秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

お百度参り1

父と母がどう出会い、そして結婚したのか。それを知ったのも六本松にいた頃だった。

敗戦から間もなく、父は警察官を拝命してしばらくすると金印の発見で有名な志賀島と福岡を結ぶ「海の

中道」に近い「西戸崎」という港町の派出所に勤務した。そこで出会った地元の派手な娘が母だった。地

域では知らない者はいない裕福な家の一人娘だった。

余談だが、大学の同級生数人がぼくの実家に遊びに来たとき、その中の友人のひとりが母を見て、「あれ

は博多のカルメンだ」といったのを覚えている。思わず仲間と大笑いした。まさにその喩えがぴったりだ

ったのだ。

西戸崎には戦前から軍の施設があった。いまでは福岡のはずれの寂れた小さな町だが、戦前から戦後の米

軍駐留までその辺りは軍関係者や漁師などで結構にぎわっていたらしい。そこに目をつけて、劇場や映画

館、ダンスホール、料亭、果ては軍物資の横流しから売春宿まで経営していたのが、地元漁師の次男か三

男に当たる、母の父、富蔵である。

いわば、地回りの興行師のようなものだ。生涯一人の正妻も持たず、12人もの妾を囲っていたという。そ

の祖父の養女がぼくの母だった。

一代で成り上がった強引な人間だから、きっと人に恨みを買うことも多かったのだろう。ある日、祖父が

やくざに刺されそうになったとき、身を挺してかばって死んだ使用人の男がいた。それが母の実の父だ。

不憫に思った祖父は死んだ男の妻、母の実母の負担が少なくなるようにと一人娘の母を自分の養女として

育てることにしたらしい。男は生活の役に立つが、幼い娘は足手まといになると考えたのだろう。

母は物心つき始めた頃から薄々と父が実の親ではないことを使用人たちの噂話などから察していたらし

い。しかし、思春期の女学生の頃、はっきりそれとわかったときは、やはり、苦しんだのではないだろう

か。結局、母は後年、沖縄と熊本に住む兄弟とは再会できたが、実母の顔を見ることはなかった。母の中

にも養女に出されたことへのこだわりが長い間あったのだと思う。

しかし、幸いなことに、母の養女生活は経済的には何不自由ないものだった。戦前から戦中、戦後の物の

ない時代、母は物がない、食べる物がないという苦労を全く知らずに育った。


父の家は、本来、福岡に隣接する佐賀鍋島藩城代家老の家だった。司馬遼太郎の「竜馬が行く」には、

先祖に当たる人物が登場する。維新の際、国産初のアームストロング砲を開発した人物で、竜馬とも交流

があった。しかし、派手好きで、都会生活にあこがれた祖父が寂れた佐賀の田舎を捨て、福岡で一攫千金

をねらった。福岡の下町、博多で家庭を持ち、一家を成したが、若い頃から贅沢に育った祖父は、花柳界

の遊びが好きで結局身上を潰してしまう。父が母と結婚した頃は凋落の真っ只中にあったらしい。

当時、流行のダンスホールが父と母が出会ったデートスポットだった。身長も高く、警察官という職業柄

駐留米軍の兵士たちとも仲のよかった父は、当時英語もしゃべったらしい。たぶん、ミーハーな母はそう

いう父のかっこよさに惹かれたのかもしれない。熱烈な恋愛の末、次男の父は、一人娘の家へ婿養子に入

った。逆珠である。

だが、父は養子に入った後も警察官の仕事をやめなかった。どこかに鍋島藩家老家のプライドがあったの

かもしれない。義父は早く警察をやめ、事業に専念するように催促したらしい。ある日、父が帰宅すると

母が泣いている。警察官をやめろ、やめないで義父と母が口論になり、義父が母を殴ったらしい。それを

聞いた父は「俺の嫁に手を上げるとは何事か!」とこれも若かったのだ、激昂し、とうとう二人して家を

飛び出してしまった。結婚後の奇妙な駆け落ちである。

警察官には官舎が与えられるから当座住むところに不自由はない。新婚の熱愛生活が続くはずだった。

しかし、すでに生まれていた姉と父と母の3人暮らしをするようになってすぐに、義父が急逝してしま

う。欲のない若い二人は妾や親族に大半の財産を奪われ、いつくかの家財道具や衣類が残っただけだっ

た。母はまさに天涯孤独の身となってしまった。その後、どういう経緯があったかは知らないが、父は母

の戸籍から抜け、元の籍に戻ってしまった。

沢山の使用人に囲まれたお嬢さんの母は、このときから貧乏というものを知らされることになる。し

かし、お嬢さんだからこそ、警察官の貧乏な生活も愛で乗り越えて行けるという気分だったに違いない。

母は当時どこかで貧乏を愉しんでいた節がある。

ところが、母の貧乏体験はそれでは終わらなかった。

ある夜、父は激しく咳き込んだ。そして、風呂場に本人も驚くほどの大量の血を吐いた。肋膜炎だった。

当時、ペニシリンのような抗生物質は保険の利かない高価な医薬品だった。母は生まれて初めて質屋通い

をし、瞬く間に義父が残したわずかな調度品や家具、衣類は薬に変わった。父の両親や親族に借金の無心

に行ったが、冷たくあしらわれたこともあったらしい。医師はさじを投げ、1年持てばいいと母に宣告し

た。そして、医師の言ったとおり、1年にわたる寝たきりの生活が続いた。