秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

映画のこと3

ダスティン・ホフマンを観たときは、とにかく、びっくりした。

身長も低く、決して美男子とはいえない小づくりの男の演技は、圧倒的だった。それまで、邦画でも、洋

画でも、ましてやテレビでも観たことのない、その存在感は強烈な印象と同時に、魅力にあふれていた。

とまどい、見栄、体裁、虚言、愚かさ、真摯さ…。人間のだれもが持つ、弱々しさや虚勢を演技させた

ら、右に出る者はいない。いや、彼が登場するまで、そこまであからさまに、人間の弱さをきちんと表現

できる俳優はいなかった。

「卒業」と出会ってから、ぼくは、ダスティン・ホフマンの映画はすべて観た。その中でも、秀逸だった

のは、アカデミー作品賞をとった、「真夜中のカーボーイ」だった(直訳では、カウボーイが正しいのだ

が、当時、ユナイテッドの宣伝部長だった水野晴郎が都会を演出したくて邦題に小細工をした)。

マンハッタンの吹き溜まりで、ゴミをあさるネズミのように姑息だが、逞しく生きる出生不明の、が、し

かし、<こういう奴、ニューヨークにいるだろうなぁ>と思わせる演技は素晴らしかった。共演者のジョ

ン・ボイド(アンジェリーナ・ジョリーの父親)が演じる田舎出のカーボーイもよかった。こちらも、田

舎者の虚栄心と挫折を見事に演じていた。最後にはネズミ男のために、男色趣味のオタクに下腹部をくわ

えさせ、殺人まで犯す姿はイタかったが、そのイタさが、フロリダ行きのバス車内のラストシーンを鮮烈

に浮き上がらせている。


小学生の低学年のときに名作映画をほとんど観ていたぼくにとって、アメリカンニューシネマはそれらと

はまったく異質の世界だった。どの作品も、殺人や暴力、人間の不条理を憚ることなく描き、エロス(生

の本能)とタナトス(死の本能)の両面を分かちがたく持ち合わせた生き物が人間なのだと叫び続けてい

た。「イージーライダー」や「バニシングポイント」は、その典型的なロック的作品だったし、朝鮮戦争

を題材にした、ドナルド・サザーランド主演の「マッシュ」やベトナム反戦映画の最初の作品、「キャッ

チ22」もそうだった。ジーン・ハックマン主演の「フレンチコネクション」、「ダーティ・ハリー」シリ

ーズも同じだった。多くの監督や俳優がそうしたニューシネマから登場した。また、ポール・ニューマン

のように、時代を先取りした「ハスラー」で評価を受けるまで辛酸を嘗めて苦労して地位を勝ち得た名優

たちもニューシネマで新境地を見せた。

そうした、新しいアメリカ映画のマインドは、日本のテレビにも新しい息吹を吹き込んだ。

ぼくら10代は、ある日、日テレで始まった奇妙なドラマに釘付けなった。

傷だらけの天使」だった…。


つづく。