秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

演劇のこと

みんなに経験があることだと思うのだけど

小学校の学芸会というのは、なぜか成績のいい、イケメンの子やかわいい子が主役をやった。

いまはそういうことをやると、モンスターペアレンツが学校に怒鳴り込んでくるのだろうが、ぼくが小学

校の頃はあからさにエコヒイキがあった。教師にすれば、無難に学芸会を終わらせたいという思いもあ

り、頭のいい子やリーダーシップの発揮できる子に主役や中心の役をやらせれば、そつなくこなしてくれ

るだろうという思いもあったのではないかと思う。

あと、なぜか学校でピアノの塾に通っているような子は、必ず独奏があった。一芸にひいでているのだか

ら、みんなにお披露目しようというのはわかるが、なぜ、ピアノなのか、なぜ、独奏だったのか。ぼくは

小学校を転校して二つ知っているが、どこもそうだったし、あの頃、学芸会でそうした場面は、どの小学

校でもあったような気がする。その理由がいまでも、よくわからない。どうしてピアノなのだ?

福岡の六本松にいた頃、勉強もできず、お笑いに生きていた低学年の頃のぼくに、したがって、重要な役

はふられず、いつも背後で歌う合唱隊の一人か、せいぜい、木とか、雲とか、人間ではないものだった。

愚かな少年は、学芸会の役の発表のたびに、そんなことあるはずもないのに、主役が回ってこないかと期

待していた。人前で何かをやりたいというのは、小学校の低学年の頃は強かった。2年のときに、クラス

からスポイルされ、内向的な少年になってからも、心のどこかでは、そうした欲求が強かったような気が

する。しかし、役は回ってこなかった。

そんなアホな小学生が、門司に転校して、あまりの成績のひどさに塾に通わされ、あれよあれよと成績が

よくなると、やっぱり、役が回ってくる。だから、ぼくは、勉強ができないで脇にやられてしまう奴の気

持ちも、勉強ができることで得られる特別な恩恵のどちらも知っている。そして、勉強ができるかできな

いで、学校生活が天と地ほども違うことを思い知らされた。同時に、それが、自分から勉強しようという

意欲も与えくれた。子どもには、だから、自信をつけさせることが先なのだ。何かひとつ、自分の得意を

みつけられば、その子の人生は大きく変わる。ぼくのように、おだてられないと自信の持てないような子

どもは特にそうだと思う。

門司に来て、役が回ってくるようになったが、みんなから愛されているかどうかは別だ。地元の子たちに

眼をつけられ、ボコボコにされた話はしたが、その原因でもあったろうし、それがきっかけでもあったか

もしれないが、ぼくは小学校の高学年から、本にはまるようになった。小学校の低学年のときは、密かに

テレビ放映の映画を観ることが逃げ道だったが、高学年になると帰宅も遅くなるし、転校生仲間で放課後

ドッジボールをやるのが恒例となっていから、帰りは遅い。母も姉もいるから、勝手にひとりテレビを観

ることもできない。当時は、ゲームなどない時代だから、テレビゲームに逃げ込むこともできない。

そんなある日、父が「ロビンソンクルーソー漂流記」を買ってきた。

転校してすぐの頃、その小学校ではぼくが最初の転校生に近かった。5年生になると東京や神戸、八幡な

どから、次々に転校生が来て、ぼくの孤独は癒されたが、それまでは友人もなく、転校先でうまくれない

ぼくの様子を見て、父は、本でも読めという思いだったのではないかと思う。

孤独な転校生は、だから、「ロビンソンクルーソー漂流記」を当時、100回は読んだと思う。だが、それ

がきっかけで、ぼくは図書室にある本を読むようになり、小学生向けのSF、近未来小説や金星探検ものに

始まり、ついには、ドストエフスキーの「戦争と平和ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」、ゴーリキの

「外套」なんてもんまで読むようになった。内容がわかっていたかどうかはあやしいが、本の匂い、文字

の想像の世界にいることが、これほど現実を忘れさせてくれるのだと発見してからは、本に夢中になった

のだ。果ては、自分でSFで読んだ世界を書いてみたいと思い、文章まで書くようになった。

そのせいで、ぼくは学芸会や卒業生を送る会のようなイベントのとき、当時、人気だったクレージー・キ

ャッツのギャグをまねて、お笑いの台本を書き、自分で演出して、クラスメートにやらせるということを

やるようになった。ナンセンスものなのだが、自分でも想像しなかったほどの受けて、びっくりした記憶

がある。

しかし、芝居に落ちが必要なのをどこかで学んでいて、ナンセンスギャグをやっていた登場人物たちが、

精神科の患者だったという落ちをつけた。まさに、「カッコーの巣の上で」だ。ちょっとブラックを込め

ていたが、それは生徒、教師には伝わらず、精神科の患者たちの芝居だったという落ちに、人権云々とい

うクレームもつかなかった。

いま思えば、それがぼくの演劇らしいものとの最初の出会いだった気がする。

そして、中学になったときに、はっきり演劇を意識する出来事と出会ったのだ…。


つづく。