだね。ちゃんと着てるね。嘘なんかこれっぽちも見えないし」と同調する国民、大衆も増加の一途だ。いわゆる岩盤支持層といわれる人々。

始末が悪いのは、「嘘がスケスケの服を着てるかもしれないが、全部ほんとがスケスケじゃない服を着ていられないほど、自分たちの国も生活も大変なのだ。だから、ま、嘘がスケスケでもやることやってくれればいいじゃん」といった否定しながら肯定している人々だ。

子どもじみているリーダーとその取り巻き集団、それに、子どもじみた言い訳でもよしてして支持する子どもじみた人々…。

そこに共通しているのは、耐性がなく、いくつもの問題、課題を片付ける処理能力が身に付いていないこと。それを指摘すると激高したり、慌てふためく。そして、「とりあえず、できることやっとけ。できないことはできないし、それどころじゃないんだから」という言い訳を平気でいえる。優先順位などとも言い訳する。

確かに、物事の処理には優先順位がいる。しかし、ここでの優先順位は自分たちの都合のいいこと、自分たちの利権や権益、支持母体が潤うための優先順位で、すべからく、あまねく人々、国民のためのそれではまったくない。

もちろん、そのために犠牲にされる人、後回しにされる人、置いてきぼりにされる人が生まれる。しかし、彼らの言い分は、これも子どもじみていて、「だって、手が回らないんだから、仕方いないでしょ」。これをまったくの反省もなく言えてしまう。

自分たちの能力の限界を知っているからだ。なぜなら、全部を抱え込んでしまうとパニック障害を起こすとわかっているからだ。

その言い訳として、もはや時代は、全部を守る時代から自助で生き抜く力のある人だけがいられる時代、社会へ変わったと世界では終わってしまった新自由主義を持ち出してくる。

これを止めるのに、変えるのに、まっこうからの否定や議論はほとんど意味をなさないだろう。パニック障害を起こさないために、厚顔無恥になることしかしないからだ。

変えられるのは、残念ながら野党でも政治家でもない。国民なのだ。だが、その国民の多くがいま子どもじみた賛同の中にいる。

目覚めるのは、多くを失った後しかないかもしれない。ぼくらは失わないとわからない国民なのだろう。






















 

色男のいらなくなった国

「色男、金と力はなかりけり」と江戸ではいわれた。いまさらながら、うまいこと

をいったものだと思う。

 

金のためだけに心血注げば、それは当然、顔も険しくなるだろう。商業資本主義の基本というのは、どれだけ安い労働力や資材で物やサービスを生産、提供し、それを持たない、欲しがる他人、他の集団や異国に売りまくることだ。そりゃ面相も悪くなる。

 

まして、それを実現するためには、既得権益に割って入る力がいる。権力や権威を買収し、自ら既得権益や権力を手にれいて、お行儀の悪い恫喝まがいのことも駆け引きとして使う。そりゃ人相も悪くなる。

 

いい顔ばかりをしてはいられない。顔色ひとつ変えず、ときには薄く笑顔浮かべながら、従わせる。目が笑ってない。目の奥に怖さがある。逆らうとひどい目に遭わせるぞといっている。それりゃ色男とはいかない。

 

だが、いまは愛想のある悪顔というのがトレンドらしい。世界経済を牽引し、自国ファーストと自国スタンダードを当然とするアメリカ、中国の大統領や主席、他国干渉を続け、領土拡張を図る、これも自国ファーストのロシアの大統領など、笑顔は少ないが時折みえる愛嬌のある笑顔がいいらしい。

 

つい最近、この国でも同じような人物から同じような人物に首相役が移管された。残念ながら、アメリカ、中国、ロシアの彼らよりは世界戦略、外交の能力、知力、腕力には遠く及ばないけれど。

 

ただ、いずれにも共通するのは、超高学歴ではないこと。政治の世界で下住みから這い上がった実力者だと民衆に思われていることだ。正確にはそうした演出をして民衆の支持を得ている。そうしたマスコミ操作や警察権力の利用、司法操作はいずれも大得意だ。

 

いま世界に広がってるいるのは、色男でなく、「育ちのいい人、金と力に逆らえず」「育ちのいい人、お行儀良すぎで変えられず」らしい。

大統領選で番狂わせの目に遭ったヒラリーしかり、民主党の政権中枢にいた人々は、アメリカンインテリゲンチャ―の巣窟、ハーバード大卒を始めとするアイビーリーグやジョンホプキンス大卒など、名門校が圧倒的だ。

日本でもかつては政界でも東大、京大、早慶卒が幅を利かせていた時期がある。中央官僚に同窓生や先輩後輩が多いこともあって、政策実現にあうんの呼吸があったからだ。

経済発展が順調で、成熟しておらず、完成されていない資本主義時代には、こうした制度設計に長けた頭脳を持つ人間に役割りがあったし、それで成果も出せた。

しかし、資本主義が成熟してしまうとITやDNA、再生医療再生可能エネルギーなど形の見えない産業へと構造変化が進む。資本主義には消費する集団が必要だが、その牌は、低成長国といわれた国々の成長とともに少なくなる。

資源そのものも限りがあり、どこかを開発して手にいれるための、どこかが地球上においては、アフリカくらいしかなくなった。つまり、資源を得て、加工し、あるいはそのまま売買するという資本主義のシステムが大規模には成立しなくなったのだ。

そこでマネーゲームが高度資本主義の中心になり、当然ながら元本を持つ者とと持たざる者の差は拡大する。投資の対象にならない事業も人も未来を観られない。

それへの不満が民衆の眼を狂わせている。確かな制度設計より、いますぐお恵みをになる。お恵みでなくても、自分たちにも未来がある。そう思わせてくれる力を強く望む。

描かれる未来の質や形、それが倫理や規範にのっとっているかは重要ではない。だって、インテリはそんなことばかりいって、ちっとも変化をもたらさないからだ。お行儀のよさ、育ちの良さがルールを壊すことに躊躇わせる。

そうだ。学歴なんかどうでもいい。たたき上げで苦労した人間なら、自分たちのことを理解できるし、自分たちの未来も考えているはずだと思う。そして、情報操作でそう思い込む。

だから、野党には何も期待しない。だって、ルールをぶちこわす腕力、喧嘩の強さは感じないから。

世論調査で、これを表す結果が出た。菅新政権への期待度は7割に近い。でいながら、モリカケなど政権中枢もからむ事案の捜査には解明が必要と、これも6割の意志が示されている。じつに矛盾する。


新政権とは名ばかりの顔を変えただけの政権だ。当然ながら、前政権の刑法罰にも価する事案は隠蔽を続けるに決まっている。なのに、その政権を圧倒的に支持しながら、自公政権がひた隠しにしている、悪しきことについては捜査を求めているのだ。

答えは簡単。自分はいい人でいたいから。だから政権の悪にはノーという。けれど、経済をよくする力は、叩き上げの腕力のある人にやってもらいたい。その過程も手法も丸投げ。実現する未来の質や形も問わない。

民衆が描く未来像が、ただ経済的に豊かな暮らしだけになっているからだ。そこに、金と力のない、かっこいいだけの色男はいらない。

ぼくは、かっこいい人がいない国ほど最低な国はないと思うけどね。









 

神話の国のアリスたち

ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(1865年刊)『鏡の国のアリス』(1871年刊)

 

初めて絵本を読んだとき、不思議でしょうがなかった。描かれている世界の現実にはありえない、不思議さではない。

 

迷い込んだ世界で、次々に脈絡もなくアリスを襲ってくる摩訶不思議な世界に、なぜアリスは、自分がそんな目に遭わなくてはいけないのか、いま自分のいる世界は何なのだろうと問おうとしない不思議さだった。

 

アリスは、最後には公爵夫人の押し付け教育の質問を無効にする否定行動もするし、裁判の理不尽さに異議も唱える。しかし、それまでは、すべてを従順に受け入れ、受け入れていくことで、元の世界へ戻る道がみつかるかもしれないと不可思議な冒険をこなしている。


いまはわかる。それは、アリスの迷い込んだ世界がアリスにとって、安心ではないけれど、楽しい世界だったからだ。

不可思議な世界には、未知という楽しさがある。怪しく、怖くもあり、危うさもある。しかし、そうした日常にないキケンは、子どものアリスにとってわくわくするものだったし、押し寄せる試練も、それがなければ、おもしろくも楽しくもない。

 

おかしな現実も受け入れてしまえば、怖さより普通になる。そして、その普通がこれまでとは違うものなら、そこに否定より従順がついてくる。


まして、キャロルがアリスたち少女たちへの好奇心とエロス的願望でつくりあげた世界には、並大抵ではない、言葉遊びと知的好奇心をそそる世界が広がっていた。怪しくもあり、知的でもある。それだと当然、否定より従順が先になる。


利益相反や公文書の書き換え、隠蔽といった刑法犯が成立する事案があふれながら、長く、安部政権にこの国の人々が甘んじてきたのは、それではないかとぼくは思っている。


辞任前は半数以上の人たちが内閣不支持をいいながら、マスコミの先導があるにせよ、菅政権の誕生前後から一気に支持や期待に変わってしまう異常さもそこにあるような気がしているのだ。アリスのように、ちゃうじゃんとは言うが、キャロルがつくった世界全体を否定しない。できない。


アリスの世界には、寓意や寓話、日本でいえば、神話にされている隠喩や暗喩、古い言い伝えの慣用句や表現が散りばめられている。キャロルはそれを肯定ではなく、イロニー、批評としてコラージュしている。

既存の決まり事、決め事。それまで、当然とされていた教育的教訓や勧善懲悪の基準の否定のためにだ。

 

そのおかげで、児童文学のいい子にしていなさい一辺倒から文学性を高める道を拓いた。ジョイスがキャロルに強い影響を受け、名作『フィネガンズ・ウェィク』が生まれたのもそのひとつ。

しかし、この日本という不思議の国では、逆に、触れるには要注意とされてきた憲法問題や軍事拡大、格差当然といった社会への転換が、キャロルとは逆のベクトルで使われている。触れ方注意だった、寓意や寓話、教訓の完全否定だ。


その代りに、アリスを楽しませる言葉遊び(ご飯論法などのごまかし答弁)やそれを当然とする、政治をつくりあげた。利益供与をし、従順な官僚、経済人、マスコミを喜ばせる。この世界は危ういが、既存の決まり事を壊してしまえば、楽しい。

国民も、アリスのようにダメじゃんとは思いながら、いまを壊すより、今のままの方が危ういのはわかっているけど、なんとなく生きられて楽しい。

それが、ぼくらの不思議な国、何でも許される神話的世界。つまりは、アリスの世界になって、危うく、だけど、従順であることで、キケンを楽しむ国。キケンと楽しさをない交ぜにしていられる、アリス的国民、その国の住民になっている。