プリンに茶碗蒸し
ぼくの母は料理が苦手だった。
父と一緒になる前まで、女中さんが何人もいるような地回りのやくざのような家で育ったのだから、無理もない。
母がまともに料理をするようになったのは父と結婚してからだし、若い頃の父はその料理がまずいと星一徹のごとく、卓袱台をひっくり返した。
しかし、二人は、だからと言って別れるわけでもなく、まるで一昨年の話題の映画『自虐の詩』の阿部寛や中谷美紀のように寄り添っていた。
小中学生の頃は母が料理が苦手だということに気がつかなかったのだが、高校生になって、たまにバイトの金で当時流行りの純喫茶のようなところに行くようになると、だんだん舌が肥えてきて、どうも、うちのおふくろの料理はうまいというのではないと感じ始めた。
贅沢になっただけなのだが、おふくろの料理をする苦労もわからず、ありがちにおふくろのつくる料理に文句を言ったりしたこともある。
しかし、ぼくの舌が贅沢になるまで、ぼくがおふくろの料理をまずいと思わなかったのにはわけがある。
おふくろは、いつもぼくの好きな料理ばかりしかつくらなかったからだ。
ぼくは、もちろん、叱られるもともあったが、ものすごく甘やかされて育ったと思う。
偏食が多く、好き嫌いも激しかった。大学進学で東京に来るまで、ぼくがまともに食べられたのは、野菜であれば、レタス、セロリ、たまねぎ、なす、大根、じゃがいも。緑の野菜はダメだった。
肉は、ステーキやハンバーグ、すき焼きのような牛はOKだが、豚肉や鶏肉もだめだった。魚は焼き魚、刺身は食べられたが、煮魚がダメ。
いまでこそ、大好物のチーズも当時はダメだった。
卵は、いまでもそうだが、異常に好きだった。後、コロッケ。それに、味噌汁。
母はよく、ぼくが味噌汁を何杯もお代わりするのを見ると、うれしそうに、「お母さんは味噌汁嫌いだったけど、あんたがお腹にいるときには、どうしても味噌汁が飲みたくて飲みたくて…。生まれて来たら、ほんとに味噌汁好きの子どもだった」と口にした。
そんなわがままな、甘えん坊だから、うちのカレーライスは、肉はミンチにしたもの、ぼくが食べられないから、野菜はにんじんなどを細かくしたキーマカレーのようなものと決まっていた。
煮物料理だけのときは、ぼくが醤油の煮た匂いが嫌いで食が進まないため、ぼくだけに卵焼きや生卵が渡される。
姉はいつも「そげんして甘やかすけん、食べんったい」とぼくだけが優遇されることにクレームを言い、父は「食べたくなかったら、食べるな!」とキレるときもあった。
しかし、そんな家族の非難を無視して、母は、ぼくの好きなものだけをいつも用意してくれた。
だから、うちでは、ぼくの好きなカレーライスが度々食卓に上るし、味噌汁は必ず用意された。卵料理も多かった。よく父は、「また、カレーライスか…」と少しは夫の食に気をつかえと苦笑いをした。
母がぼくを喜ばせようとぼくの料理を度々つくるから、当然、その腕前は上がり、また、その味はぼくの味覚を満足させるものになる。だから、ぼくは、母の料理全般の味を知らなかったのだ。
逆に、いま思えば、母も食べ物の好き嫌いが激しかったような気がする。
少し贅沢ができるようになって、出前のすしをとっても、ネタだけ食べて、太るからとごはんは残す。あまりおいしくない料理だとちょっとだけ手をつけて、あとは残す。旅行のときの弁当などはその典型だった。
そんな母が大好きだったのは、プリンと茶碗蒸しだった。
六本松の警察官舎にいたときに、ある日、姉と母とぼくでお腹がすいたから、おやつに何か食べようということになった。当時は、その辺にコンビニなどがある時代ではない。
すると母は、「茶碗蒸しが食べたかねぇ」と言って、いきなり茶碗蒸しをつくり始めた。貧しい警察官の家に高級食材のえびや銀杏などが常備してあるはずもなく、母は具のない茶碗蒸しをつくる。
ところが、出て来てびっくりで、なんとどんぶりにつくってあったのだ。そして、それをぺロリと平らげた。
そのときはじめて、母が茶碗蒸しが大好きなのを知った。
歯が弱かったせいもあるが、いわゆる、卵を使ったそういう柔らかい料理が好きで、結果、当時、福岡にできて間もない、不二家に行くと必ずプリンを注文した。確かに、茶碗蒸しとどこか似ている。
ぼくがホットケーキを食べる傍らで、母はいつもプリンをおいしそうに食べていた。
その後、何かで東京に来て、ぼくに会い、すし屋に入ったり、ぼくが福岡に帰り、たまの贅沢だからとすし屋の出前をとったりると、母は必ず、「あんた、茶碗蒸しは食べんと?」と訊かれた。
ぼくを口実にして母が食べたいのだろうと思い、「オレはいいよ。お母さん食べたら?」と言うと、母は、「うちはよかけん」と食べようとしない。そして、別れ際に財布から1万円札を出し、「これで何か買いなさい」とぼくの手に握らせた。
おそらく、母は自分が好きな茶碗蒸しは息子も好きなものだと思っていた。そして、それを食べさせたかったのだろう。しかし、自分が食べるのではなく、その分は、少しでも息子の小遣いに渡してやりたいという気持ちだったのだろうと、いまは思う。
東京でも福岡でも、ショッピングに出ると喫茶店に入り、スイーツを注文した。そのとき2回に1回はプリンだった。
昨年、おふくろが倒れたとき、どうしてか、その記憶が蘇った。
19年前に同じようにくも膜下出血で緊急入院したときは、もういのちが危ないという状況ですごく動揺し、プリンのことは頭に浮ばなかった。
しかし、今回はなんとか持ち直して小康状態にあるということで、気持ちに多少はゆとりがあったからか、そのことを思い出したのだ。
いずれにしても、危険な状態で、医師の話を姉からいろいろ聞かされても、そう長くないのだということがわかっていた。
おふくろには何もしてやれなかった。
ぼくの演劇や映画の夢につき合わせてしまった。いつか仕事をして、ゆとりができたら、親孝行をすればいい。親孝行は夢がかなってから、くらいにしか考えられなかった。
生きている間に、せいぜいできたのは、仕事で付き合いのあった蓼科のホテルに連れていってやれたことと、東京タワーに一緒にいけたこと、そして、せめて孫の顔を見せてやれたことくらいだ。
長男として母親を安心させてやることは最後までできなかった。
その日、病院に行くとおふくろ一人で、ずっとぼくを待っていたようだった。だが、医師に止められていて、病院食以外はのもは、血圧が上がるからダメだという。
翌日、「一つくらいはナイショでいいでしょ」そう看護婦さんに言われて、うれしそうにしていた母だったが、ぼくがトイレに言っているすきに、ぺロリと一つ、食べてしまっていた。戻ると笑ってごまかしていた。
ぼくも思わず笑った。
そして、なんとはなしに、これがおふくろとの時間の最後になるような気がした。
それから一週間後の深夜、おふくろは他界した。
ぼくは東京にいて、死に目には会えなかった。
「オールディズ 三丁目の夕陽」という映画は、当時の昭和を描きつくしているとは思わない。そこには、昭和の影の世界が描かれていないからだ。
だが、帰りの電車賃がなくなり、子ども二人が雨に打たれ、不安になっている場面で、薬師丸ひろ子が演じる母親が、息子の肘宛の中に、そっと忍ばせてくれたお金に子どもが気づき、そのお金で家まで辿り着く場面を見たとき、思わず涙が出た。
あの母親がそうした気遣いをし、息子がそれに気づけたのは、言葉にしなくても伝えられる思いがあったからだ。
母は、いつも息子の夢を信じていた。同じ夢を見ようとしていた。母がいなくなったいま、振り返るとそう感じることが多い。
一周忌の今年、ぼくは、昨年、母に食べさせた「なめらかプリン」を墓前に持っていった。
あのときは病気で、一個しか食べられなかったけど、いまは好きなだけ食べていいよ。
ぼくの肘宛にはいまでも母がぼくの夢に付き合おうとしてくれていた思いがそっと入れてあるような気がする。
父と一緒になる前まで、女中さんが何人もいるような地回りのやくざのような家で育ったのだから、無理もない。
母がまともに料理をするようになったのは父と結婚してからだし、若い頃の父はその料理がまずいと星一徹のごとく、卓袱台をひっくり返した。
しかし、二人は、だからと言って別れるわけでもなく、まるで一昨年の話題の映画『自虐の詩』の阿部寛や中谷美紀のように寄り添っていた。
小中学生の頃は母が料理が苦手だということに気がつかなかったのだが、高校生になって、たまにバイトの金で当時流行りの純喫茶のようなところに行くようになると、だんだん舌が肥えてきて、どうも、うちのおふくろの料理はうまいというのではないと感じ始めた。
贅沢になっただけなのだが、おふくろの料理をする苦労もわからず、ありがちにおふくろのつくる料理に文句を言ったりしたこともある。
しかし、ぼくの舌が贅沢になるまで、ぼくがおふくろの料理をまずいと思わなかったのにはわけがある。
おふくろは、いつもぼくの好きな料理ばかりしかつくらなかったからだ。
ぼくは、もちろん、叱られるもともあったが、ものすごく甘やかされて育ったと思う。
偏食が多く、好き嫌いも激しかった。大学進学で東京に来るまで、ぼくがまともに食べられたのは、野菜であれば、レタス、セロリ、たまねぎ、なす、大根、じゃがいも。緑の野菜はダメだった。
肉は、ステーキやハンバーグ、すき焼きのような牛はOKだが、豚肉や鶏肉もだめだった。魚は焼き魚、刺身は食べられたが、煮魚がダメ。
いまでこそ、大好物のチーズも当時はダメだった。
卵は、いまでもそうだが、異常に好きだった。後、コロッケ。それに、味噌汁。
母はよく、ぼくが味噌汁を何杯もお代わりするのを見ると、うれしそうに、「お母さんは味噌汁嫌いだったけど、あんたがお腹にいるときには、どうしても味噌汁が飲みたくて飲みたくて…。生まれて来たら、ほんとに味噌汁好きの子どもだった」と口にした。
そんなわがままな、甘えん坊だから、うちのカレーライスは、肉はミンチにしたもの、ぼくが食べられないから、野菜はにんじんなどを細かくしたキーマカレーのようなものと決まっていた。
煮物料理だけのときは、ぼくが醤油の煮た匂いが嫌いで食が進まないため、ぼくだけに卵焼きや生卵が渡される。
姉はいつも「そげんして甘やかすけん、食べんったい」とぼくだけが優遇されることにクレームを言い、父は「食べたくなかったら、食べるな!」とキレるときもあった。
しかし、そんな家族の非難を無視して、母は、ぼくの好きなものだけをいつも用意してくれた。
だから、うちでは、ぼくの好きなカレーライスが度々食卓に上るし、味噌汁は必ず用意された。卵料理も多かった。よく父は、「また、カレーライスか…」と少しは夫の食に気をつかえと苦笑いをした。
母がぼくを喜ばせようとぼくの料理を度々つくるから、当然、その腕前は上がり、また、その味はぼくの味覚を満足させるものになる。だから、ぼくは、母の料理全般の味を知らなかったのだ。
逆に、いま思えば、母も食べ物の好き嫌いが激しかったような気がする。
少し贅沢ができるようになって、出前のすしをとっても、ネタだけ食べて、太るからとごはんは残す。あまりおいしくない料理だとちょっとだけ手をつけて、あとは残す。旅行のときの弁当などはその典型だった。
そんな母が大好きだったのは、プリンと茶碗蒸しだった。
六本松の警察官舎にいたときに、ある日、姉と母とぼくでお腹がすいたから、おやつに何か食べようということになった。当時は、その辺にコンビニなどがある時代ではない。
すると母は、「茶碗蒸しが食べたかねぇ」と言って、いきなり茶碗蒸しをつくり始めた。貧しい警察官の家に高級食材のえびや銀杏などが常備してあるはずもなく、母は具のない茶碗蒸しをつくる。
ところが、出て来てびっくりで、なんとどんぶりにつくってあったのだ。そして、それをぺロリと平らげた。
そのときはじめて、母が茶碗蒸しが大好きなのを知った。
歯が弱かったせいもあるが、いわゆる、卵を使ったそういう柔らかい料理が好きで、結果、当時、福岡にできて間もない、不二家に行くと必ずプリンを注文した。確かに、茶碗蒸しとどこか似ている。
ぼくがホットケーキを食べる傍らで、母はいつもプリンをおいしそうに食べていた。
その後、何かで東京に来て、ぼくに会い、すし屋に入ったり、ぼくが福岡に帰り、たまの贅沢だからとすし屋の出前をとったりると、母は必ず、「あんた、茶碗蒸しは食べんと?」と訊かれた。
ぼくを口実にして母が食べたいのだろうと思い、「オレはいいよ。お母さん食べたら?」と言うと、母は、「うちはよかけん」と食べようとしない。そして、別れ際に財布から1万円札を出し、「これで何か買いなさい」とぼくの手に握らせた。
おそらく、母は自分が好きな茶碗蒸しは息子も好きなものだと思っていた。そして、それを食べさせたかったのだろう。しかし、自分が食べるのではなく、その分は、少しでも息子の小遣いに渡してやりたいという気持ちだったのだろうと、いまは思う。
東京でも福岡でも、ショッピングに出ると喫茶店に入り、スイーツを注文した。そのとき2回に1回はプリンだった。
昨年、おふくろが倒れたとき、どうしてか、その記憶が蘇った。
19年前に同じようにくも膜下出血で緊急入院したときは、もういのちが危ないという状況ですごく動揺し、プリンのことは頭に浮ばなかった。
しかし、今回はなんとか持ち直して小康状態にあるということで、気持ちに多少はゆとりがあったからか、そのことを思い出したのだ。
いずれにしても、危険な状態で、医師の話を姉からいろいろ聞かされても、そう長くないのだということがわかっていた。
おふくろには何もしてやれなかった。
ぼくの演劇や映画の夢につき合わせてしまった。いつか仕事をして、ゆとりができたら、親孝行をすればいい。親孝行は夢がかなってから、くらいにしか考えられなかった。
生きている間に、せいぜいできたのは、仕事で付き合いのあった蓼科のホテルに連れていってやれたことと、東京タワーに一緒にいけたこと、そして、せめて孫の顔を見せてやれたことくらいだ。
長男として母親を安心させてやることは最後までできなかった。
その日、病院に行くとおふくろ一人で、ずっとぼくを待っていたようだった。だが、医師に止められていて、病院食以外はのもは、血圧が上がるからダメだという。
翌日、「一つくらいはナイショでいいでしょ」そう看護婦さんに言われて、うれしそうにしていた母だったが、ぼくがトイレに言っているすきに、ぺロリと一つ、食べてしまっていた。戻ると笑ってごまかしていた。
ぼくも思わず笑った。
そして、なんとはなしに、これがおふくろとの時間の最後になるような気がした。
それから一週間後の深夜、おふくろは他界した。
ぼくは東京にいて、死に目には会えなかった。
「オールディズ 三丁目の夕陽」という映画は、当時の昭和を描きつくしているとは思わない。そこには、昭和の影の世界が描かれていないからだ。
だが、帰りの電車賃がなくなり、子ども二人が雨に打たれ、不安になっている場面で、薬師丸ひろ子が演じる母親が、息子の肘宛の中に、そっと忍ばせてくれたお金に子どもが気づき、そのお金で家まで辿り着く場面を見たとき、思わず涙が出た。
あの母親がそうした気遣いをし、息子がそれに気づけたのは、言葉にしなくても伝えられる思いがあったからだ。
母は、いつも息子の夢を信じていた。同じ夢を見ようとしていた。母がいなくなったいま、振り返るとそう感じることが多い。
一周忌の今年、ぼくは、昨年、母に食べさせた「なめらかプリン」を墓前に持っていった。
あのときは病気で、一個しか食べられなかったけど、いまは好きなだけ食べていいよ。
ぼくの肘宛にはいまでも母がぼくの夢に付き合おうとしてくれていた思いがそっと入れてあるような気がする。