秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ファッションのこと2

IVYが最初に日本に入ってきたのは60年前後のこと。当時のアメリカのティンエージャーの間で流行し

ていたIVYリーグファッションが映画や雑誌の影響でどっと入っていた。

俗に「みゆき族」と呼ばれ、コットンパンツの裾がみゆき丈の短さだったことからそう名付けられたと

か、銀座みゆき通りを闊歩する若者たちのファッションがそうだったからと異説があるが、要はアメリ

の50年代映画に出てくるようなファッションが流行していたのだ。

「のっぽ物語」「理由なき反抗」といった映画がその代表だったし、「さらば愛しき人よ」など、レイモ

ンド・チャンドラーの探偵小説の主人公フイリップ・マーロウのファッションもコテコテのIVYだった。

夜の大捜査線」のシドニー・ポアチエも、「ハスラー」のポール・ニューマンもそうだった。50年代か

ら60年代初頭の映画の男性の主人公をほとんどIVYだったのだ。

IVYというのは、校舎に絡まる蔦のこと。

アメリカの名門大学7校の校舎にそれがあることから、大学生の間で流行したファッションをそう呼ぶよ

うになった。ボタンダウンシャツにコットンパンツ、白やアーガイルのソックスにローハーシューズ、が

定番。冬はアーガイルやラム、フィッシャーマンのスウェーター。

正装は、夏はブルーに白のピンストライプのコットンスーツ、冬はチャコールグレーのウールスーツ。靴

は、夏はモカシン、冬はプレントゥ、ウイングチップ。それにステンカラーのラグラン袖のコートと相場

は決まっている。ブレザーは海軍の制服と同じ、風によって左右両方にあわせを変えられるWが基本。ネ

ービージャケットといわれるものだ。

当時、一世を風靡したものの、その後、アメリカの公民権運動などで、ジーンズやロックファッション、

ヒッピーファッションが流行するようになると下火になっていた。

それがぼくが高校に入る頃、再ブームがやってきたのだ。

最初にIVYファッションを日本に紹介した、VANの社長石津謙介が伝説のファッションリーダーとして崇め

られ、一大流行となった。

当時、トータルデザインされ、かつそこにきちんとした理論のあるファッションが若者の間になかった。

ロックファッションやヒッピーファッションは、ある意味、何でもありの世界で、強烈なブランドもなか

ったから、ロッカーでも、ヒッピーにもなれない普通の男子は、自然とIVYのトラッドファッションに惹

かれていったのだ。

ただ、まだ高校生に、VANとか、その上のランクのブランド、KENTの衣類は手の届くものではなかった。

ちょっと小遣いをためて、半年に一枚、白のボタンダウンシャツを買うのがやっとだった記憶がある。

ある意味、金持ちのぼんぼんのファッションだった。

ぼくは、高校生の頃、そんなファッションを横目でにらみながら、普段着はジーンズと現場作業着のよう

上着で凌いでいた。でも、その服装がステキだったから とある日、女の子と付き合うことができた。

ぼくはそのとき、ファッションは工夫なのだと思った。

いいもので、統一のとれたファッションは、それはそれで美しいけれど、自分の手に入るもので、コーデ

ィネートを工夫すれば、安いものでも、統一性がなくても、かっこよく見せることはできる。

それに気づいたのは、その頃のことだ。

IVYの後に、すぐヨーロッパファンションが入ってきた。JUNだ。

こちらはパンタロンスーツ、コートはトレンチ。靴は、なんかエナメルの底の高い靴だった。

いかにもフランスあたりのかっこマンが着ているようなファッションだったが、ぼくはそれが好きになれ

なかった。

大学浪人の間、バイトをして、高校時代買えなかったVANやKENTの最低限をワードローブはすべてそろえ

たが、ヨーロッパファッション、俗にコンチネンタル、略してコンチは一つも買わなかった。

結局、ぼくは大学時代から劇団を初めるまで、コテコテのトラッドファッションで、いろいろ着てはみた

ものの、結局、トラッドの枠から抜け出せなかった。

大学受験のときには、わざわざ青山のVAN本社まで服を見にいったし、それがブルックス・ブラザーズ

いうアメリカの総本家に買収されてからも、ブルックスに立ち寄っていた。

ファッションは、そのときの人の意識、生活スタイル、生き方を反映する。

ぼくがトラッドの壁を壊せたのは、やはり、生き方や自分の意識の壁を壊したからだ。

その決定的な出会いは、バーニーズ・ニューヨークだった…。


つつく。