秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

父のポケット

ぼくが中学生になる頃まで、父は秋から冬にかけ、毎年、同じよれよれのレインコートを着ていた。

海外テレビドラマでヒットした「刑事コロンボ」が着ていたようなコートだ。母の話によるとどうやら、

捜査1課にいた頃からその格好をしていたらしい。

余談だが、警察署に刑事部はあっても刑事課というのはない。刑事ドラマに出てくる刑事たちのほとんど

は捜査1課の捜査員たちのことである。つまり、殺人や窃盗といった凶悪犯を追う仕事である。

尾行もその大きな仕事だが、身長の高い父がハンチングに、そのよれよれのコートでは一見してそれとわ

かってしまう。なのに、当時のテレビドラマ「7人の刑事」や「新聞記者」などに登場する刑事たちと同

じように刑事というとよれよれのレインコートを着ていたのはなぜなのだろう?

当時、父は缶に入ったピースを吸っていて、そのコートには父の汗とタバコのにおいが染み付いていたの

に、子ども心にはそれが父を感じる、安心感を与えるにおいだった。

なんの事情だったのか、記憶にないのだが、夜、母と姉が出掛けて、遅く帰ってくるというので、ぼくは

父の仕事が終わる頃に、そのとき父が所属していた福岡県警本部鑑識課のオフィスに連れていかれ、夜は

父と二人だけで過ごすことになった。

鑑識課でしばらく待たされ、鑑識課の寺さんと呼ばれていたおじさんがしばらく相手をしてれた。父が戻

ったときはもう7時を過ぎた頃ではなかったろうか。父は、ぼくの手を引いて外に出ると「お腹が空いた

ろう? なにが食いたい?」と尋ねた。「なんでもいい」というぼくに、「今日は好きなもん、食べたら

いい」と言い出し、結局、普段はなかなか食べられないハンバーグを食べることになった。本当は、テレ

ビアニメの「ポパイ」に出てくるハンバーガーと言ったつもりだったのだが、当時、ハンバーガーショッ

プは、まだどこにもなかった。それでハンバーグが食べれるところに行こうということになったのだ。

連れられていった場所は、子ども心にもレストランとは大違いの場所で、それは雑居ビルの中にあり、外

から中は見えない、いわゆるバーのようなところだった。

店に入るときれいなおばさんやお姉さんがいた。

「あら、島田さんのお坊ちゃんなの!?」と女たちは明るい笑顔でぼくに興味を示し、まだ、誰も居ない店

のカウンターに座らせた。あれこれ、年のことや学校のことを訊かれたと思う。ぼくは連れて来られた店

の大人な感じにやられて、しどろもどろだった。

父は店の女たちと軽口を叩き、自分は何も食べようとはしなかった。ぼくはハンバーグを口に運びながら

そんな父の様子を見ていた。

一滴も酒の飲めない父が、どうしてこんなお酒のビンが並んでる、しかも居酒屋のようなところでなく、

大人な感じの落ち着いた店に来ているか。明らかに、女たちの対応は父を常連として扱い、常連の中でも

特別な存在のようにして対応している。ぼくにはその光景が普段家で見る父の姿を違うことに驚き、不思

議な気分になっていた。

どのくらいその店にいたのだろう。ぼくは大人たちの軽口に飽き、しまいには寝てしまった。いや、実は

寝たふりをしていたのだ。子どもの自分にはどうしてもそこに居場所はなく、かといって、帰りたいとも

言えず、寝たふりをするか、そのまま寝てしまうのが一番だと思った。

やがて、寝ているぼくに店のママが気づき、「ま、かわいい顔して寝てるわね」と父に声をかけた。父

は、それを潮に、ぼくをよれよれのレインコートの背中に背負うと夜の街へ出ていった。コートから父の

あのにおいがした。父は、どうしてああいう店を知っているのだろう。ぼくはそのにおいの中でそのこと

ばかり考え、もしかしたら、今夜の話は母や姉にしてはいけないのではないだろうかと不安になってい

た。家に帰ると、結局、父はその店のことやそこでハンバーグをぼくが食べたことなどを話、ぼくの心配

は杞憂になった。しかし、ネオン街を歩く父の背中には、それまで知らない不思議な世界があった。

そのように、父のコートには不思議なことがいっぱいつまっていた。

当時、巡査部長で帰宅時間が極端に遅くなることの少なかった父は、ぼくが低学年の頃までは毎日のよう

にお土産を買ってきてくれた。チューインガムやキャラメルといった、たわいないものなのだが、ぼくも

姉をそれを楽しみにしていて、父が帰る度に、「お土産は?」と尋ねたものだ。時には、何もないときも

あったが、「お土産は?」と尋ねることが父への愛情表現のようになっていた時期がある。

クリスマスには必ず、不二家のサンタクロースの足にお菓子のつまったのがお土産だった。その土産も、

刑事コロンボのポケットから出てきた。父のコートのポケットにはいつも子どもを意識していたのか、

何かが入っていた。

確か、休日の朝のことだったと思う。

その日は仕事で県警に出なければならず、父は朝食をすませると例のコートを母に羽織らせてもらいなが

ら、ポケットの中をごそごそと確かめている。また何かくれるのかと見ていると、1枚の宝くじを取り出

し、母に苦笑いしながら、「宝くじば買うたばい」と言った。母はそれを見ると「当たったらよかけど

ね」と同じように苦笑いした。苦笑いの向こうには当たる分けないけどねという言葉にならない声があっ

た。しかし、その二人の苦笑いには幸せの色があった。

子どもにとっても、苦労を重ねている妻にとっても、父のポケットはそんな幸せの色を運んでくれる温か

なものだった。貧しくとも、切り詰めた生活の中でも、父のよれよれのコートのポケットにはそんな力が

あった。

ぼくらは、父になって、そんなポケットを持っているだろうか…。