秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ファッションのこと6

病名は胸膜炎。

肺胞を包んでいる膜が炎症を起こし、罹患する病気だが、ぼくの場合は胸膜に腫瘍があった。

良性のものか、悪性のものかを判別するには、肺にたまった水を取り、検査する必要がある。

そればかりか、肺にたまった水を取り除かなければ、肺胞がもとの大きさに戻らず、ぼくは200メートル

走を続けた状態のまま、酸素ボンベから自由になれない。

肺にたまった水を取り除くのは、背中から肺胞や神経を傷つけないように注射針を差し、抜くのだが、

担当の医師は若く、その経験がなかった。もともと心臓専門の病院だから、呼吸器系の治療に慣れていな

いのは当然なのだが、おっかなびっくりで恐る恐る針を刺す。

当初は検査用に水を抜く予定だったが、注入がうまくいって、どっと水が出たことで、この際抜き取ろう

ということになった。

肋膜には無数の神経が走っているから、当然、水を抜くと痛みが蘇る。ぼくは、再び激しい激痛に襲われ

た。

人は本当に痛いとき、声が出ない。あの経験からぼくはいま、そう確信している。

泣き叫ぶというのは、まだ余裕がある方か、痛みを痛みと受け止められるだけの時間があってのことだ。

一瞬の脅威の痛みは人を黙らせる。

医師は慌てて、モルヒネを打つ。

これがすごい。

いま終末期医療などでもモルヒネは当たり前の痛み止めになっているが、かつては打ちすぎると中毒にな

るといわれ、よほどのことがないと使用を差し控えていた時期もある。が、いまは、ペインコントロール

の特効薬として常用されている。

いち、にい、さん…。3つ数えただけで、天国に行く。痛みはあっという間に消えるのだ。

心臓血管研究所は東大閥の病院で、呼吸器系の治療については、同じく東大の関係者に問い合わせしなが

ら、プロトコールを立てていたらしい。

その指示は的確だった。

処方されて、毎日、打たれた抗生剤は、みるみるぼくの体力を回復していった。

しかし、医師には、ぼくの体の実感がわからない。あくまで、科学的な根拠とデータでしか、理解しない

から、また、そうでないと困るのだが、それら根拠とデータからみると、どう考えても悪性の腫瘍が原因

で、腫瘍をやっつけるために攻撃した白血球の死骸が水となって肺にたまっているという結論しかみえて

こなかったらしい。

「場合によって、他の腫瘍からの転移も考えられます…」

かみさんや山口からかけつけた姉には、余命いくばくもないかもしれない可能性も示唆したらしい。

しかし、ぼくは、その医師の予想を反して、回復していた。

医師は、ぼくが死ぬと思ったのだろう。大部屋でいいと医療費をケチるぼくに、「医師の判断で個室に

する場合、個室代はかかりませんから」とぼくを個室に入れた。

その瞬間、医師は、ぼくが死ぬのだと思っていると直感した。

しかし、ぼくの感覚は違っていた。

ある夜、ちょっといい感じの看護師が個室に体温を測りに来た。その看護師の半袖の腕が、ふっとぼくの

腕にふれた瞬間、ぼくは、「ああ、セックスがしたい」と思った。人肌のぬくもりに、興奮した。

そのとき、自分は助かると確信したのだ。

そのときから、喉をひとつも通らなかった病院食を無理やりのどの奥まで押し込んだ。

「息子さんのためにも、食べないとよくなりませんよ」若い医師のその一言がそうさせた。

生きよう。生き続けよう。そう思った。

ぼくはICUに入った瞬間から、どこかで死ぬ準備をしていた。

遣り残したことも、ひとり息子に伝えたいこともあった。しかし、人が死ぬというのは、自分の思い通り

にすべてを終えて、迎えるものではなく、思い残しを抱えたまま、迎えるものなのだと自分を納得させよ

うとしていた。

病室に来た、息子の手が握れたら、それを幸せと思おう、そう決意し、そして、実際に息子の手を握って

声のでない自分の思いを伝えた。

モルヒネの影響で、夢に混じりながら、断片的にしか浮かび上がらない日常の映像の中で、ぼくはそんな

ふうに死と向かい合おうとしていたのだ。

しかし、体の実感が蘇るにつれて、生きたいという本来の気持ちが頭をもたげていった。

それまで、自分の未来も自分の言動も、そして、自分の生き方も、自分の力で切り拓けると思っていた。

同時に、事業に失敗し、家庭をなおざりにし、親しい人を傷つけてたことへの罪の意識、自分という人間

の力のなさに失意の中にいた。自分の力を過信する人間ほど、それが壊れた時、その責任は自分にあると

自分を責める。うつ病から自殺する多くの中高年はそうだと思う。

しかし、こうして身動きできない状態になると

なにひとつ、自分の力でできることなどない。

医師を信じ、その治療に身をまかせ、見えない力に自分の運命を預けるしかないのだ。

そのことを痛烈に教えられた。

人はひとりでは生きられない。そんな当たり前のことを、そのとき、体で実感した。

その後、転院し、二週間の入院で、ぼくは日常に復帰した。

仕事が止まれば、ぼくの会社はそれで終わりだ。そのこともあって、できたら、あと数日はという医師の

すすめもあったが、病院を出た。

しばらくは、呼吸が苦しく、階段の上り下りも、坂道も堪えた。

いまでも、右肺の下の肺胞はそのときの影響で機能していない。

そんなふうに拾った命で、日常に戻ると、働けること、日々人と出会い、なにがしか生活を送れること

それだけが貴重なことだと思うようになった。

そして、いままで、自分がつくった方程式に縛られていたことに気づき

そこから自由になるための努力をしたいと考えるようになった。

しばらくした頃、偶然立ち寄った、新宿高島屋の紳士服売り場でメンズ・ビギの服に目が留まった。

その店長、志賀さんと仲良くなった。

そのときから、高島屋がリニューアルして、メンズ・ビギのショップがなくなるまで、彼はぼくのファッ

ションコーディネーターだった。

ぼくがいまのようなファッションを選び、それが自分のライフスタイルだと考えるきっかけをつくって

くれた人だ。ぼくに似合いだと思うと、いつも携帯に電話が入る。

店でそのとっておきの服を見た最初は、「これは、ちょっと無理だろう…」というぼくに、とにかく

着せてみせる。着てみると いい。そんなやり取りが何回もあった。

彼は、いつも言った。

「これは、他の人には勧めません。秀嶋さんだと思うから…」

彼は、ぼくが生きようとしていた新しいライフスタイルをアパレルマンの眼でしっかり見抜いていたの

だ。


つづく…。