秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

父の詫び状3

実は、父と母が本気で離婚しようとしたことがあった。

ぼくが中学生の頃のことだ。


原因は、祖父母を父の親族のどこが引き取るかでもめたときのことだ。

父が不治の病といわれていた肋膜炎を患い、医療費や生活費の工面に追われ、生まれて初めて質屋通いを

していたとき、祖父母があまりに冷たかった。そのときの辛い経験から、母は父の祖父母をよく思ってい

なかった。

祖父はかつて佐賀鍋島藩城代家老の家系で、大きな屋敷で育った経験から、プライドも高く、口もおご

っていた。一角千金をねらって、福岡へ乗り込んだものの、その生活は苦しく、それでいながら、育ちか

らの贅沢さがどこか抜けなかったのだ。尺八やアコーディオン大正琴を楽しみ、女遊びも絶えなかっ

た。母は母で、養女とはいえ、戦中戦後を食べることの苦労もなく、女中が何人もいるような地回りの家

に育ち、同じように贅沢に育っていた。父との生活で苦労するまでこれといった生活の苦労もしてきてい

ない。この二人がうまくいくわけがない。

父と母は祖父母のことが話題になるたびにもめた。

ぼくの家では、だから、祖父母のことを話題にするのは、タブーだった。

それがいつもどこかに夫婦の火種としてくすぶっていた。


親族会議から遅く帰ってきた父と母は、激しく言い合い、結局、父が母を平手で強く殴りつけた。

「どげな親だっちゃ、オレの親ばい! 親のことを悪く言われて気持ちのいいもんがどこにおるか!」

それまで、母が祖父母を激しく揶揄する言葉をがまんしていた父は、ついにキレた。そして、母は、「

わかったけん! それなら、うちが出ていくけん!」と叫んで泣き崩れた。「出ていけばいいったい!

帰る家もなかとに、どこに出ていくとか!」。

父の言う通り、母には、帰る家はなかった。母の義父は二人が結婚してまもない頃に他界し、その財産は

すべて妾や義父の親族に奪われていた。しかし、その事実を突きつけられたことは、母の気持ちをきっと

深く傷つけたに違いない。売り言葉に買い言葉だったが、それから父と母は口も利かず、重い空気がぼく

の家を覆った。

母は姉に、本気で離婚することを考えていると話していたらしい。

ある日、姉に誘われて、警察官舎のアパートの踊り場に連れ出された。夕暮れときだった。

「お父さんとお母さんは本当に離婚するかもしれんけん…」。姉は夕日を見たままいった。

「でも、私が高校やめて働いても、あんたはちゃんと学校に行かせるけん…。そのことは心配せんで、い

いけんね」。姉はそう続けた。

ぼくは、思った。高校生と中学生の子ども二人に、そっとこんなせつない会話をさせている原因をつくっ

ているのはだれだ。祖父だ。ぼくは、そのとき、本気で祖父を殺してやりたいと思った。

家が暗くなるのは、いつもあの年老いた祖父母のことだ。だったら、祖父を殺せば、ぼくの家は平和で、

普段の笑顔を奪われることもない。ぼくは単純にそう考えていた。そして、その自分の気持ちを父と母

に伝えるために、ぼくは、オルガンの上に、その不満を書いたメモを置き忘れたふりをして、置いた。

そして、ぼくがねらったとおり、それをみつけた母は父と話し合いをし、母の遠縁にあたる育ての母、

かつての乳母だった人に仲介を頼んだ。

父と母、その席で初めて、二人して笑った。

ぼくは以来、祖父に対して、たぶん冷たい態度をとっていたと思う。憎しんでいたとさえ思う。

しかし、祖父がなくなるとき、ぼくは自分と祖父があまりに似ていることを思い知らされ、何一つ、孫

に対して祖父らしいことをしなかった祖父だったが、祖父が自分の死に様をぼくに見せたことで、ぼくは

いまでも大事にしている、目には見えない大切なものを教えられた。憎しんでいた祖父が、ぼくにお金で

はかえれらない、大きな宝をくれたのだ。

あの死がなかったら、ぼくは作家にはなれていなかった。

ぼくはいまでもそう思っている。


つづく