秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

映画のこと

父と母は映画が大好きだった。

大牟田にいた、ぼくが幼い頃は、よく母に映画に連れていかれた。

貧しい警察官なのに、なんであんなに映画にいけたのか、中学生を過ぎた頃、ふとそう思ったが、理由は簡単で、当時、地元の警察署や派出所、交番はいまとは想像もできないくらい、地域と結びついていた。

とりわけ、興行をやるような場所では、やくざやチンピラとの揉め事や心無い客との諍いをきらい、事前に警察と懇意にしておくのが得策だという配慮があった。だから、映画のチケットを警察署に挨拶代わりに届けるのは恒例になっていたのだ。いまなら、あれこれ言われるのだろうが、当時は、そうしたことは人情の範囲のこととしてあった。

父から映画のチケットをもらった母は、まだ幼稚園児で、家に一人置いてはおけないぼくを連れて映画によく行った。二週間に1回は東映の時代劇を観ていた。

母の好みは、東映の時代劇だったのだ。

いまで言えば、キムタク以上の人気があった、二枚目スター、大川橋蔵の剣豪物「新吾十番勝負」に母もぼくも夢中になった。中村錦之助(後の萬屋錦之助)の「一心太助」や鶴田浩二の「次郎長三国志」に大笑いし、大友柳太朗の「怪傑黒頭巾」では、地元のやくざに手篭めにされかかる町娘を救うために、江戸の町を走る黒頭巾に、「早く!早く!」と観客と一緒に応援の声を上げた。

当時、映画館では、映画が始まる前には、みんな拍手をし、ストーリーに一喜一憂して、気勢を上げたり、笑い声を遠慮なく、上げた。そして、映画がハッピーエンドで終わり、「完」とか「終」の文字が浮ぶと、会場みんなが拍手をした。

まるで、生の舞台を観ているように、客席は反応したのだ。まだ、テレビがない時代、映画は、舞台観劇に近かった。

いつから、ぼくらは、映画館で拍手をしなくなったのだろう。

たぶん、テレビが普及し、洋画が映画館の主流になった頃からではないかと思う。

銀幕のスターや勧善懲悪のドラマが成立しない時代を迎えていた。

美しいだけ、かっこいいだけ、そして正義が勝つだけの世界では、もう人々の現実と心をとらえられない時代へぼくらの生活は向かい始めていた。

映画の帰りには、甘味屋に寄った。そして、母に、「姉ちゃんにはないしょやけんね」と釘を刺される。

でも、映画のおもしろかったことを誰かにしゃべらずにはいられなくて、ぼくは、いつも口をすべらせる。「あんた、映画、観たっちゃろ?」、姉にそう問い詰められ、ぼくは、いつもゲロってしまっていた。しかし、それも、東映時代劇の全盛期の終わりのことだ。

やがて、テレビがポツポツは入るようになると、東映の時代劇は急速に廃れていった。邦画がテレビでも流れるようになり、数年前の東映時代劇もテレビで見られるようになっていったのだ。

父がもらう映画のチケットも日本映画ではなく、洋画のそれに代わるようになり、洋画はあまり好きではなかった母は、ぼくを連れて映画館に行くことはなくなっていった。

余談だが、ぼくが東映の仕事をやるようになり、あるとき、東映太秦撮影所に初めて行ったとき、感慨ひとしおだった。自分が幼い日々、連れて行かれた時代劇を撮影していたスタジオに行き、高倉健美空ひばり、市川歌右衛門が使っていたという楽屋をみた。まさか、大人になった自分が太秦のその場所にいるとは思っていなかった。

 

その後、東映東京撮影所にもお世話になるようになり、不思議な思いにかられた。まして、ぼくは、商業演劇の勉強を東宝でしていた人間なのだ。東宝には憧れがあったが、東映で仕事をするとは、40近くになるまで、全く予想していなかったからだ。

小学校の高学年になると、今度は父に映画に連れていかれた。父がどう思っていたのか、高学年になってもうそろそろいいだろうと思ったのか、結構、際どい場面の多い映画に連れて行かれた。

邦画では、萬屋錦之助の「宮本武蔵」や市川雷蔵の「眠狂四郎シリーズ」のような時代劇でも、勧善懲悪の単純な作品ではなく、人間の本質を突いたような作品に連れていかれた。洋画も、サスペンスのスパイものなどで、女性のおっぱいが見えるセクシーな場面のある映画にも連れて行かれた。

「すごいねぇ」とテレをごまかして、父に声をかけるのだが、父はしまったと思ったのか、ぼくのテレ隠しの問いかけには答えなかった。

しかし、そのおかげで、ぼくは市川雷蔵の大ファンになり、その後、テレビで雷蔵の作品が放映されると眼を凝らして観るようになった。雷蔵の作品には影があった。性が描かれていた。人間の陰と陽や多面性を見事に描き、なおかつ、その作品を雷蔵は見事に演じている。それまでの時代劇スターとは決定的に違う魅力が雷蔵にはあった。当時の大映は、いい作品をつくっていた。いま考えれば、一周早いランナーだったのかもしれない。

当時の家庭は、どこでもそうだったと思うが、映画館へ足を運ばなくなった分、テレビの日曜洋画劇場は毎週欠かさず見ていた。ぼくは、そこで、マリリンモンローを知り、ヘップバーンを知った。「ピクニック」のキム・ノバックを観たときは、こういう女性と将来付き合いたいと思い、ヒッチコックの「めまい」の、彼女の一言で言い表せない、せつない演技に心をえぐられた。

ぼくは、シャーリーズ・セロンの大ファンなのだが、その原点は、キム・ノバックだと思っている。というより、シャーリーズはキム・ノバックを勉強していると確信している。屈折した女性の心理を美人女優、グラマー女優でありながら、きっちり演技できる。それをシャーリーズに観るからだ。

モンローが目指しながら、手に入れることのできなかったもの、それを二人は手に入れている。

男優では、アンソニー・パーキンスにはまっていた。

彼の「のっぽ物語」というアイビーリーグのバスケ部の学生を演じた姿に憧れた。映画が上演されたのは第一次アイビーブームの頃だったが、ぼくたち少年の間で、第二次アイビーブームが始まろうとしている頃だった。

しかし、そのパーキンスが、ヒチッコックの「サイコ」に登場したときは、愕然とした。彼がエール大で演劇を勉強した、コテコテの演劇青年だったと知って、後に納得したが、ハリウッドの二枚目スターが猟奇的な精神破綻者を演技したことに面食らったのだ。

やがて、ぼくは、かっこいいだけの役、美しいだけの役、あるいは、それだけに頼った作品は、語り継がれるいい作品ではないのだということを学ぶようになった。

映画は、テレビドラマは、人の内面をきちんと描いていなくては、社会の暗部をえぐらなくてはいけない。

やがて、邦画はATGの時代、洋画はニューシネマの時代を向かえようとしていた…。


つづく。