秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

演劇のこと4

早稲田小劇場(現、SCOT)の「夜と時計」を観たときの感動は忘れない。

早稲田小劇場は「劇的なるものをめぐって」シリーズで白石加代子という女優を生み出し、高い評価を既

に受けていたが、シェークスピアの「マクベス」を下敷きにした、その舞台は圧巻だった。

それまで、民芸の「セールスマンの死」(アーサー・ミラー作)や文学座の「欲望という名の電車」(テ

ネシー・ウィリアム作)が新劇の最高舞台と信じていたぼくによって、その舞台は驚きでありながら、こ

れまでの舞台では得られなかった震えるような感動を覚えた。

当時、早稲田大学の学生街にあった、モンシェリーという喫茶店の2階の、客席50程度の小さな小屋で、

立ち見になり、観劇したその舞台は、その後のぼくの演劇や映画に対する考え方を180度変えた。

以来、ぼくは鈴木忠志の演劇論に傾倒し、世阿弥の「花伝書」を、まるで聖書のように読みふけった。

そして、小劇場運動の理念を独学で学習し、高校時代読んだ、スタニフラフスキーの俳優修行を読み直

した。さらには、ギリシャ悲劇、能楽や歌舞伎、狂言、落語といった古典演劇や芸能を観劇したり、資料

を読み漁った。

大学の教養のときに、ロシア・アバァンギャルド水野忠夫から学び、ビオ・メハニカ、いわゆるスペク

タクル演劇の演出法を知り、メイエルホリドの演出や詩人マヤコフスキーの戯曲を知った。ドイツ表現主

義、ロシア構成主義といった前衛芸術の潮流と現代演劇の関係もそこで学んだ。当時、ヨーロッパ演劇で

話題になっていたグロトフスキーの演劇論や身体論もそこの頃に学んだのだ。

専攻では、英文科を選び、シェークスピアを原書で学んだ。その傍ら、ハロルド・ピンターベケット

戯曲も原書で読みふけった。そして、卒論はノーベル賞作家のサミュエル・ベケットを選んだのだ。

ぼくは、そのお蔭で、それまでプルーストフロイト的な記憶の認識の仕方に傾倒していたが、それ自体

が実は途轍もなくあやふやなものに過ぎないというベケットの反プルースト論と出会って、記憶や自我と

いったものの不確定性や世界を認識する認識のあり方を根本から覆された。サルトル実存主義の限界を

知り、ベルグソンバシュラール、メルロ・ポンティの現象学に傾倒していった。

演劇が時代性と同時に、思想、哲学と深く結びついていることを初めて知ったのだ。市川浩の「身体論」

と出会ったのもその頃だった。

戯曲主義の演劇ではなく、俳優の身体性を中心にした演劇のすごさを認識し、自分が書いてきたこれまで

の戯曲に対する確信が大きく揺らいだ。その齟齬をどう調整してよいかわらかず、ぼくはしばらく、混乱

の中にいた。

そして、辿りついたのは、すでにある小劇場や前衛の真似事をしても仕方がないという結論だった。

ストーリー性や展開がある言葉優先の芝居においても、新しい演劇のエッセンスを生かすことはできる。

作家や演出家にその知識と体験があれば、表象として現われる舞台は、かりにリアリズム的な舞台であっ

ても、そこはかとなく、新しい演劇のセンスは視覚化することができるはずだという結論だった。

俳優の養成に理論は必要だが、観客の眼に現われる舞台に理論や哲学は必要ない。それが踏まえられて

いるかどうかがつくる側の根拠としてあることが重要なのだ。

ぼくは、そう決意した瞬間、いわゆる前衛的な現代演劇の道を求めるのをやめた。そして、同時に、スタ

ー主義の商業演劇とも自分の考える舞台がそぐわないことを実感した。

数年後、東宝渡辺保先生から帝劇の舞台を書けといわれて、それに応えられなかったのも、それが原因

だった。

結局、そのときから、ぼくは演劇の世界から離れ、映像の世界へ転身したのだ。


つづく。