秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

あの素晴らしい愛をもう一度

包帯のようなウソ2

いま思えば、確かによく食べる家だった。 贅沢な食事はできなかったが、何かの折にはお腹いっぱい食べる家だった。それに母はいまでもそうだ が、フルーツショップのようなところでプリンやケーキなど、いまで言うスイーツを食べるのが大好き だった。父は祖…

包帯のようなウソ1

大学を卒業したとき、結局、ぼくは就職せずに学生時代からやっていた劇団活動を続けることにした。青 年は、またも荒野を目指したのだ。 いま思えば笑い話だが、大学卒業前の帰省の折り、もう福岡に帰ってくることはないと悲壮な決意をして 博多や福岡の街を…

東京2

確か、彼女はそれには答えなかったと思う。その代わり、彼女は前から気になっていたという様子でぼく に尋ねてきた。 「給食のミルク、飲めるようになった?」 「だめ。やっぱり飲めん」 「毎日、家で牛乳飲んでる?」 「牛乳と給食のミルクはやっぱ違うけん…

東京1

小学校の2年の頃だったと思う。ぼくは母に連れられて初めて上京した。 いま福岡、東京間は新幹線のぞみを使えば、5時間ほどらしい。ぼくが上京した当時は、まだ蒸気機関車 で20時間くらいかかった。寝台特急あさかぜ号が走り出したのはいつか知らないが、ぼ…

父のポケット

ぼくが中学生になる頃まで、父は秋から冬にかけ、毎年、同じよれよれのレインコートを着ていた。 海外テレビドラマでヒットした「刑事コロンボ」が着ていたようなコートだ。母の話によるとどうやら、 捜査1課にいた頃からその格好をしていたらしい。 余談だ…

くるみ割り人形2

ぼくと同じでちょっと意固地なところのあるヒロシちゃんは大濠公園へ行くと、いつも一人で釣りをして いた。ヒロミちゃんは人懐っこい性格だったが、1年おきに転勤を繰り返していてはいくら明るい性格で も心の許せる友だちは少なかったろうと思う。祭日や休…

くるみ割り人形1

小学校3年のとき、転校生という言葉にあこがれていてた。 念願叶って、ぼくは小学校4年のとき、源平合戦の舞台となった北九州市門司区の田ノ浦という片田舎に 引越した。しかし、その1年も前から担任の教師に「ぼくの家は引越しするかもしれない」と平気とウ…

オルガン

その日、父は「今日、テレビを買ってくる」と少し誇らしげに出掛けていった。 そして、ぼくら家族は父の帰るのを首を長くして待ち続けた。確か、その時刻になると家族3人、玄関の 上がりのところに並んで座って待っていた記憶がある。 テレビを買うというこ…

オルフェ

小学校2年でクラスからスポイルされたぼくの心の行き場は、映画だった。 それまでカバンを放り出し、裏の自動車試験場跡の原っぱでピッチャーとして当番していたぼくは、スポ イルされて以来、学校から帰ると仲間と離れ、一人家の中で遊んだ。 姉は高学年で…

ヒューズ2

次に父をすごいと思ったのは、小学校の高学年のときだ。 北九州の門司に転校していた小学校の高学年のときだった。 何かで父と言い合いになった。確か、児童会の話し合いで、学年のだれかと議論になり、その議論の経緯 を父に話していたときだった。どう考え…

ヒューズ

父親に初めて殴られたときのことを覚えていますか? 福岡市内の小学校にいた頃、ぼくの成績はクラスでも最下位だったと思う。 算数の試験で零点をもらったときは、さすがにショックだったが、思案したあげく、家の近くまできたと ころで、ぼくは笑顔いっぱい…

キムラくん

小学校2年生のときだった。 学校に来るときは、学生服を着て登校してくる少年がいた。どうして、彼が小さくなった小学生の学生服 を着て登校していたのか、記憶が定かではない。小学校の1年の入学のときに制服が支給されていたの か、その記憶がないのだ。し…

上を向いて歩こう

幼稚園のときに転居した福岡市六本松の官舎にぼくら一家は5年近く住んでいた。黒田藩の居城、舞鶴 城の内堀の跡、大濠公園のすぐそばだった。いまは昔あった、自動車試験場跡がなくなり、そこに福岡大 学大濠高校の校舎が建っている。そこに隣接した場所に…

おいしい水

幼稚園の年長の頃、ぼくは父の転勤で福岡市内の六本松というところに引越した。 ぼくは福岡を離れるまでに5回ほど引越しを経験している。転校生の悲哀をぼくは北九州市の門司区田ノ 浦という寂れた漁師町に引越した小学校4年のときに初めて知ったが、小学…

露天掘り

ぼくが住んでいた大牟田の警察官舎のすぐそばには絶対にそこで遊んではいけない「露天掘り」という 場所があった。石炭の採掘にはいくつかの方法があって、露天堀りというのは地下の坑道を掘り進むので はなく、まさに文字通り、地面の下に埋もれた石炭の鉱…

サイレン

ぼくがいま生活の拠点にしている港区では5時になると「夕焼け小焼け」のチャイム音楽が流れる。 大牟田の警察官舎にいた40年以上前はそれがどこでもサイレン音だった。いま突然サイレン音がけたたま しく地域に鳴り渡ったら、きっと何事かと人々が飛び出し…

黒い花びら

「ケンスケちゃんはだれが好いとうと?」 女の子3人にそう迫られたことがある。4、5歳の頃のことだ。 ぼくはたぶん、あの頃から優柔不断だったのだと思う。それに女の子と遊ぶのが好きだった。 「わーい。女の中に男がひとり~!」とよく同じ歳の男の子た…

コロッケの唄

ぼくの記憶は多分に父が撮った子どもの頃の写真に負うところが多い。そのせいか、小さいときのことを思い浮かべるとそこに浮ぶのは暑い夏の光景ばかりなのだ。説明するまでもないと思うが、当時はいまのように露出のいいカメラも、感度のいいフィルムも出回…

夜の炭坑節

12年程前、初めて北京を訪れたとき、その夕暮れの風景に奇妙ななつかしさを覚えたことがある。開放政策がはじまってまだ間もない頃で、都市整備は始まっていたが、まだ古風な街並みがそこには残っていた。道路も車両はそう多くないのに、やたらと埃っぽい…

失ったアルバム

昭和46年。沖縄返還の年だった。 新聞には新左翼の文字が躍り、テレビからは角材で武装した学生のデモ隊とそれを遮る機動隊の波のようなジュラルミン盾が映し出されていた。 熊本地裁の正面玄関から勝訴と毛筆で書き殴った紙を掲げて、水俣病被害者の会の関…