包帯のようなウソ1
大学を卒業したとき、結局、ぼくは就職せずに学生時代からやっていた劇団活動を続けることにした。青
年は、またも荒野を目指したのだ。
いま思えば笑い話だが、大学卒業前の帰省の折り、もう福岡に帰ってくることはないと悲壮な決意をして
博多や福岡の街をひとりふらふらと歩いて回ったことがある。
余談だが、博多と福岡ではその街並みや人の雰囲気も違う。福岡市内の中央を流れる那珂川を挟み、いわ
ゆる下町が博多で、かつての城下町が福岡エリアだ。東京でも神田を挟んで上野、浅草と青山や白金辺り
の空気感が違うように、大方の都市や街は万国共通で、大きく分けると山の手と下町に分かれる。福岡も
その例外ではないのだ。
ぼくは小学校の2年生のときにクラスからスポイルされ、ライオン奥様劇場の映画に嵌っていた頃、近く
の大濠公園をひとりで散策するのが好きだった。それは高校生になってもっとエリアを広くし、その日
の気分で黒田城や福岡図書館辺りまでふらふら歩くのが好きだった。
そんなことを思い出しながら、ぼくは博多や福岡の街の風景を自分の眼に焼き付けるようにずいぶん歩い
た。2月下旬、博多湾の寒い海風の吹く日だったのを覚えている。
小学生の頃の遊び場で、思春期にはデートスポットだった黒田城(舞鶴城)跡。姉が滅多に釣れない天然
うなぎを釣り上げた大濠公園。福岡の草野球少年たちの憧れ、西鉄ライオンズが大活躍した平和台球場。
昭和30年代、福岡では鉄腕稲尾や怪童中西太が長島や王も及ばない大スターだった。
博多どんたくの花電車見物や山笠見物の折りに家族で立ち寄った川端商店街の玉屋デパートや「川端ぜん
ざい」というやたら甘いぜんざいを食わせる古風な店。高校時代、演劇部の年中行事で、先輩や同級生、
後輩たちと毎年いった海水浴場のある志賀島の勝馬海岸。
高校3年、そして浪人時代、毎週いったスポーツセンターのリバイバル映画館。数ヶ月遅れのロードジョ
ーがなんと500円で観れた。高校3年のあるとき、上映が終わり、客電が付くと周囲に親しい同級生たちが
どっと座っていたことがある。みんな授業をサボって映画にきていた。『いちご白書』だった。
交際していた女の子や片思いの女の子と行った「ナイル」というカレーショップや「風月」「エルベ」と
いったケーキ&コーヒーショップ。志賀島以外は電車にもバスにも乗らず、丸一日かけて歩き回った。
六本松にいた頃、年に2回、家族連れ立って、天神や中洲の町をそんなふうにぶらぶらと散策する日があ
った。
当時、福岡県警の建物は天神町の中心部に、戦前の堅牢な造りのままあった。父は警部補試験に合格する
までその県警本部の半地下になった鑑識課にいた。家族で外で食事をすることはめったになかったが、そ
の日だけは父の職場まで出掛け、父と落ち合ってから食事に行くのだ。昼間のときもあれば、夕刻のとき
もあったと思う。
「今日はなんでも好きなもん食べてよかけんね」母を食堂でメニューを渡されると決まってニコニコしな
がらそう言った。
「その代わり、明日からは毎日メザシたい」父が笑いながら口を挟む。
「そうそう、その通り」母がまた軽口のように相槌を打つ。
ぼくも姉もその楽しげに交わす両親の決まりきった会話を年に2回は聞かされるのだ。それがボーナスの
出た日の家族行事だとわかったのは中学生も終わりの頃だったような気がする。
当時開業したばかりの西鉄名店街で二軒、三軒と食べ歩きすることもあれば、普段はいけない立派な中華
料理店や当時福岡の庶民には高嶺の花だった「ロイヤル」、いま「ロイヤルホスト」という名で全国に知
られている洋食店でステーキを食べたりした。余談だが、ロイヤルホストの始まりは福岡の個人経営のレ
ストランである。確か、ボーナス時期はロイヤルは満員のことが多く、座れなかったことが多かったよう
な気がする。
「うちはエンゲル係数の低かけんね」何かのテレビニュースでエンゲル係数という言葉を知った母は、食
費や家計の話になるとしばらくの間、よくその言葉を誤った形で引用していた。
「うちはエンゲル係数の高いとよ。それが食費以外にお金の使えん貧乏な家になるったい」算数の得意な
姉は決まって母の引用の誤りを指摘した。
「食べるもんも我慢してまで、貯金してどうするね」いつもその会話は父のその言葉で終わりになる。
なぜか父がそう言ったあとには、父と母の間にしみじみとした間があったような気がする。
年は、またも荒野を目指したのだ。
いま思えば笑い話だが、大学卒業前の帰省の折り、もう福岡に帰ってくることはないと悲壮な決意をして
博多や福岡の街をひとりふらふらと歩いて回ったことがある。
余談だが、博多と福岡ではその街並みや人の雰囲気も違う。福岡市内の中央を流れる那珂川を挟み、いわ
ゆる下町が博多で、かつての城下町が福岡エリアだ。東京でも神田を挟んで上野、浅草と青山や白金辺り
の空気感が違うように、大方の都市や街は万国共通で、大きく分けると山の手と下町に分かれる。福岡も
その例外ではないのだ。
ぼくは小学校の2年生のときにクラスからスポイルされ、ライオン奥様劇場の映画に嵌っていた頃、近く
の大濠公園をひとりで散策するのが好きだった。それは高校生になってもっとエリアを広くし、その日
の気分で黒田城や福岡図書館辺りまでふらふら歩くのが好きだった。
そんなことを思い出しながら、ぼくは博多や福岡の街の風景を自分の眼に焼き付けるようにずいぶん歩い
た。2月下旬、博多湾の寒い海風の吹く日だったのを覚えている。
小学生の頃の遊び場で、思春期にはデートスポットだった黒田城(舞鶴城)跡。姉が滅多に釣れない天然
うなぎを釣り上げた大濠公園。福岡の草野球少年たちの憧れ、西鉄ライオンズが大活躍した平和台球場。
昭和30年代、福岡では鉄腕稲尾や怪童中西太が長島や王も及ばない大スターだった。
博多どんたくの花電車見物や山笠見物の折りに家族で立ち寄った川端商店街の玉屋デパートや「川端ぜん
ざい」というやたら甘いぜんざいを食わせる古風な店。高校時代、演劇部の年中行事で、先輩や同級生、
後輩たちと毎年いった海水浴場のある志賀島の勝馬海岸。
高校3年、そして浪人時代、毎週いったスポーツセンターのリバイバル映画館。数ヶ月遅れのロードジョ
ーがなんと500円で観れた。高校3年のあるとき、上映が終わり、客電が付くと周囲に親しい同級生たちが
どっと座っていたことがある。みんな授業をサボって映画にきていた。『いちご白書』だった。
交際していた女の子や片思いの女の子と行った「ナイル」というカレーショップや「風月」「エルベ」と
いったケーキ&コーヒーショップ。志賀島以外は電車にもバスにも乗らず、丸一日かけて歩き回った。
六本松にいた頃、年に2回、家族連れ立って、天神や中洲の町をそんなふうにぶらぶらと散策する日があ
った。
当時、福岡県警の建物は天神町の中心部に、戦前の堅牢な造りのままあった。父は警部補試験に合格する
までその県警本部の半地下になった鑑識課にいた。家族で外で食事をすることはめったになかったが、そ
の日だけは父の職場まで出掛け、父と落ち合ってから食事に行くのだ。昼間のときもあれば、夕刻のとき
もあったと思う。
「今日はなんでも好きなもん食べてよかけんね」母を食堂でメニューを渡されると決まってニコニコしな
がらそう言った。
「その代わり、明日からは毎日メザシたい」父が笑いながら口を挟む。
「そうそう、その通り」母がまた軽口のように相槌を打つ。
ぼくも姉もその楽しげに交わす両親の決まりきった会話を年に2回は聞かされるのだ。それがボーナスの
出た日の家族行事だとわかったのは中学生も終わりの頃だったような気がする。
当時開業したばかりの西鉄名店街で二軒、三軒と食べ歩きすることもあれば、普段はいけない立派な中華
料理店や当時福岡の庶民には高嶺の花だった「ロイヤル」、いま「ロイヤルホスト」という名で全国に知
られている洋食店でステーキを食べたりした。余談だが、ロイヤルホストの始まりは福岡の個人経営のレ
ストランである。確か、ボーナス時期はロイヤルは満員のことが多く、座れなかったことが多かったよう
な気がする。
「うちはエンゲル係数の低かけんね」何かのテレビニュースでエンゲル係数という言葉を知った母は、食
費や家計の話になるとしばらくの間、よくその言葉を誤った形で引用していた。
「うちはエンゲル係数の高いとよ。それが食費以外にお金の使えん貧乏な家になるったい」算数の得意な
姉は決まって母の引用の誤りを指摘した。
「食べるもんも我慢してまで、貯金してどうするね」いつもその会話は父のその言葉で終わりになる。
なぜか父がそう言ったあとには、父と母の間にしみじみとした間があったような気がする。