秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

敗北のアップデート

統一地方選挙の前半戦が終わり、後半戦が佳境に入っている。

この間、統一教会の関与が疑われる、子ども家庭庁が開庁し、旧態然とした少子化対策が打ち上げられ、敵基地攻撃能力配備などという無謀な防衛費増額など重要案件が内閣決議で次々に決定されている。

驚くべきは、安倍政権以後、菅が主導して、議論もなしに計上されている予備費。国会の審議なし、国民の監視なしに、政権が自由裁量で運用可能な税金が増加の一途で5兆円にまで膨らんでいる。

一方で、コロナ禍で疲弊している中小零細企業個人事業主で、年間1000万円以下の売上しかない会社・個人経営主に消費税が課税されるインボイスが10月から始まる。おそらく、倒産、閉鎖、閉店、廃業が増え、場合によって自死率増加につながりかねない。徴税の平等性といいつつ、要は逼迫した財政を弱者からも取り立て、政権の野放図な予算配分のツケを負わせただけのことだ。

 

電力会社を始め、公共性の高い大企業が軒並み、値上げを当然のように行い、コロナ禍で貯蓄を食いつぶしている個人にも物価高という次の苦難が押し寄せている。明らかに、便乗値上げもそこには隠れている。

いまさら、いうまでもなく、社会保障生活保護、年金を含め、減額と支給年齢や条件が益々厳しくなり、社会保障費の徴収が本末転倒して、生活者を苦しめるという状況が生まれている。そもそも消費税は社会保障にが、大前提だったものが、会計検査院が指摘しているように、一部しか社会福祉に使われていない。

国連からは、GDP世界3位でありながら、相対的貧困国14位にランクされ、報道の自由度は、ケニアにも劣る71位。要するに、表向き、豊かにみえて、貧困層が増大する格差大国であり、報道においては、それを詭弁でごまかすことが許され、真実を暴くことができない国になっているということだ。

 

安倍・黒田がやった異次元緩和という株式市場頼みの経済政策が、新規産業への育成投資や経済構造の改革に向かわせず、株操作という数字のマジックで、実態経済とはかけ離れてマネーゲームに企業・個人を夢中にさせ、実態のない数字が経済を支えるという虚偽経済をこの国に定着させた。ゆえに、賃金が多少上がったところで、物価高に追いつけない。

 

豊富な資金、蓄財を株で転がせる富裕層や大企業のための経済で、実動でしか稼げない国民全体のための経済政策ではないということ。


この10年、国民の生活感と国政の施策のズレがこれほど大きくなった時代は、戦後初といっていいだろう。にもかかわらず、内閣支持率が上がっているというのは、調査シートのマジックか、サンケイグルーブの虚偽調査ではないが、何かの恣意性を感じずにはいられない。実際、同じ意識調査でも防衛費増額は反対の方が多いし、自公の少子化対策に至っては、評価しないが圧倒的。

いまこの国のマスコミ報道は、ごくごく一部を除き、信憑性に欠けるから、政府政権ためのスピーカーでしかないことを考えれば合点がいくが、どうもそれだけではない。

先ほど触れたように、この国の民と認められているのは、一部の富裕層、大手企業、株投資の対象となっているIT関連や不動産開発や運用で潤う企業とそれを支える金融資本にかかわる人々。マネーゲームの一方で、実働を支える人々は、彼らとの距離によって、遠くなるほど、生活の濃度が希薄になり、格差の底へと押しやられる。

政権を支持する層はこのコアとなる一部の層に加え、濃淡でいえば、濃い部類の組織や人々。これらは、濃淡が濃いほど、現状維持、集団結束、帰属意識が高く、投票行動を当然のことと考える。逆に濃淡の薄い方へいくほど、現状に不満があってもその要因を考えず、何かに集うこと、帰属することを嫌い、投票行動が生活の中に根付いていない。

薄い層は、社会的な関心も薄く、教育水準も高くない。当然ながら、高い教育と社会的素養を受けられる環境になかったからだ。同時に、生活に追われ、社会や政治に関心を持つことではなく、自分の置かれた状況を忘れるための娯楽やトレンド、ギャンブルや飲酒など麻痺させるための何かに束の間身をまかせることが先になる。

この時期になると、「選挙へ行こう」が決まり文句のように、現状に異議を唱える人々から発せられるが、残念ながら、選挙そのもの、投票行動そのものが生活の中にない人々が多数なのだ。

現状に異議を唱え、投票行動を呼びかける手法はすでに意味を失っている。そのことに、まず気づく必要がある。

社会を変えるとか、社会改革を提唱するとき、人々は無意識のうちに、ある一定の教育レベル、ある一定の社会通念、社会倫理や道徳を基盤として、それらを持ち合わせていると想定される人々にその主張を展開していた。格差が小さく、おしなべて生活水準が一定の人が多数を占めた時代はそれもよしとされたが、いまは、そうではない。

同時に、団塊世代の子ども世代、かつていちご世代といわれた世代やその子ども世代であるZ世代は、政治や社会的な事柄を議論することや現状に異議を唱えることが世代の中でも異端視されてきた。宗教と政治の話はするなという言葉がかつてあったが、それが恒常化した世代。

要は、それらは対立や議論の要因であり、それにふれると、まともな人間関係がつくれない、つくれないところか、壊す。それでは、事がうまくいかなから、禁句は避けて、うまく立ち回れというものだ。

学生運動の後、文科省が強烈に進めた管理教育もあって、イチゴ世代は実に体制に従順に育った一方で、バブル崩壊後の就職氷河期やリストラにもさらされ、一層、寄らば大樹の陰の安全神話に寄りかかるようになった。物言わぬか、言っても体制支持。このままでいけば、それでいいのさ式になる。

その世代に育てられたZ世代は、格差という激烈な波にのまれて、さらに生き残るために安全神話に寄りかかる。

どうしてそうなるかといえば、敗北の記憶しか強調されていないからだ。いろいろに反体制や反権力闘争はあったが、負けたじゃん。負けて変説したじゃん。あるいは、安保法制反対で盛り上がったけど、一瞬だったじゃん。統一教会問題で批判轟々だったけど、だれも何もいわなくなってるべ…云々。

何も変わらないという敗北の記憶だけが上書きされ、このままいけば、それでいいのさが、アップデートされ続ける。これも、政権と一体化したマスコミ報道の責任でもあるが、この敗北の上書きと現状維持のアップデートを巧みに操っている何かが問題なのだ。

これに対抗するには、「選挙へ行こう」ではなく、逆説的ではあるが、選挙そのものの無意味性を訴えるしかない。もし、この国にまだ一類の望みがあるとしたら、物言わぬ、無投票の人々にある、選挙なんて意味ないじゃんという先に立ち現れる、新しい政治像、政治家像なのだ。

敗北のアップデートは、そのとき、現状維持ではなく、現状を変える力へと結集するかもしれない。