秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ヒューズ2

次に父をすごいと思ったのは、小学校の高学年のときだ。

北九州の門司に転校していた小学校の高学年のときだった。

何かで父と言い合いになった。確か、児童会の話し合いで、学年のだれかと議論になり、その議論の経緯

を父に話していたときだった。どう考えても相手の意見はおかしいと相手の非を非難していて、そうなっ

たと思う。

いつまでも相手が悪くて、自分は悪くないという主張を続けるぼくを父はその話題を逆手にとり、グーの

音もでないほど、言い負かせた。

意図的に父はそうしたらしく、ぼくが行き場を失って絶句していると「お前の議論の仕方はおかしい。

お前はいま逃げ場がなくなって悔しい思いをしているはずだ。相手を倒すのが議論ではない。どういう

間違った意見でも意見である以上は相手の気持ちを汲み取り、相手に逃げ場をつくってやらないと結局

まとまるものもまとまらなくなる。相手を許すという心のゆとりが議論には必要なのだ」と言った。

その深い意味は成長して、人を束ねたり、政治的な議論に身をさらすようになるまでわからなかったけれ

ど、何かで人といさかってしまったとき、いまでもその言葉を思い出す。父が指摘した自分の欠点がいさ

いの原因になっていることが多いのだ。また、自分の立場だけに固執した議論の不毛さも年齢を重ねると

共に実感していった。

その次に関心したのは、中学入学のときに引越した福岡県の大野城市の警察アパートに住んでいたときの

ことだ。

狭い2Kの官舎のアパートでは、テレビの置いてある居間と両親の寝室が兼用だった。まだ宵の口という

のに、当時人気海外ドラマだった「宇宙家族ロビンソン」を家族が笑いころげながら見ている脇で、父は

うるさいとも言わずに寝ていた。早い時間から寝ていたのは、警部試験の勉強のためだった。家族が寝静

まった頃に起き上がり、朝まで簡易机の前で試験勉強をし、朝はいつものように出勤していた。高校受験

の頃、ある朝、徹夜明けで父の机に向かう姿を見たとき、40を過ぎても机に向かう父の生き方は自分に

は到底まねのできないことだと脱帽した。

その次は、ぼくが大学進学のために福岡を離れる前、祖父がなくなったときだった。

警視庁をはじめ、県警本部などから父宛のたくさんの花輪が送られてきた。弔電もずいぶん届いていたと

思う。ぼくはそのとき、ふと、将来父がなくなったとき、これだけの人たちから花輪や弔電がもらえるよ

うな社会的な地位を得られるだろうかと自問した。言い訳がましいが、あのとき、ぼくは縦社会の構造の

中で父と競うのはやめようと思った。自分には父のような芸当はできないとさっさと勝負を投げたのだ。

最後のひとつは、大学卒業が近くなり、ぼくがこれから先どうするかで悩んでいたときだ。

研修か何かで上京した父は、一日だけ阿佐ヶ谷の4畳半のぼくのアパートに泊まっていった。息子の進路

がそれなりに気がかりだったのだと思う。母からは必ず就職するよう言い聞かせるよう頼まれていたらし

い。父のそのつもりでいたらしい。しかし、父の言葉は違っていた。

ぼくは大企業のような権力や権威にはこびたくないと青臭いことを言った。そして、「岩波書店のような

ところだったらいいと思うが、採用がない」というようなことを話した。すると父は「お前は講談社や集

英社と反権力の岩波は違うというが、岩波だってお前の嫌う権威のひとつなんだぞ」と父はさらりと言っ

た。そして、ほんとうに社会の歯車として生きていきたくないなら、昔から成りたいといっていた劇作や

文筆の道へ進むしかないだろう。しかし、貧しさが付きまとうのは覚悟しなくてはなと付け加えた。


父親というのは理不尽な存在でなくてはならないのかもしれない。表向き語る言葉と何かことあるときに

語る言葉に脈絡や一貫性がなくてはならないと考えている親がいまは多い気がする。それを無理やり辻褄

合わせしようとするところに無理があり、弱さが露呈する。それよりか、理不尽さで反発されたり、文句

を言われてたりしても、ここではこうだろうと言い切る辻褄の合わなさが父の父たるゆえんなのかもしれ

ないのだ。ぼくたち世代は幸いに、そうした理不尽さを受け止められるだけの背景が常に生活の中にあっ

た。ヒューズ交換の演劇性が常に生活の中にあったのだ。