秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

イニシェリン島の精霊

ある旧知の女性に言われたことがある。「あなたは、なぜ、そんなにアイルランド好きなの?」

ぼくは、答えた。「わからない。なぜだかはわからないんだ。自分でもどうしてだろうと思う」

いまでこそ、アイルランドは海外IT関連資本の進出で、経済的に先進国としての体裁が整っているが、かつては、10万人以上の餓死者を出すような貧しい国だった。国の貧しさの元凶は言うまでもなく、近世から中世、近代、現代に至る過程で、常に侵略され、経済的にも、宗教的にも分断され、内戦が絶えなかったことがある。

 

特に、イングランドへの併合以後は、イングランド貴族、特権階級が分割統治し、国民生活は長く窮乏のどん底だった。食料搾取は当たり前。自国のためではなく、イングラントのための兵役が課され、産業らしい産業といえば、漁業、畜産、羊毛、痩せた土地での農業といった一次産業しかなかったのだ。しかも、イングランドに買いたたかれた。

そのため、未来への希望が持ってず、貧しさから国外へ逃亡、移民化する人々が絶えなかった。受け皿となったのはアメリカ、カナダなど北米だ。かのケネディ家もそうした移民の末裔。差別された民のひとつだったから、暗黒街とのつながりでもないとアメリカの上流階級にのし上がることは容易ではない。かつて治安の悪かったブルックリンにアイルランド人が多く集まったのもそれに所以している。

 

第二次大戦後、国が自治権を獲得してからも、イングランドの干渉は続き、それが、IRAを生む、北アイルランド紛争にもつながった。それまで仲の良かったカトリック教徒とプロテスタント教徒の近隣住民同士、兄弟同士、親子が、裏切り、密告の上に、血を血で洗う内戦を繰り広げた。ベルファストの暴動虐殺事件はあまりに有名。

 

いまIRAとの和解により、平和は維持されているが、北アイルランドはいまもイギリス領のままだ。

こうした過酷な歴史を象徴するのが、アイリッシュダンス。映画「タイタニック」のデカプリオ演じるアイリッシュ青年と移民仲間が三等客船で踊る姿をご覧になった方もいるだろう。

アイリッシュダンスは、立ての跳躍とステップが主なダンス。そうした舞踏がなぜ生まれたのか。理由は、労働監視するイングランド兵士に見られたとき、踊って遊んでいると思われないためだ。外から家の窓を見られても、踊りに興じているように見られない。部屋の中を歩いているように見える。あるいは、足で小麦をこねているように見まがう。それほどに、享楽さえ制限された監視下にアイルランドの人々はいた。

その歴史の中から、アイルランドは、4人ものノーベル文学賞作家を生んでいる。イェーツ、ショー、ベケット、ヒーニー。ケルト文化の寓話や民話、アイルランドの土俗的文化を背景に、言葉の魔術といってもいい隠喩や暗喩に溢れた文学。その他にも、世界的作家として、「ガリバー旅行記」スウィフト、「サロメ」ワイルド、「ユリシーズジョイス、「吸血鬼ドラキュラ」ストーカーなどがいる。

荒涼としたアイルランドの海岸風景と一方で、自然林や湖畔といった美しい風景も持つ。自然を根幹にしたケルト文化を否応なく実感させられる生活。同時に、侵略と支配によって分断される理不尽さを受け入れざるえなかった現実。それらが見えてくると、ぼくは、アイルランドに特別な感情を持たざるえなくなっていくのだ。

人が近しくありながら、他人であり、友情や愛情、家族愛、それらを支える信頼や道理があるとき急変するという人の世の現実。その中で、同じ土地、同じ民として、どういう関係を生きなければならないかの選択を常に迫られる。そこから生まれる他者性をどう生きるかの問は普遍的なものになる。

ベケットの小説にこんな一節がある。「あの二人の男女は、いま口づけを交わし、ひとつに重なり合っていっている。だが、人がひとつになることなど不可能なのだ。人はいつまでも、ただひとつの魂でしかない」

この問いの厳しさが失われているいまの世界では、人と人がどう他者性を生きるかの正確で、冷静な判断を見失う。悲しいかな、それがいまの世界、社会の混迷の底にある。

映画「イニシェリン島の精霊」(監督脚本マーティン・マクドナー 主演コリン・ファイル)これを承知でご覧になれば、いかに優れた名作であるかご理解できると思う。
ドミニク役のバリー・コーガンの演技が素晴らしい。