秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

色男のいらなくなった国

「色男、金と力はなかりけり」と江戸ではいわれた。いまさらながら、うまいこと

をいったものだと思う。

 

金のためだけに心血注げば、それは当然、顔も険しくなるだろう。商業資本主義の基本というのは、どれだけ安い労働力や資材で物やサービスを生産、提供し、それを持たない、欲しがる他人、他の集団や異国に売りまくることだ。そりゃ面相も悪くなる。

 

まして、それを実現するためには、既得権益に割って入る力がいる。権力や権威を買収し、自ら既得権益や権力を手にれいて、お行儀の悪い恫喝まがいのことも駆け引きとして使う。そりゃ人相も悪くなる。

 

いい顔ばかりをしてはいられない。顔色ひとつ変えず、ときには薄く笑顔浮かべながら、従わせる。目が笑ってない。目の奥に怖さがある。逆らうとひどい目に遭わせるぞといっている。それりゃ色男とはいかない。

 

だが、いまは愛想のある悪顔というのがトレンドらしい。世界経済を牽引し、自国ファーストと自国スタンダードを当然とするアメリカ、中国の大統領や主席、他国干渉を続け、領土拡張を図る、これも自国ファーストのロシアの大統領など、笑顔は少ないが時折みえる愛嬌のある笑顔がいいらしい。

 

つい最近、この国でも同じような人物から同じような人物に首相役が移管された。残念ながら、アメリカ、中国、ロシアの彼らよりは世界戦略、外交の能力、知力、腕力には遠く及ばないけれど。

 

ただ、いずれにも共通するのは、超高学歴ではないこと。政治の世界で下住みから這い上がった実力者だと民衆に思われていることだ。正確にはそうした演出をして民衆の支持を得ている。そうしたマスコミ操作や警察権力の利用、司法操作はいずれも大得意だ。

 

いま世界に広がってるいるのは、色男でなく、「育ちのいい人、金と力に逆らえず」「育ちのいい人、お行儀良すぎで変えられず」らしい。

大統領選で番狂わせの目に遭ったヒラリーしかり、民主党の政権中枢にいた人々は、アメリカンインテリゲンチャ―の巣窟、ハーバード大卒を始めとするアイビーリーグやジョンホプキンス大卒など、名門校が圧倒的だ。

日本でもかつては政界でも東大、京大、早慶卒が幅を利かせていた時期がある。中央官僚に同窓生や先輩後輩が多いこともあって、政策実現にあうんの呼吸があったからだ。

経済発展が順調で、成熟しておらず、完成されていない資本主義時代には、こうした制度設計に長けた頭脳を持つ人間に役割りがあったし、それで成果も出せた。

しかし、資本主義が成熟してしまうとITやDNA、再生医療再生可能エネルギーなど形の見えない産業へと構造変化が進む。資本主義には消費する集団が必要だが、その牌は、低成長国といわれた国々の成長とともに少なくなる。

資源そのものも限りがあり、どこかを開発して手にいれるための、どこかが地球上においては、アフリカくらいしかなくなった。つまり、資源を得て、加工し、あるいはそのまま売買するという資本主義のシステムが大規模には成立しなくなったのだ。

そこでマネーゲームが高度資本主義の中心になり、当然ながら元本を持つ者とと持たざる者の差は拡大する。投資の対象にならない事業も人も未来を観られない。

それへの不満が民衆の眼を狂わせている。確かな制度設計より、いますぐお恵みをになる。お恵みでなくても、自分たちにも未来がある。そう思わせてくれる力を強く望む。

描かれる未来の質や形、それが倫理や規範にのっとっているかは重要ではない。だって、インテリはそんなことばかりいって、ちっとも変化をもたらさないからだ。お行儀のよさ、育ちの良さがルールを壊すことに躊躇わせる。

そうだ。学歴なんかどうでもいい。たたき上げで苦労した人間なら、自分たちのことを理解できるし、自分たちの未来も考えているはずだと思う。そして、情報操作でそう思い込む。

だから、野党には何も期待しない。だって、ルールをぶちこわす腕力、喧嘩の強さは感じないから。

世論調査で、これを表す結果が出た。菅新政権への期待度は7割に近い。でいながら、モリカケなど政権中枢もからむ事案の捜査には解明が必要と、これも6割の意志が示されている。じつに矛盾する。


新政権とは名ばかりの顔を変えただけの政権だ。当然ながら、前政権の刑法罰にも価する事案は隠蔽を続けるに決まっている。なのに、その政権を圧倒的に支持しながら、自公政権がひた隠しにしている、悪しきことについては捜査を求めているのだ。

答えは簡単。自分はいい人でいたいから。だから政権の悪にはノーという。けれど、経済をよくする力は、叩き上げの腕力のある人にやってもらいたい。その過程も手法も丸投げ。実現する未来の質や形も問わない。

民衆が描く未来像が、ただ経済的に豊かな暮らしだけになっているからだ。そこに、金と力のない、かっこいいだけの色男はいらない。

ぼくは、かっこいい人がいない国ほど最低な国はないと思うけどね。









 

神話の国のアリスたち

ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(1865年刊)『鏡の国のアリス』(1871年刊)

 

初めて絵本を読んだとき、不思議でしょうがなかった。描かれている世界の現実にはありえない、不思議さではない。

 

迷い込んだ世界で、次々に脈絡もなくアリスを襲ってくる摩訶不思議な世界に、なぜアリスは、自分がそんな目に遭わなくてはいけないのか、いま自分のいる世界は何なのだろうと問おうとしない不思議さだった。

 

アリスは、最後には公爵夫人の押し付け教育の質問を無効にする否定行動もするし、裁判の理不尽さに異議も唱える。しかし、それまでは、すべてを従順に受け入れ、受け入れていくことで、元の世界へ戻る道がみつかるかもしれないと不可思議な冒険をこなしている。


いまはわかる。それは、アリスの迷い込んだ世界がアリスにとって、安心ではないけれど、楽しい世界だったからだ。

不可思議な世界には、未知という楽しさがある。怪しく、怖くもあり、危うさもある。しかし、そうした日常にないキケンは、子どものアリスにとってわくわくするものだったし、押し寄せる試練も、それがなければ、おもしろくも楽しくもない。

 

おかしな現実も受け入れてしまえば、怖さより普通になる。そして、その普通がこれまでとは違うものなら、そこに否定より従順がついてくる。


まして、キャロルがアリスたち少女たちへの好奇心とエロス的願望でつくりあげた世界には、並大抵ではない、言葉遊びと知的好奇心をそそる世界が広がっていた。怪しくもあり、知的でもある。それだと当然、否定より従順が先になる。


利益相反や公文書の書き換え、隠蔽といった刑法犯が成立する事案があふれながら、長く、安部政権にこの国の人々が甘んじてきたのは、それではないかとぼくは思っている。


辞任前は半数以上の人たちが内閣不支持をいいながら、マスコミの先導があるにせよ、菅政権の誕生前後から一気に支持や期待に変わってしまう異常さもそこにあるような気がしているのだ。アリスのように、ちゃうじゃんとは言うが、キャロルがつくった世界全体を否定しない。できない。


アリスの世界には、寓意や寓話、日本でいえば、神話にされている隠喩や暗喩、古い言い伝えの慣用句や表現が散りばめられている。キャロルはそれを肯定ではなく、イロニー、批評としてコラージュしている。

既存の決まり事、決め事。それまで、当然とされていた教育的教訓や勧善懲悪の基準の否定のためにだ。

 

そのおかげで、児童文学のいい子にしていなさい一辺倒から文学性を高める道を拓いた。ジョイスがキャロルに強い影響を受け、名作『フィネガンズ・ウェィク』が生まれたのもそのひとつ。

しかし、この日本という不思議の国では、逆に、触れるには要注意とされてきた憲法問題や軍事拡大、格差当然といった社会への転換が、キャロルとは逆のベクトルで使われている。触れ方注意だった、寓意や寓話、教訓の完全否定だ。


その代りに、アリスを楽しませる言葉遊び(ご飯論法などのごまかし答弁)やそれを当然とする、政治をつくりあげた。利益供与をし、従順な官僚、経済人、マスコミを喜ばせる。この世界は危ういが、既存の決まり事を壊してしまえば、楽しい。

国民も、アリスのようにダメじゃんとは思いながら、いまを壊すより、今のままの方が危ういのはわかっているけど、なんとなく生きられて楽しい。

それが、ぼくらの不思議な国、何でも許される神話的世界。つまりは、アリスの世界になって、危うく、だけど、従順であることで、キケンを楽しむ国。キケンと楽しさをない交ぜにしていられる、アリス的国民、その国の住民になっている。



デクノボーになれないデクノボー

この世に生まれてきて、自分が生きたという印がほしい。証を持ちたい。それを知る人、認める人がいてほしい。できれば、たくさん…。

 

人は生まれながらにして、自己承認の欲求を持っている。

 

それは、乳飲み子や幼児がそうであるように、生存のためであり、思春期の子どもが親や教師、周囲の大人たち以上に、同性、異性から認められ、仲間として受け入れてもらえないと学校生活もままならないように。

 

社会に出て、自分の仕事や能力が評価されないと愚痴をこぼしたり、落胆したり、焦ったり、恨んだり、明日への希望を失くすように。


だから、人はいろいろなことをやる。いろいろやる中で、失敗し、挫折し、傷つく。他者や組織、世間の評価を得るのは、容易いようで、じつは、難しい。

 

かつてのように、人と人のつながりが深く、生活の場も情報も限られた世界では、狭い関係性やエリア内でそれが満たされることもあったが、いまはそうはいかない。情報化の中で、自分が思うように、自分という人間を認め、受け入れてくれる場や機会は多いようで、世界が広大過ぎるがゆえに難しいのだ。


その中で承認の感触を得るには、情報化社会に対応するリテラシーやそれに適応するコミュニケーション能力、知恵がないと、簡単ではない。


かといって、そうした能力はだれにでもあるわけではない。しかし、じっとしていてもそれは向こうからはやって来ない。そこで、大きく分けると二つのどちらかを人は選択する。している。


ひとつは、失敗や挫折の傷をひたかくしにし、笑顔で元気で明るい姿を代替えにして、場合によって男女を問わず、外見や容姿、性的なもの、お笑い芸とかいったものを使い、違う形で承認をもらい、自分の居場所を得る。

 

もうひとつは、自分と同類、あるいは従う者たち、つまり取り巻きをつくり、リテラシーやコミュニケーション能力の欠如をうまくごまかし、要領よく、らしきもの、のようなものとして居場所をつくることだ。

場合によって、そこには、物、金、地位、名誉、社会的な肩書といったものをばら撒き、取り巻き集団からさらにその取り巻き集団へと、承認される世界を拡大していく。


だが、いずれも底が浅い。

やっているうちに学び、身に付け、いわゆる知的にも向上していけばいいのだけれど、そもそも学ぶことがいや、苦手、学を楽しむ、学で苦しむということをメゲずにやることができないと、底の浅いまま、やたらあれこれ手を出し、弄り回し、余計なことをやらかしてしまう。

あたかも、いろいろやっていることそれ自体で承認を得られるかのように。つまり、小さな親切、大きなお世話をやらかす。だが、大きなお世話、やらかしていることの無為無策に気づけない。


宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』の詩に、デクノボーという言葉がある。何の役にも立たない人形のような存在、「木偶の坊」と書く。

無為無策で、他者にも、世間にも、社会にも、国家にも役に立たない、存在意義のない存在。だが、それでいながら、賢治のいうデクノボーは、正直で、憎めない。

 

東奔西走して、人々の役に立とうとしながら、何もできず、救うこともできないのだが、寄り添い、言葉をかけるだけで、余計なことをしない。小さな親切 大きなお世話はやらない。なぜなら、自分を知っているからだ。そして、世間に認められたいとか、名声を得たいとか、金持ちになりたいとか思っていないからだ。

とかくに、承認欲求の強い人ほど、世間の眼や周囲の評判、噂といったものを気にかける。気の毒なくらいだ。だが、その結果、他者からの承認の前提となる、「自分」を築けない。判断もできなければ、決断もない。風に左右され、時々の流れに竿刺される。


つまり、言葉通り、文字通りの木偶の坊。賢治のいう、デクノボーになれず、かえって、世間、社会、世界をガタガタにさせてしまう。


今日、その典型的な人物が、2か月以上ぶりに記者会見をするらしい。無為無策であれば、まだ許せるだろう。

しかし、この国の首相がやってきたことは、知性のない人間ばかりを取り巻きにし、そこで得られた承認をすべてとして、ぼくらの生活をひっかき回し、法制度そのものを裏切り、刑事罰当然の案件をスルーし、歪曲し、国民の血税無為無策のために世界に無断でばら撒いてきた人間だ。

だが、こうした人間が首相でいられて来たのも、一重に、ぼくら国民が承認病にかかって、世間の風だけで生きているからだ。



あうんの呼吸と知らない素振り

初対面の場合は一層だが、親しい関係の他人であっても、あるいは家族のように頻繁に顔を合わせる人間同士でも

 

人は常に、人の素振りに目をやっている。

 

相手はどのような人なのか、何を考えているのか…。言葉にはならない、素振りから、その人の資質や性分、いまの気分まで人は知ろうとし、また相手も知ろうとしている。

よく知る者であれば、自分がこれまで知っているその人である確認をとろうと、いつもと変わらぬ素振りを示しているかを探っている。そのとき、その瞬間の気分や様子を知るために。


素振りをいかに、セリフ回しやちょっとした所作、ふるまいの中に組み込めるか。しかも、違和感なく。じつは、芝居の演技にとって大切はなものは、そこにある。

 

ぼくは、舞台でも映画でも、演技の余剰、過剰を役者には特に諫める。理論としてあるのは、主に世阿弥の『花伝書』とモスクワ芸術座のリアリズム演劇を確立した、演出家スタニフラフスキー『俳優修業』から得たものだが、舞台の演出、映画の監督の現場、自分の仕事以外の舞台、映画にふれてきた経験やそこから学んで得たものも大きい。

 

余剰や過剰な素振りをぼくが強く諫めるのは、明確にそうだとわかる素振りを人は普段、決してしないからだ。

意識したしぐさ、所作としてではなく、無意識で、生理的なふるまいこそが、素振りであり、年齢にかかわらず、才能豊かな俳優は、こちらで細かく指示をしなくても、あるいは、指示をしたとしても、わずかな修正でそれができる。

まさに、あうんの呼吸で、少しのやりとりや「そうじゃない」「そっちじゃありません」とぼくが短く指摘するだけで、見事にこちらの求めに応えてくれる。


たとえば、武道がわかりやすい。

 

対戦する相手の息遣い、手や指の動き、足の運び、目の動き…といったわずかな所作から相手がどう動くかを読む。それは観察力、推察力、読心力だ。人が人と向き合うとき、それがなくては、双方にいいコミュニケーションは生まれない。相手の考えていること、望んでいることが見えないと人の会話はぎくしゃくする。

人は言葉だけでは伝えられない、あるいは、言葉にできない何かを素振りという信号で発信し、心の奥深いところで、それを受け止めてもらいたいと願っているのだ。

 

それを読み取ることを普段から意識していないと、自らが演技としてそれを表現しようとしたとき、うまく形にできないのだ。


ところが、いまぼくらは、この素振りに知らんふりをすることに慣れて来ている。あるいは、素振りの信号を読み取れない人が増大している。


理由はある。ひとつは、自分の素振りは読み取ってほしいが、人の素振りを読み取る力がない。成育歴の中、学校や地域教育の中で、それを教え、訓練させる人、場がなくなっている。

 

また、ひとつは、現実の問題や課題、自分が向き合わなければいかない現実を曖昧にしたいからだ。人は困難や苦難に直面すると、不安になる。その不安から逃れるために、意識も思考も撤退してしまうという心理的習性がある。

いじめ、不登校、ひきこもり、夫婦の不和など、不協和音の鳴っている家族がそうであるように。コロナ禍以前からだが、コロナ禍の中、ますます増えているシングルマザーや子ども、単身女性の貧困や生活苦といった社会的問題もそうであるように。

あるいは、機能しない政治や手前勝手な経済政策、コロナ対策の稚拙さといったことも、いまこの国が直面しているあらゆる課題を曖昧にしているように。

疑問視や直視を避け、知らない素振りをするテクニックとごまかしだけが巧みになっている。問題には知らない素振りをしながら、そこだけは、みんながあうんの呼吸で素振りを読み合っている。

「日本人はよく怒りませんね。中国だったら、とうに暴動が起きていますよ」。いまの話ではない。20年以上前に友人の中国人夫妻に言われた言葉だ。


素振りが読めなくなったぼくら日本人の悲しい現実だ。決して、美徳ではない。


 

 

 

 

夜空ノムコウ

子どもの頃はやたら怪我をする。

いまの子どもは山や川で遊ぶこともないので、ぼくらの子どもの頃ほど下草や小枝、石に転んで切り傷をつくるということも少ないだろう。

 

些細な切り傷であれば、すぐにかさぶたができて、治る。ところが、これがかゆい。治りかけほどかゆくなる。それで、ひっかいてしまい、また血がでる。

 

その度に、よく母親から叱られた。

 

心の傷は切り傷とは違うが、同じように、かさぶたができる。場合によって、傷の痛みの記憶をかさぶたで治さず、深層に格納してしまうこともある。

心の傷にかさぶたができた頃、そこを自分で掻きむしる、あるいは他人に掻きむしられれば、かゆみではなく、痛みが走る。時に激しく。

ぼくらはだれしも、程度の差はあれ、心の傷口にできたかさぶたをはがす行為には、敏感に反応するものだ。切り傷のかさぶたから血が噴き出すように。


要領よく、単純にすべての傷を格納庫に運べればいいのだが、何かの不安要因や新たなストレスを抱えていると、格納が追い付かない。せめて、かさぶたで覆って痛みを感じないようにしている。


ぼくらは、いまコロナという感染症への不安とストレスを抱えている。だが、感染だけでなく、それによって生まれている生活や将来への不安とストレスの方がさらに大きい。

思うように行動できないことへのいら立ちもあるだろう。そして何より、人と通常の接し方ができないことがよりいら立ちを大きくしている。


同じとは言わないまでも、似たような考え方でいてくれるのか。自分の考え、自分という人間は自分が思うように他者に伝わっているのだろうか。自分の言動はおかしいと思われてはいないだろうか…といった自己評価への不安が生まれている。


確認の手立てが薄くなり、そのための会話の時間が少なくなっているからだ。物理的、便宜的、作業的な会話は、気持ちを通わせる会話にはならない。確認を求めれば、会話は途端にかみ合わなくなる。


小学生の頃、その確認ができず、自分の居場所のなくなったとき、ぼくはある手立てを思いついたことがある。

 

ひとつは本の世界に埋没すること。そして、もうひとつは、いまの現実を仮想に代えてしまうことだった。

 

じつは、自分はそこにおらず、地球を眺める宇宙空間に浮遊するカプセルの中に本当の自分がいる…そう思うようにした。

自分を受け入れてくれない世界はあるけれど、地球の上で他のだれかとして、そこに自分がいるだけだ。そう考えることで、受け入れらない辛さや寂しい現実をやり過ごそうとした。

そうすると、自分のことはどうでもよくなり、受け入れらない人たちに歯がゆい思いをすることも、怒りを感じることもなくなった。

不思議なことに、それ以上に、その人たちが自分のように宇宙でひとりではないことを喜び、地球の上で幸せであってくれたらいいと思えるようになるのだ。


それまでもぼくは夜空の向こうにある宇宙の未知に心を躍らせていたけれど、一層、宇宙や宇宙物理学、数学の世界に興味を掻き立てられるようになっていった。


ペルセウス流星群がいま地球から一番よく見える宇宙を飛んでいる。かさぶたのある人は、夜空を見上げてみるといい。東京では見られないが、あの夜空のむこうに、きっと何かがあるはずだから。



 

 

 

責任を痛感しております

時間と記憶(空間)の問いは、ソクラテスの昔からあった。そこにギリシャ悲劇が誕生したことも当然のことだ。ぼくは演劇という窓を通して、それを学び、実感してきた。

演劇は身体を通して、時間と記憶をどう観客と共有するかの芸術だからだ。

たとえば、ソクラテスからずっと後、実存主義は、存在の証明をまるで演劇の構造物のように、時間と記憶、その誤謬に求める。

 

だから、その祖ともいえるベルグソンはフランス喜劇の笑いに夢中になったし、ハイデッカー、ヤスパースキェルケゴールを経て、サルトルに至っては戯曲まで書いている。


だが、実存主義は、時間と記憶の認識において、あまりに文学よりで、前頭葉頼りだったのだと、いまにして思う。余談だが、だからこそ、あれだけ実存主義系の学者や作家の多くが愛人を持ったのだw。自分たちの前頭葉では理解できない世界への憧憬だ。

 

サルトルの戯曲は決して演劇的とは言えない。身体性や知覚と言語など、その後、現象学が登場すると愛人に弱い、実存主義は現実把握において、未熟だと理解されるようになった。

一重に、それは、身体がそうであるように、時間と記憶がすべからくあらゆる人に同じ尺度ではなく、知覚として認識される現象も、それを表す言語もひとつではない、というあまりに身体的で、直截な現実がぼくらに明白になっていったからだ。


ベケットは、この実存主義の弱さを個の尺度の違い、誤差に求め、個の総体、人々全体が、「そうであろう」と認識する世界が、身体性の相違のように、世界理解の尺度の違い、誤差の集積によるもので、実は存在しないという、現実と不安を提示して見せた。


そう。ぼくらは、それぞれが持ち合わせている時間、その長さ、質が実は個々に違う。時間のそれらが違うということは、共有しているだろうと思い込まれている記憶もじつは、相違があり、すべてにおいて誤差がある。あって当然なのだ。


日常を維持し、継続させるために、ぼく及びぼくらは便宜的に、時間の違い、記憶の誤差について、自動可変装置のように、辻褄を合わせているに過ぎない。この自動可変装置が機能しない人、うまく動作しない人たちをぼくらは精神的な疾患や精神的、人格的障害のある者として脇に置いてるだけのことだ。


彼らの描く世界が時に、ぼくらの想像を超えて、美し過ぎるのは、平準化・均一化・無個性化していない、見たこともない別世界を目の当たりにする畏怖と感動からだろう。

一方で、ぼくらは、平然と誤差を無視し、さも多くの人々と同じ時間、記憶を生きてるという演技をすることもできる。自動可変装置が機能しない、もしくはうまく作動しないことをごまかし、日常言語レベルもしくは、それ以下でしか会話ができないために。


「善処いたします」「記憶にございません」「責任を痛感しております」云々という言葉は、言葉ではなく、もはや一つの言語だ。自己の存在を消す世界の言語。意味性も何もない無の信号だ。ただ、信号だから、発信はしている。


自分はいないという信号だ。存在しないことの証として、「責任を痛感しております」がある。


つまり、いまぼくらの国には、首相は存在していない。






ダブルクラッチ

物事が人との協働作業がうまくいっているとき、ぼくは、いつもこんなふうに思う。

 

「ああ、いい具合に歯車がかみ合っているなぁ…」。

 

歯車がかみ合うというのは、こちらと相手の願いや期待、希望が共有され、同じイメージを共有していることが感じられることだ。平たくいえば、志を共にしているという実感だ。目指す動きがシンクロしている状態だといってもいいだろう。

物事を動かす動力が志だとすれば、どの動力を伝え、実現へ向けて形にしていくのが歯車のかみ合い具合だ。

 

自動車がぼくらの生活に大衆化していく頃、いまのAT(オートマテック)車というものはなかった。ギアを手動で換えるMT(マニュアル)車だけだった。

ギアや車両の精度や質もあったと思うが、車が古くなるならないかかわらず、ギアチェンジするときにギアが滑り、変速がうまくいかないというケースもままあった。

ギーといやな音が響き渡ることも多かった。これは高速より低速の方がエンジンの回転数が上がるので、ギアを急に入れ替えるとエンジン回転にギアがついていけずに、うまくかみ合わないためだ。

ダブルクラッチという運転技術は、カーレーサーが始めた手法だが、運転好きの奴は、減速するときに、一度、ギアをニュートラルにして、そこから減速するギアにシフトチェンジする。そうしないと高速から減速するとき、ギアを壊してしまう。

ぼくはエンジンブレーキ好きで、MT車でも減速するときセカンドにギアを落とす。あるとき、横に乗っていいた友人の男性ディラーから「ギアが壊れるから!」と文句を言われたのを覚えている。だが、現在のMT車は自動制御装置が完璧。ダブルクラッチを自動でやってくれる。ギアが壊れることはない。

いまぼくらの社会、世界では、かみ合わないギアの音があちこちで鳴り響いているように思う。


ギアシフトが壊れる嫌なノイズも社会を世界を覆っている。

 

それは人と人の関係から、人と組織、組織と組織、地域と国、民族や人種、そして、国と国の間でも…

ダブルクラッチを踏んで、回転数を互いに合わせるという知恵やゆとりがないからだろう。しかし、それは、社会が国が、そして世界が理想へ向けてシンクロしない、残念な時代へと向かう道を示しているとはいえないだろうか。

けれど、社会や国、世界がそうでないからといって、ぼくらひとり一人までもがそうある必要はどこにもない。もちろん、社会や国、世界のいまをつくっているのはぼくらひとり一人だ。

だからこそ、そのぼくらが身近なところから互いの歯車をかみ合わせ、志を重ねていけば、ダブルクラッチの知恵や技術のない愚かで、どうしようもない世界も変えることができるはずだ。


すべるクラッチののれんに腕押しといった歯ごたえない、いつ操舵不能となるかわらかない不安を生きるより、手に伝わる確かなギアのかみ合った感触を味わうほうがどれだけ安心で心地よいかわらならない。


そこから、始まるのだ。「ああ、いい具合に歯車がかみ合っているなぁ…」というあるべき社会、国、世界の一歩が。






 

 

しがみつく

中学生の頃、本の虫だったぼくが夢中になった作家のひとりに、フランツ・カフカがいる。

思春期の中学生をカフカに夢中にさせたのは、そこに描かれていた「正体不明の不安」「自分という存在の不確かさ」だった。


20世紀後半から21世紀のいま、そして100年に一度といわれる天災や感染症の拡大で、ぼくらはカフカが予言した「正体不明の不安」の只中にある。

カフカが提示した不安。それが描こうとしたのは、超高度管理社会が突如出現し、膨大化してしまった法制度や社会システムがその支配下にある自分たちに見えなくなる不安。それらが自分たちの理解や認識を越えて、つかみどころのない、得たいの知れない何かに変貌してしまう不安だ。

それは、言いかえれば、自分の脳が理解していた、これまでの世界観が根底から覆される不安だといってもいい。

だが、ぼくらの時代、カフカを越えて、個の存在不安が世界全体を覆い、不安を要因として、思い込みの正義、正しさという名の暴力が大衆化されていく怖さに遭遇している。

ユダヤ人であったカフカは個の不安の動因として覆された世界観=ナチの登場を予見していたが、それがナチのような残虐の顔をせず、正義や正しさという美しい顔をした悪意として大衆化されることまでは予見していない。

ぼくらはカフカが描いた変容した世界観から瓦解へ向かう世界の現実に直面しているのだ。それは環境問題であり、エネルギー、水、食料といった生存の基本にかかわるものから、資源枯渇型資本主義の限界まで。

感染症はどこを発祥としているかが問題なのではない。自然のひとつであるウィルスと人がどう向き合うのかの問いなのだ。

そこに、経済優先という資源枯渇型資本主義を持ち出す愚かさは押して知るべしだし、明らかに実現不可能なオリンピック開催にしがみつくことの愚鈍さは言うまでもない。

そこに、いま世界が置かれている不安と不安が導く、美しい顔をした悪意の大衆化を止める知恵は微塵もない。

カフカの名作『審判』にかけるべきは、いまこの地球を破壊し、大衆化する根拠のない暴力と不安に踊らされる大衆心理に何の方策も打ち出せない治世者とその利権にしがみつく経済人、そして、それを批判しつつも、正義や正しさを振りかざすことで、これまでの世界観を取り戻せると差別や偏見、排除や暴力にしがみつく

あなたたち民度なき大衆だ。






 

 

パブロフの犬

パブロフの犬」という言葉が中学のとき、クラスの中で流行ったことがある。

 

体験的で強制的な学習によって、行動が習慣化、パターン化されるという条件反射を解明した、ソビエト生理学者イワン・パブロフの実験のことだ。

ぼくらは、習慣化され無意識に反応してしまう行動に愚かさを感じたのだろう。何かで互いを揶揄するときに、「あ、パブロフの犬だ!」と笑いにして使っていた。得たばかりの知識を子どもはすぐに変容して使いたがる。

時として、子どもの悪ふざけは人を傷つける。よいことではないが、ぼくらが実験=教育によって習慣化されてしまう生き物の条件反射を愚かさの一種と理解したことは決して間違ってはいない。

フランスの哲学者、ジャン=ジャック・ルソーは、その教育論の中で、「教育とは本来不遜なものだ」と語っている。すでに制度化され、社会通念とされている道徳や規範、それに基づく法に従わせるために、大人の都合、社会制度を維持するために、子どもを適合させる。それにそぐわないものは、場合によって本人の意志とは無関係に矯正する。それを正しいことと考えている。

社会制度や規範は、その時々の政治権力、宗教を背景として、とりあえず、便宜的に合意されたもの、人為的につくられたものに過ぎない。何かあれば、その基軸は容易に変容する。

 

だとすれば、教育そのものになにひとつ正当性はない。ルソーは、それを不遜だと言ったのだ。

それを前提としなくては、教育は教育でなく、小さな親切、大きなお世話。大人たちの手前勝手なご都合主義、場合によっては虐待に陥ってしまう。それは自主性を育む教育ではない。ルソーはそれを強く諫めた。

自主性とは、自ら考え、試行錯誤し、失敗があっても学び、自ら普遍的な価値、回答に辿りつくことだ。それによって、自己決定能力も主体的な思考と行動を身に付けることもできる。自尊感情はその過程で自然と育まれていく。

かつて、この国の政治家や中央官僚は、すべてとは言わないが、大きな力を持つ者ほど、そういう教育を受けた人間がその職にあった。


単に高学歴であるというだけでなく、頭脳明晰で、主体的な思考と行動ができなければ、トップの政治家にも官僚にもなれなかった時代だったのだ。

もちろん、利権を貪る輩は昔からいたし、それに群がる人間もいた。しかし、少なくとも、いまほど愚かではなかった。

この国のいまの政権、それに迎合する中央官僚や財界、現行の政治を支持する国民の多くは、詳しくは述べないが、時代的に、少年期や思春期すでに、社会に適合するための生き方しか習慣化されていない。反権力や反社会はみっともない事、恥ずかしい事、無力なことと教えられ、現実にそうした前例しか体験もしていない。

 

一度、善悪や正誤を越えて、現状維持を習慣化された脳は、その判断基準は持てないし、持とうとはしない。言われるがまま、公文書を改ざんし、政権を擁護するための屁理屈や言い逃れ、虚偽発言を平然とできてしまう。

それを善悪や正誤の基準で強く批判しても、彼らにはまったく響かない。パブロフの犬状態が長く続いているから当然のことだ。


心理学で人間の残虐性の実験がある。

被験者二人に相応の料金を払い、ひとりを電気ショックの被験者とさせ、ひとりに電気ショックを与える役割りをさせる。

電気のダイヤルを回すひとりに、この実験が社会的に大きな成果を生むという正義、正しさを教え込む。すると、この行為が正しいことだと教えられた加害者役のひとりは、ためらうことなく電圧を上げることができてしまうのだ。善悪の基準がないから、罪悪感もない。当然の自分の役割、使命として平然と電気ショックを与え続けることができる。

格差も貧困も自殺増も コロナ感染拡大も それによる倒産増加も 彼らには関係ない。心底、民のために泣くことも 無力な自分を恥じることも あらん限りの努力を不眠不休でやる心意気もない。


ぼくらは、いまそうした社会、国に生きているのだ。

 

 

 

困ったちゃん 困ったくん

世の中には、困った人がいる。

 

かつて、それはKYなどともいわれた。周囲の空気が読めない人ということだが、いまどきの困った人は空気が読めないだけではない。

 

やたら、正義を振りかざす人やさして知識もないのに、あるがごとき錯覚をしている人、表層的にしか物事をとらえられない人たちだ。そうした人たちがテレビに毎日のように登場し、無邪気に私見を垂れ流す。

 

テレビはドキュメンタリーや映画しかみない人間になったのは、マスコミが垂れ流す報道の軽薄さ、なんとか評論家の底の浅さに辟易したからだ。

 

「マスコミの劣化はこの国の政治家・官僚の劣化に等しい」という悲しむべき公式が誕生している。

 

ところが、多くの人はそうでもないらしい。いま、情報操作という言葉が大流行りだが、この国の多くの人がその情報操作によって、情報操作されていないものを社会からあぶり出し、たたき、打ちのめす。

 

ひどい世の中になったものだと嘆息をもらしながら、自分自身がひどい世の中をつっているひとりであるという自覚がない。それがこの国の国民の正体だ。

1959
年に上梓された、三島由紀夫の評論・随筆に『不道徳教育講座』(角川書店刊)がある。

講演会やテレビインタビューなどで軽妙洒脱に語る三島の口調がそのまま文体になった本で、既存の価値観に縛られて、画一主義、前例主義で保身に走る、この国の官僚機構や企業、組織の古めかしさを鮮やかに切っている。世間という実態ない同調圧力がこの国をダメしている指摘もこのときすでに三島はやっている。

いまの時代に息苦しさや嫌気の差している人にはぜひ読んでもらいたい。

その本の上梓から10年後、三島は自決するのだが、天皇制と憲法改正、軍隊の創設をいった三島が、古い道徳感や倫理観を吹き飛ばす軽妙な評論・随筆を書いているのが理解できないという薄学の人も多い。

 

だが、三島の中では一貫している。三島がこだわったのは、失われていく、この国の禁忌性だ。

 

禁忌性とは、侵すべからずもの、犯すべからずなもののことだ。逆の言い方をすれば、畏敬、畏怖すべきもの、触れてはならないものと言ってもいい。

 

三島が伝統文化や土俗的な地域性・地方文化にこだわったのも、そこに禁忌性の領域が残されているからだった。踏み込んではならない領域、場所。それは結界の張られた森の一隅であり、神社や海の岩礁に立つ社といった祭事の折でもなければ、その神髄に近づくことも立ち入ることもできない存在だ。

 

それらを軸としてつくられる秩序や伝統文化だ。

 

実は、法と法制度、その根幹をなす社会倫理や道徳とは、この禁忌性を拠り所として成立している。

 

禁忌性が失われることで、社会秩序や倫理、道徳、規範といったものが溶解し、歴史の中でつくられたきたその土地、その国、その社会の姿までもが崩壊する…。その危機感が三島に真正天皇=神としての天皇の必要性を切迫させた。

禁忌なるもの、畏怖と畏敬の存在。その最たるものが、天皇だったからだ。真正天皇の復活が独立国家としてアメリカと決別する唯一の道だと三島は考えていた。それは、日本国の文化基盤の回復と三島の中では等価だったからだ。

異議はあるにしても、思考の流れと壊れゆく日本社会と文化を立て直そうとする意志と覚悟において、ぼくは三島を否定しない。否定してはいけないと考えている。

いま、この国には、困ったちゃん、困ったくんが溢れ返っている。それも民の安全と生活を守るべき、政治の中枢、経済の中枢にはびこっている。

 

それは三島が指摘した、禁忌性の喪失が、国をつかさどる政治家、官僚に始まり、経済界、民衆にまで、後戻りのできない崖っぷちまで浸食しているからだ。

禁忌性は排他や差別、階級制といった矛盾もはらんでいるが、そこを新たな知恵で克服し、あるべき秩序と社会倫理を組み立て直すときをぼくら国民は迎えている。

 

コロナ禍は、困ったちゃん、困ったくんを一掃しなければ、この国、世界に未来がないと教えているのだ。