秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

父の詫び状2

よく物書きの世界で言われることだが、作家自身の力ではない、何者かの力によって、作品が生まれると

いうことがある。うまく書くということではとても及ばない何か。それを体感することは、文学、映像、

絵画、その他のあらゆる創作分野に携わる者にとって大切なことのような気がする。

それを体感したことのない人の表現は、どこか形にはまり、過去の踏襲や経験、テクニックだけの希薄

なもののような気がするし、いわゆる、食べるためだけに自身の技術を駆使しているだけにしか見られな

い。しかし、それを創作だと勘違いし、クリエーターマインドが理解できているような気になるのは、創

造に携わる人間が一番に警戒しなければならないことだ。ぼくは自分への戒めとしても、常にそう思い続

けている。また、それが理解できていない創作に携わる人と遭遇すると、哀しい気持ちと同時に、憤りを

感じることも少なくない。物を書き、物をまとめ上げることの切実さと真摯さが理解できていない人間が

同じ世界にいることは、つらく、哀しい。

ぼくは、向田邦子の作品にはそれを強く感じる。

向田邦子は、そうしたことを声高に語っていはいないが、彼女自身、見えない何かの力を強く感じられる

人ではなかったのかと思うのだ。彼女が、いろいろな小説で描いている世界は、もう失われてしまった、

よくも悪くも日本の古き匂いであるし、そこに登場する多くの人がもうこの世にない。

人は、人の死から、思い残した何かの残像から、いまという時間を生きさせられている。ぼくは、そんな

気がしてならない。ぼく自身、何度もそうした体験をしているせいもあるが、死者が語りかける声をどう

形にし、それによって、多くの人が共有しなくてはならないメッセージをどう拾い上げて、伝えていくか

が自分自身の生きている使命だと感じている。

実は、この「あの素晴らしい愛をもう一度」を書いてみようと思ったのも、向田邦子の死と、彼女か残し

た「父の詫び状」を読み直してからだ。そして、彼女のように、青山墓地周辺の死者と近いところで、ぼ

くは、いろいろな仕事を続けている。向田邦子には遠く及ばないが、ぼくなりの形で、ぼくやぼくら日本

人が高度成長からいまに至る時間の中で、失い、忘れてしまった大切な思いを少しでも拾い集めたいとい

う思いで、仕事をしているつもりだ。

そして、ぼくが一番、向田邦子の世界で恐れ、避けていたことを「父の詫び状」として綴らなくてはいけ

ないとも思っている。



いままで折にふれ、ここで書いてきたように、ぼくの父は、はっとするような生き方の知恵をぼくに授け

てくれた。しかし、ぼくが大学へ進学し、姉が嫁いで家を出て、それまで、十二指腸潰瘍の痛みに耐えな

がら県警本部のノンキャリアとしてはトップと言ってもいいポストを勤め上げた父は、母があれこれ根回

してみつけた、ある複合イベント施設の管理部長という再就職のポストを得た。当時、警察官など公務員

の定年は56歳で、退職するにはあまりも若く、また、年金を受け取るにはあまりに時間があった。

母は、それだけでなく、警察官一筋で生き、県警の重要な仕事を担っていた父が、退職後、気が抜けたよ

うになるのを避けたかったのだと思う。

退職警官の平均寿命は65歳といわれるほど、激務でもあるが、同時に、職業柄、再就職に恵まれず、早く

に老生するということもあった。

再就職後まもなくは、あれこれ新しい職場に愚痴も言っていた父だったが、生来の適応能力の高さで、周

囲の信頼を得てくると、再び、生き生きと仕事をし始めた。経済的にも、民間企業だから、警察官時代よ

りはゆとりもあったはずだ。

そして、あれほど、家族第一主義で、一家の団欒を何よりも愛していた父が、女性をつくった。


大学の夏休みに帰省すると、母は、なんとはない四方山話の途中、「お父さんに女がおるとよ」と言っ

た。母はだいぶ前から、感じていたらしい。確たる証拠があるわけでないがと母は付け加えたが、後で

父の後を着けて、その女性の家の辺りまで行っていたらしい。まるで、向田邦子の「阿修羅のごとく

の世界だった。

ぼくは、母に、あまり騒ぎ立てない方がよいというようなことを話した。男の気持ちはそういうものだと

いうことが、もうわかる年齢になっていた。「お母さんが、がまんするしないと?」母はそう言い、場合

によっては離婚も考えているというようなことをほのめかした。半分は本気の様子だった。

実は、ぼくは大学浪人の頃に、父には女がいるかもしれないと感じていた。

母がいない休日に、家に父とぼくしかいなく、たまたま電話に出た。

「もしもし、島田さんですか?」その声は、品のある落ち着いた、かしこそうな中年の女性のそれだっ

た。「どちらさまですか?」と問うと、その女性は、それに応えず、「息子さんですか?」と訊き返し、

「いつもお話は伺っています」と明るい声が返ってきた。そうしているうちに、父が「だれね?」と声を

かけた。「女の人だけど…」。そうぼくが言うと、父は、「ああ…」と慌てて受話器をとった。

その瞬間、ぼくは直感したのだ。

父は嘘をつくのが下手だった。もともとストレスにそう強くはない上に、嘘をつくことが悪いという思い

が深い。だから、嘘をつくときは、かならず、浮ついたごまかしを言う。「二日市でお世話になっとう人

たい」。訊いた事もない「二日市の人」は、いくらぼくが若かったとはいえ、すぐにわかった。

そして、父はそそくさと外出していった。そして、数日後、手提げの袋みたいなものを差し出し、「こ

れ、お前、使わんか?」と言った。「息子さんにどうかって、渡されたけど…。お前は、こういうの使わ

んもんね…」と笑いながら言った。電話の一件をごまかそうとしたのだろう。ぼくには、すぐにそれがわ

かった。

母から父に女性がいるという話を聞かされたとき、ぼくはすぐにそのことを思い出したのだ。

そして、そのときから、うちの家は、ぼくの幼児期から中学生の頃くらいまでの家庭とは思えない、密か

な嵐が吹き荒れ始めた。



つづく