秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

包帯のようなウソ2

いま思えば、確かによく食べる家だった。

贅沢な食事はできなかったが、何かの折にはお腹いっぱい食べる家だった。それに母はいまでもそうだ

が、フルーツショップのようなところでプリンやケーキなど、いまで言うスイーツを食べるのが大好き

だった。父は祖父の放蕩で若い頃から貧乏して育ったが、母が貧乏というものを知ったのは父と結婚して

しばらくしてからのことだ。警察官の貧しい生活の中でも気ままなお嬢さん気分がどこかで抜けていない

ところがあったのだろう。家族連れ立って散策した最後は、決まって母が言い出して、そういう店に入

る。デザートが済むとその日は滅多に乗れないタクシーに乗って六本松の官舎まで帰るのだ。

帰り際に父と母はバナナの叩き売りを覗いて、一旦は買いそうになりわくわくするのだが、ほとんど冷や

かしで終わってしまった。一度でいいから、バナナをお腹いっぱい食べてみたい。小学生の頃、ぼくはい

つも叩き売りの縁台に乗ったバナナを大人たちの隙間から見つめながらそう思っていた。当時、バナナは

いまでは考えられないほどの高級果実だった。

西鉄福岡駅のある岩田屋のビルの角辺りで叩き売りをやっていた。そして、その辺りや天神と中州を結ぶ

橋の袂にはよく白装束で兵隊の帽子をかぶった数人のグループがいて、アコーディオンを弾き、道行く人

から投げ銭をもらっていた。家族の楽しい風景の片隅にいつもその光景があったのを覚えている。

「あの人たち、なんしようと?」

その質問に、母は「傷痍軍人たい」と答えた。

「ショウイグンジン?」

「戦争で体が不自由になった人のこと。仕事ができんけん、あげんしてお金をもらいよんじゃあと」

すでに敗戦から20年になるというあの頃、「傷痍軍人」というものがまだ成立していたのだ。確かによく

見ると両足や片足を失い、松葉杖をつき、失った患部を真っ白な包帯で包み込んでいた。服も病院服のよ

うな白い浴衣のようなもので、帽子以外は白装束だった。

母に言わせれば、そうした人の中にはほんとうに戦争で傷ついた人ばかりでなく、それを生業として生活

しているプロがいるということだった。いま思えば、確かにそういうふうにしか生きられないにしては異

様に清潔な包帯をしている集団があったように思う。しかし、真実はともあれ、人々がまだ傷痍軍人とい

うものに異様さや奇妙さを感じることのない時代だった。戦後は終わってはいなかったのだ。

ぼくらが子どもの頃は、戦争というものがいまより遥かに身近にあったような気がする。小学館の漫画や

短編の読み物にはギャグコミックの赤塚不二夫を除いては戦争中の悲劇を描いたものが多かったし、テレ

ビドラマでも特攻隊を描いた「同期の桜」や満州事変前後の中国東北部を描いた檀一雄の「夕日と拳

銃」、五味康平の満州国の建設と崩壊、シベリア抑留を描いた「戦争と人間」といった太平洋戦争前後を

題材にしたテレビドラマが高い視聴率をとっていた。ぼくらが遊び場にしていた、護国神社の境内には防

空壕のあとが残っていた。

福岡市とその近郊だけでも板付空港(現福岡空港)を始め、春日原、粕屋なぢには駐留米軍の基地やハウ

スがあって、そこだけは沖縄のように地位協定で日本の警察も踏み込めなかった。