秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

父の詫び状

51歳という若さで急逝した、直木賞作家向田邦子のエッセイ表題だ


女流作家はだれが好きかと訊ねられたら、ぼくは迷わず彼女の名を挙げる

どうあがいても勝てない作家はと問われたら ぼくは同じように、迷わず彼女の名前を挙げる


幼い頃から、ぼくは映画やテレビドラマが大好きだった。おそらく、同年代の仲間と比べても、比較にな

らないくらい観ていたし、多くの作品のストーリーやタイトル、出演者、脚本家、演出家の名前をほぼ記

憶しているほど、夢中だった。

とりわけ、高校生から大学浪人時代は映画ばかりでなく、テレビドラマにも釘付けだった。

しかし、当時、ぼくは、山田太一倉本聡石堂淑朗市川森一鎌田敏夫、山元清多、池端俊策といっ

たライターの作品には素直に共感していたが、向田作品はすごいと思いつつも、素直に受け入れることが

できなかった。

おそらく、つまらない日常のディティールを実に執拗なまでに追いかけ、その針の穴のような隙間から

人間の深層にある胡散臭さや淫靡さ、妖艶さをえぐり、人間の内臓をポンと放り出すような女性作家なら

ではのすご技に、ぼくは圧倒されていたのだと思う。

とても男には真似のできない、才能の持ち主だったといまは思う。

言葉を生理にして伝えられる稀有の人だった。


10代後半のぼくには、だが、そのすご技がこわかったのだ。だから、当時、向田作品が話題になる度に、

ぼくは周囲の友人たちに、「あいつは絶対に畳みの上では死ねないよ」と言いふらしていた。「あそこま

で人間の真実を暴くようなことができる人間は きっと人には語れない人生を生きているに違いない。ひ

どい奴だから、普通には死ねないよ」。実は、ぼくは、そう思うことで向田邦子作品を観るたびに、自分

に向かってくる、鋭利なナイフを必死で交わそうとしていたのだ。

しかし、その後、彼女は、ぼくが予言した通り、航空機事故で帰らぬ人となった。

そして、その死を機会にぼくはもう一度向田作品と向かい合った。

あまりの突然の死に、一度も面識のないのに、ぼくは、ひどく動揺し、言葉をなくした。

そして、なぜか、これまで、ひどく心にひっかかっていた一人の女流作家の作品をきちんと観直し、読み

直さなければと思ったのだ。

誘われるような感覚だった…。

そして、自分が10代の頃、向田邦子を嫌っていたのではなく、おそれていたのだということに気がつから

された。いや、憧れていたのだと気づいた。こんなに生活のスケッチを丹念に、ディティールにこだわり

描けたらどんなにすばらしいだろう…。自分にできない、そのすごさにぼくは改めて直面し、彼女が急逝

したことを心から嘆いた。


向田邦子が生きていたら、この国のテレビドラマはもっとましな作品がいまでも放映されたいたではない

かとぼくは、確信している。

向田邦子が亡くなってから、テレビドラマは人間の内面を丁寧に描かなくなった。

言葉を豊饒に費やし、現実味のない語り口だけの脚本が大手をふって歩いている。プロダクションの力で

キャスティングが仕切られ、イケメン俳優やアイドル風の若手女優や演技力のない美形だけが売りの女優

が大女優然として画面を泳いでいる。プロデューサーに作品をつくる力がなくなり、コミックやアニメの

原作、流行作家の小説をなぞるような作品ばかりが演出力のない、ゆるい画像で放映されている…。

それを押し返すだけの作家が育っていないのだ。向田邦子を失ったテレビ界は、テレビドラマの良心をも

失ってしまった。


いま、ぼくは、偶然だが、彼女が生活していたと同じ南青山に住んでいる。

彼女のエッセイに、窓の外、眼下に見える青山墓地の風景にふれた下りがあるが、墓地を挟んだ反対の場

所にぼくのマンションもあり、ぼくはよくウォーキングで青山墓地を歩くし、18歳の頃から通っている表

参道のコーヒー店に、いまでもよく顔を出す。その途中には、彼女のマンションが見えるのだ。

もうここに生活するようになって10年以上になるが、仕事の都合もあったのだろうが、生活してみるとこ

の一帯の空気感が心地よいと思っていた、向田邦子の気持ちにふれたような気になるときがある。

ちなみに ヒットドラマ「寺内貫太郎一家」の石屋らしき店はいまも青山墓地入り口の辺りにあるのだ。



つづく