父の詫び状5
父も祖父も、家庭を壊すような男ではなかったが、深い仲になった女性がいえれば、それを遊びと割り切
れるほど、遊び上手な男ではなかったのだろうと思う。
母にすれば、許せることでなかったのはよくわかるが、妻子があっても、真剣な恋に出会ってしまうこと
は、いつだって、だれにだってあることだ。それを抑制できるかどうかは、理性の問題で、人は恋に落ち
れば理性より、本能が勝ってしまう。しかし、本能に身をまかせて、家庭を壊してしまう人間もいれば、
本能に身をまかせつつも、どこかで妻子や妻子のこれからの生活を考え、その思いにためらいが生まれる
人間もいる。
しかし、それが不倫相手の女性からみれば、煮え切らない態度にみえるし、妻からすれば、浮気にしかみ
えず、その優柔不断さが、また許せない。つまり、とりつくろって、できるだけ誠実であろうとするとこ
ろに、無理があるし、見え透いた虚言が生まれる。本人にすれば、双方を傷つけたくないという思いもあ
るのだろうが、それは中途半端なやさしさで、結局、妻も浮気相手も、そして、自分自身をも傷を負って
しまうことになるのだ。
「浮気は絶対に許さない!」と言い切る若い女の子は多いけど、結局、自分の恋人に他に女性がいるとわ
かっても、そこから抜け出すことができない子はもっと多いような気がする。男と女は理屈ではないの
だ。体で感じ、考える。それが男と女だ。
だから、男と女の間に、いろいろなドラマはつきない。そのことを冷静にみつめられないうちは、阿修羅
のごとく、煩悩に人は支配され、嫉妬やねたみ、うらみに焼かれるしかない。
ある意味、人は、生涯、執着という生まれながらの煩悩と向き合い続けるしかない生き物なのだ。自分の
執着とどう付き合い、それをどれだけ受け入れ、冷静にみつめられるかで、幸せのあり方も違ってくる。
結局、母は、亡くなるまで、その執着と闘い続けた。最初に生きるか死ぬかの病に倒れたとき、奇跡的に
回復した病室で、看病する父にわがままをぶつけ続けた。
向田作品では、浮気相手の様子を見に行った母親は、行った先の道で倒れ、そのまま亡くなって、夫に恨
み節をぶつけることはなかった。しかし、娘たちは、浮気相手の家にまで行った母親の言葉にできない、
女としての業を知り、同じ女として、母親が女の業火に焼かれていたことに驚きと共感を隠さない。
しかし、それは冷静にみれば、それほどに彼女たちの父親である、夫を男として愛していたという証でも
あるのだ。
奇跡的に助かった母は、療養中、<自分がこうなったのは、あなたのせいよ>と、父と二人だけのときに、
父を責め続けた。確かに、母のストレスの大きな要因には父の浮気があった。それを知る父は、母の暴言
とも思える無理難題や文句、愚痴にじっと耐えていた。父の浮気で、母に同調し、常に父を非難していた
姉も、母の言葉に耐え続けている父の姿は痛ましかったと言った。
しかし、そんな母も、2度目に病気が再発し、入院したときには、普段、悪し様に言っている父が病室に
来ないとさびしいともらしていた。別れ際には、必ず手を差し出して、父の手を握った。
その姿をみていると、若い頃、貧乏な警察官と地元の顔役の娘がダンスホールで出会ったときの空気感が
伝わってくる。その光景を見てもいないのに、ぼくには、若い二人の姿が確かに見えた。若い頃、そし
て、二人でつましい生活を始めた頃、二人がどれほど愛し合い、かけがえのない出会いをしていたかが伝
わってくる。
そのときの父と母の顔には、あきらかに、その時代の二人の若い面影があった。
人が愛し合うということは、そういうことなのだ。
結び付くということは、そういうことなのだ。
人が生きるということは、そういうことなのだ。
いずれ人は別れる。そのときに、そして、別れたあと、どういう顔で互いをみつめられるかが大事なの
だ。わずなか時間でも一緒にいられたことをいとおしいとなつかしめるか、大切な記憶として刻んでいら
れるか。その尺度で相手をみつめれば、いま眼の前にいる相手との時間が大切なものなのか、そうではな
いものなのかがおのずと理解できる。
れるほど、遊び上手な男ではなかったのだろうと思う。
母にすれば、許せることでなかったのはよくわかるが、妻子があっても、真剣な恋に出会ってしまうこと
は、いつだって、だれにだってあることだ。それを抑制できるかどうかは、理性の問題で、人は恋に落ち
れば理性より、本能が勝ってしまう。しかし、本能に身をまかせて、家庭を壊してしまう人間もいれば、
本能に身をまかせつつも、どこかで妻子や妻子のこれからの生活を考え、その思いにためらいが生まれる
人間もいる。
しかし、それが不倫相手の女性からみれば、煮え切らない態度にみえるし、妻からすれば、浮気にしかみ
えず、その優柔不断さが、また許せない。つまり、とりつくろって、できるだけ誠実であろうとするとこ
ろに、無理があるし、見え透いた虚言が生まれる。本人にすれば、双方を傷つけたくないという思いもあ
るのだろうが、それは中途半端なやさしさで、結局、妻も浮気相手も、そして、自分自身をも傷を負って
しまうことになるのだ。
「浮気は絶対に許さない!」と言い切る若い女の子は多いけど、結局、自分の恋人に他に女性がいるとわ
かっても、そこから抜け出すことができない子はもっと多いような気がする。男と女は理屈ではないの
だ。体で感じ、考える。それが男と女だ。
だから、男と女の間に、いろいろなドラマはつきない。そのことを冷静にみつめられないうちは、阿修羅
のごとく、煩悩に人は支配され、嫉妬やねたみ、うらみに焼かれるしかない。
ある意味、人は、生涯、執着という生まれながらの煩悩と向き合い続けるしかない生き物なのだ。自分の
執着とどう付き合い、それをどれだけ受け入れ、冷静にみつめられるかで、幸せのあり方も違ってくる。
結局、母は、亡くなるまで、その執着と闘い続けた。最初に生きるか死ぬかの病に倒れたとき、奇跡的に
回復した病室で、看病する父にわがままをぶつけ続けた。
向田作品では、浮気相手の様子を見に行った母親は、行った先の道で倒れ、そのまま亡くなって、夫に恨
み節をぶつけることはなかった。しかし、娘たちは、浮気相手の家にまで行った母親の言葉にできない、
女としての業を知り、同じ女として、母親が女の業火に焼かれていたことに驚きと共感を隠さない。
しかし、それは冷静にみれば、それほどに彼女たちの父親である、夫を男として愛していたという証でも
あるのだ。
奇跡的に助かった母は、療養中、<自分がこうなったのは、あなたのせいよ>と、父と二人だけのときに、
父を責め続けた。確かに、母のストレスの大きな要因には父の浮気があった。それを知る父は、母の暴言
とも思える無理難題や文句、愚痴にじっと耐えていた。父の浮気で、母に同調し、常に父を非難していた
姉も、母の言葉に耐え続けている父の姿は痛ましかったと言った。
しかし、そんな母も、2度目に病気が再発し、入院したときには、普段、悪し様に言っている父が病室に
来ないとさびしいともらしていた。別れ際には、必ず手を差し出して、父の手を握った。
その姿をみていると、若い頃、貧乏な警察官と地元の顔役の娘がダンスホールで出会ったときの空気感が
伝わってくる。その光景を見てもいないのに、ぼくには、若い二人の姿が確かに見えた。若い頃、そし
て、二人でつましい生活を始めた頃、二人がどれほど愛し合い、かけがえのない出会いをしていたかが伝
わってくる。
そのときの父と母の顔には、あきらかに、その時代の二人の若い面影があった。
人が愛し合うということは、そういうことなのだ。
結び付くということは、そういうことなのだ。
人が生きるということは、そういうことなのだ。
いずれ人は別れる。そのときに、そして、別れたあと、どういう顔で互いをみつめられるかが大事なの
だ。わずなか時間でも一緒にいられたことをいとおしいとなつかしめるか、大切な記憶として刻んでいら
れるか。その尺度で相手をみつめれば、いま眼の前にいる相手との時間が大切なものなのか、そうではな
いものなのかがおのずと理解できる。