秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

演劇のこと5

映像の世界に入って痛感したのは、いかに映像の世界の人々が演劇の知識を持ち合わせていないかという

ことだった。

俳優の生理や演技というものをきちんと勉強していないか、リアルな演技を追求するあまり、過剰な芝居

を俳優に要求し、過剰であることが、あたかもよき演技、よき芝居のように錯覚している連中が驚くほど

いることにぼくは愕然とした。また、新劇出身の俳優の過剰な芝居にも悩まされた。

映像は、舞台と違い、さりげなさや日常のディティールを丁寧に演技することができる。カット割、クロ

ーズアップの手法が使えるし、編集でスローやコマ送りなど映像そのものをいかにようにも加工すること

ができる。内面の心象をいかようにも表現できるツールを持っているのだ。

舞台においても、それに類する演出法や照明技法があるが、映像の場合は、舞台などより観る側視覚を限

定できる分、その訴求力は比較にならない。同時に、演出をわきまえていなければ、加工し過ぎて、かえ

って演出効果を削ぐ場合すらある。

つまり、ささいな表情の変化や微妙な視線の動きで、舞台より遥かにたくさんの情報を観る側に伝えるこ

とができるのだ。その分、演出における経験や知識が深くなくては、いい芝居、いいカット割はできな

い。

世阿弥の演出論、演技論についてここでは詳しくは述べないが(ぼくの公式HPのWORK SHOP REPORTに詳細

は記してある)、微妙な心の変化や言葉で表せない内面の思いは、過剰に所作をつくらなくても、過剰に

セリフを語らせなくて伝えることができるのが、映像の世界なのだ。観る側の想像力に訴える、余白をど

うつくり、余白にどう芝居を織り込むかが重要な媒体だとぼくは思っている。

説明過多、状況紹介過多の作品ほど、一見、観る側に親切なように見えて、少しも表現を大切にはしてい

ない。

ぼくのやっている社会派、人権派といわれる作品には、語るべきものはあるし、伝えなければいけないメ

ッセージはある。それはきちんと描かなくてはいけないが、それが発せられた後、空白は必ず必要なの

だ。観る側に思考する時間、間を与えなくては、そのセリフも芝居も観る側に落ちない。

そうした計算や丁寧さが大切にされていない場合が多い。

日本の業界システムには、作業段取りを学ばせる徒弟制のようなシステムはあるが、監督や演出を目指す

人間が俳優の生理を学び、同時に台本や脚本を空間化、視覚化するときに何が大切かを学ぶ演出の学習が

できるシステムがない。日本で、フリーのプロデューサーがほとんどいなく、映画会社や制作会社に入社

しただけの人間がある時間、制作にかかわる中で、人事移動のようにプロデューサーになるように、監督

やディレクターの教育をきちんと受けていない人間が、それまでの経験だけでそのポジションに付くこと

ができる組織優先主義の弊害がそこにある。結果的に彼らはほぼサラリーマンでしかない。

そうした弊害を乗り越えるには、やはり、まず演劇、舞台の勉強をさせるシステムをきちんと導入しなけ

れば、いい作品を生み出す制作マンは育たないとぼくは思っている。

だから、俳優にも舞台経験を勧める。ただし、俳優の生理や演出におけるきちんとした知識とセンスのあ

る演出家、指導者がいる場合に限ってだ。舞台ですら、ひどい状況だから。


ぼくにとって、演劇は愛人、映像は恋人のような存在なのだろうと思う。

映像に比べたら、遥かに手間がかかり、面倒なことも多い。それに、なかなか報われない世界だ。

しかし、その手間暇をかけて、丁寧に仕上がった芝居をみると、共に仕事をした仲間への感謝と感動で

いっぱいになる。同時間、同じ一瞬のために全精力をかける舞台には、映像とはまた違う喜びがある。

しかし、愛人だから、ずっと一緒にいることはできない。それがいとおしいのだ。

今年は、久しぶりに愛人に会いにいってこようと思っている。

しかし、それは、その舞台台本を映像台本に書き直し、映画化したいと思っているからだ。

結局は、恋人のためなのだが、演劇という愛人は懐が深いから、きっと許してくれるだろうと勝手に思っ

ている。