秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ファッションのこと

高度成長期のぼくら子どもたちにファッションという言葉は入ってきたのは

ぼくが中学生も終わりの頃だったのではないかと思う

いまミキハウスだ、成美屋だなんだと幼児や児童のファッションは当たり前のようになっているけど

ぼくらが子ども時代、そんな子ども向けブランドなどなかった。

よかとこの子は、ほぼデパートの子ども服売り場で誂えのいい服を買っていただろうし、そんなものはと

ても買えない、ぼくら庶民の子は、裁縫が上手な母親がいれば、手編みのスウェーターやズボンで凌いで

いた。まして、ぼくが大牟田にいた幼児のときは、着物を着せさせてられていたのだ。

たぶん、オシッコとかウンチがさせやすいということだったのだろうが、いまでは想像もつかないことだ

と思う。着物は七五三などで大きめのものを用意しておけば、帯や紐で丈や大きさを調整できる。それ

も衣服代を節約する知恵だったのだろうと思う。

よく母が、「上がお兄ちゃんなら、服のお下がりができるのにね」と言っていた。ぼくの家は姉とぼくの

姉弟だったから、男兄弟や姉妹兄弟のように、お下がりができなかったのだ。もし、それを喜んでしてい

たら、違う世界へ行ってしまう。

思春期には姉のブラジャーには異常に関心を持ったけど。

小学校に入ると当時は公立でも制服だった。それでも2年生くらいまでしか着れないのだが、一着買えば

その間、衣服にかける費用は少なくて済む。また、当時は貧富の差が激しかったから、それが歴然とする

のをさけていたのかもしれない。3年生になると、少し大きめに買った制服は当然合わなくなり、みんな

そこいらの雑貨屋で買ったような汚れてもいい安い服を着用したが、それもできない子は丈の合わなくな

った制服を無理やり着ていた。

その頃、テレビで「ポンポン大将」という隅田川添いの荷財を運ぶ小船の船長さんを主人公にしたドラマ

NHKでやっていた。桂小金治が主役だったと思うが、そこに登場する子どもたちもそんなかっこうをし

ていた。

あるとき、その時間帯で、「不思議な少年」という番組がはじまった。主人公の少年が「時間よ、止

まれ!」と叫ぶと時間が停止し、すべてがフリーズ状態になる。その間に、いろいろな問題を解決して

みんなを幸せに導くというようなものだ。当時、ほとんどのドラマが生放送だったから、出演者は、みん

な実際にフリーズ状態にならなくてはならい。止まっているはずが、微妙にゆらいでいたりするのだが、

それをおかしいとも思わず、ぼくは主人公、サブタンに夢中になった。後に俳優としてアイドル的な人気

を博し、小僧寿しチェーンの社長になった大田博之が演じていた。原作は手塚治虫だった。

その頃、ぼくは毛糸で編んだチョッキが好きで、正月に買ってもらったそのチョッキを6月頃まで着てい

た。母が「もう、にくか(温か)とに、なんでチョッキば着ていくと? おかしかろうが?」というの

に、ぼくはその反対を押し切って、そのチョッキを着続けていた。

実は、サブタンが必ず着ていたのがチョッキだったのだ。だが、ぼくは、それを母に言うことができなか

った。テレビの主人公に憧れて、同じかっこうをしていると悟られるのは恥かしかったのだ。

でも、かなり温かいときに、それを着ていて、暑いと思わなかった。不思議だと思う。

ファッションはやせがまんなのだということを、ぼくはそのとき体験したのだ。

貧しい家だったのに、母は正月になるといつも新しい服を枕元に用意してくれていた。

そして、起きるとそれを着なさいという。いわれるまま、その服を着て、お雑煮を食べるのが正月だっ

た。

また、中学に上がる前、小学校6年のときには、父の一張羅を誂えてもらっている紳士服店に連れていか

れ白いワイシャツを作ってくれた。

貧しいながら、そうしたことにはとても気を配る親だった。それは、父も母も同じで、二人ともオシャレ

だったと思う。その影響か、ぼくは4年生にもなると、親が薦める服が気に入らなくなり、お仕着せはい

やだと感じるようになった。母が買ってきても、ずっと着ない服もあった。そのうち、母は買い物にぼく

を連れていくようになり、店でちょっとした口論になることが度々だった。母がいいという服とぼくが着

たい服が違うことでもめるのだ。

そうしたことが許されない姉はいつもブーイングしていた。姉は女だから、もっとオシャレがしたかった

のだと思う。姉はがまんさせられたが、末っ子のぼくは気に入らないとガンとして着ないからわがままが

許されていた。

やがて、中学に入ると制服になり、母もぼくのわがままにてこずらされることはなくなった。当時の中学

生は、休日も制服だったし、男子は制服のズボンは同じで、上に羽織るもので適当に済ませていた。

中学のとき、ジェームス・ティーンの「エデンの東」を観てから、ぼくはジーンズにはまるようになった

が、当時はGパンといって、値段も安かった。本当に作業着程度にしか、見られていなかったから、いま

のように高額のジーンズなんてありえなかった。

しかし、高校に進学すると、それまでブランドもデザインにも特別のこだわりのなかったぼくらに、いま

まで見たこともない、ファッションが怒涛のように押し寄せてきた…。


つづく。