秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

福岡には雪は降らない。だって、九州なんだもん。

上京して大学へ通うようになって、ぼくは関東以北の出身者の多くがそう信じて疑わないことに驚いた。

一年を通じて、宮崎県の日南海岸や鹿児島県の指宿辺りのような温暖な気候が九州全域の気候だと友人の

多くが思い込んでいたのだ。

福岡は、玄界灘の厳しい北風に晒され、日本海側の地域と同じように冬は重苦しい曇天が続く。降雪量は

確かに、少ないが、時にはしっかり雪も積もるのだ。その一方で、夏は九州らしいジリジリした暑さが続

く。

よく福岡の出身と言うと芸能人やミュージシャンが多いと言われる。確かに。それは、この福岡独特の気

候が影響しているのではないかと思っている。内向的な冬の季節と博多どんたくや山笠で盛り上がる夏。

そのギャップが、いい意味で屈折した精神風土をつくり上げているような気がするのだ。その屈折の比率

が他人の関心や興味をそそるタレント性や話術、音楽を生み出すクリエイティブなマインドと奇妙に合致

しているような気がしてならない。


ぼくが生まれて初めて大雪を体験したのは、小学校3年のときだった。

大雪と言っても東北、北陸などのそれに比べれば、大人と子どもほどの差がある。30センチほどの積雪

があった程度だ。夕刻から深々と降り続け、夜には一面真っ白な世界に変貌していた。六本松の官舎の台

所の扉を開けると、家の明かりに映し出され、別世界のように白い絨毯がキラキラと広がっている。まさ

ドボルザークの『新世界』だった。

ぼくは、まだ誰も踏み歩いていない白い雪の上を歩き回り、扉から差し込む明かりに浮かんだ自分の足跡

の美しさに見惚れていた。闇に差し込む一条の光の美しさとその劇的効果を知ったのもそのときが初めて

のことだった。

高校時代、演劇部で鬼のような卒業OBたちから舞台装置や照明の基礎技術を叩き込まれたとき、袖幕の

向こうから差し込む一筋の明かりの美しさとその演出効果に感動したことがある。ぼくはそのとき、小学

生のとき出会った雪の風景を思い浮かべていた。その演出法がレンブラント照明というものだと知ったの

はそのときだ。しかし、レンブラントがオランダの孤独な画家であったことやその魅力的な作品を知った

のずっと後になってからだった。

子どもの頃、転勤の度に狭い警察官舎で引越しの祝いの宴が開かれた。襖一枚隔てた部屋の向こうでにぎ

やかな談笑が波のように湧き上がる。少しだけ開いた襖から覗くとその風景はまるで映画のワンシーンの

ようにぼくの目には映った。そして、こちらの部屋では、手伝いに来た近所のおばさんたちや母たちがせ

わしなく働いている。その真ん中で、ぼくはそうした宴席とは全く無縁の時間を過ごした。同じ場所、同

じ時間の中で全く異なる風景が同時に進行している。それは子ども心にも奇妙な印象を与えた。襖一枚の

隔たりやそこにいる人間の意識によって、時間の速度や質量はそれぞれに異なるのだ。

ぼくが演劇芸術と言われるものに本気でのめり込んでいったのは、舞台というものが時間と空間をいとも

たやすく超越し、一瞬のうちに日常と非日常、虚構と現実、心の暗部と表層の明るさなど、対峙する抽象

や時間を封じ込めることができることに気づいたからだと思う。

その点でレンブラント照明とその背景となるドラマツルギーは画期的なものだったといまでも思う。

昨今、「昭和」がブームと言われる。ぼくが綴っている個人的な警察官一家の過ごした時代はまさにその

昭和だ。しかし、いまそこに描かれているのは、ぼくがこのブログで書いているような橋の下に住む木村

くんでもなく、廃品回収のゴミの中に家をつくる友人一家でもない。ごく普通の市井の人々だ。

しかし、ぼくら一家のように泣いたり笑ったりしながら、豊かさへ向かう生活の影で、そうした人々がい

たということを忘れてはならないのではないだろうか。

レンブラントの光に浮かぶ、陵辱したくなるような雪の美しさの背後で、じっと息を潜め、貧しさや差別

に身を晒し、耐えていた人々がいたということ。そして、どのような時代、世界でも、明るく白々と浮か

び上がる豊かさの影には必ずそうした人々が存在し、時に犠牲とされていることを私たちの社会は忘れて

はならない。

昭和の思い出をなつかしく語るのではなく、そこからいまにつながる私たちの矛盾を学びとることが、レ

ンブラント照明に浮かぶ、雪がぼくに教えてくれたことだ。