秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

コロッケの唄

ぼくの記憶は多分に父が撮った子どもの頃の写真に負うところが多い。そのせいか、小さいときのことを思い浮かべるとそこに浮ぶのは暑い夏の光景ばかりなのだ。

説明するまでもないと思うが、当時はいまのように露出のいいカメラも、感度のいいフィルムも出回っていなかった。写真を撮るときは、したがって、天気のよい日の、しかも屋外に限られていた。父のアルバムに外で撮った写真が多いのはそのせいだ。

余談だが、ぼくは同世代の中でもかなり幼い頃のことまでよく記憶している。しかも、それは映像アルバムのように画像として記憶しているのだ。映像の仕事をするようになったとき、初めて気づいたのだ

が、ぼくは、何かを記憶するとき、言葉や出来事の詳細ではなく、そのときそのときの出来事を映像場面としてファイリングしているらしい。映像の監督や舞台演出をするとき、ぼくは収録した映像や舞台空間での俳優の立ち居地まで、ほとんどすべてをその仕事が終わるまで記憶することができる。おかげで、ぼくは編集作業などがバカ早い。どこにどの映像があるかをシートなしで見つけ出すことができる。

しかし、この記憶のよさは、いやな出来事や辛い思い出をすぐに画像として思い出せるということでもあり、ぼくは失恋の後など、すごく立ち直りに時間がかかるという不運も持ち合わせてしまった。

話を大牟田の夏に戻そう。大牟田の夏はいつもアイスボンボンで始まる。アイスが棒状ではなく、くびれが二つほどある曲線の形状をしたものだ。両端に乳首のような突起があり、それをやじり、乳首を吸うようにその空いたところからアイスを吸うのである。いま思えば、かなりエロい夏の風物詩だった。

ぼくは、したがって、当然ながら、そのアイスボンボンの大ファンだった。吸ううちに、側を包んだゴムの味がして、決していい味ではなかったが、これぞ夏の味覚といえるものだった。

ジリジリと照りつける太陽の光が乾いた地面からゆらゆらと陽炎を立ち上がらせ、蝉時雨が鳴り渡る午後だ。警察官舎の前に広がるトウモロコシ畑の向こうから時折吹く風に乗って、カランカランと鐘の音が聞こえてくる。畑の向こうの通りから、官舎に向かって好物のアイスボンボンを積んだ、アイスキャンディー売りの黒い自転車がやってくる。

食料事情が悪かったせいもあるだろう。家計を支えるためでもあった。あの頃は、ちょっとでも休んでいる畑があれば、農業に関わりのない人でもそこに種を撒き、トウモロコシやじゃがいも、さつまいもなどを収穫していた。警察官舎の前は、一面の畑で、ぼくら子どもは、まだよく成熟していないトウモロコシの皮をむいて台無しにしてしまたっり、じゃがいもを掘り返してしかられたりしながら遊んでいた。

 

父も休みの日にはよく畑仕事をしていた。夏の昼下がり、父が振り下ろした鍬で誤って足の親指を爪をはがしたときの滴り落ちる鮮血の色をいまでもはっきり覚えている。

なぜだろう。そのときぼくは、父の滴る血にじっとみとれてしまった。「ああ。これがお父さんの血なんだ」。ぼくは自分の中にある血の色をみて、感動していたのかもしれない。父の血の色を見たのは、たぶん、それが最初だったからだろう。

物売りのおじさんやおばさんは、その畑の畦道から花道を渡る能役者のように忽然と登場した。自転車の荷台に立てた旗には、キャンディと書かず、ちゃんと昭和らしく、キャンデーと書いてあった。

当時、皇太子と美智子さまのご成婚セレモニーを見ようとテレビを持つ家はポツポツあったが、冷蔵庫のある家は皆無だった。あったのは、四角い氷の塊を入れて冷やす冷凍庫だった。いまの冷蔵庫の冷凍室ほどのところに氷を入れ、その冷気で食べ物を保管したり、飲料水を冷やしたりする。家庭用氷室である。

なにしろ、警察官舎の台所の光熱器具は、かまどだったのだ。「始めチョロチョロ、中パッパ」というご飯を薪で炊くときの火の加減を表す言葉をぼくはその頃知った。それは後に、キャンプで飯盒炊飯するときのぼくの智慧袋になった。その後、福岡市内の官舎に入るとポンプで圧力をかけて火をつける石油コンロになり、それから数年してプロパンガスを使ったガスコンロになった。

それでも七輪は食事の用意やコタツの火種をつくるのに欠かせなかった。どの家にもコンロは一つしかなく、焼き物と煮物を同時につくるには七輪は一家に一台の必需品だったのだ。

そんな具合だから、昭和34年頃、冷たいものはもちろん、かまどで火を起す手間がかかったから、3度のご飯以外のものはなかなか口にすることができなかった。アイスボンボンは貴重な夏のおやつだったのだ。

即席食品の草分け、日清のチキンラーメンが兵庫の小さな工場でつくられ、世に出るまでにはまだ数年の歳月が必要だった。いまのレトルト食品など夢のまた夢だったのだ。だから、ぼくたち子どもは、冷たいものや甘いものに飢えていた。キャンデー売りやパン屋のおじさんは、紙芝居のおじさんと同じくらい歓迎し、大事にした。

アイスキャンデーのおじさんが現れるとなぜか子どもたち全員が「わーい」と声を上げ、その後を追った。なぜ、わーいだったのか、いまでもわからない。

アイスキャンデー売りのおじさんと前後してパン屋のおじさんが登場する。パンの入った長方形の木箱を5段以上重ね、よろけるふうもなく、畦道を渡ってきた。自転車のストッパーを下ろした荷台を見上げると高層ビルのように木箱がいい匂いをさせながらそそり立っていた。そして、その向こうには雲ひとつない青空が広がっていた。

夕方になると惣菜売りのおばさんがリヤカーを引いてやってきた。そこでの好物はコロッケだった。パンにしろ、コロッケにしろ、手作りという感じだった。具がいっぱいで採算がとれるのかしらというくらい充実していて、どれもおいしかった。いま少し贅沢ができる大人になっても、あの頃食べたアンパンやコロッケのおいしさに出会うことはほとんどない。

コロッケやアンパンの味に人の手の温もりやおいしさが失われ、機械生産の味に変わっていくにしたがい、人々の生活も、ぼくら一家の生活も豊かになっていったような気がする。その代わり、井戸で冷やした完熟トマトの瑞々しさも、スイカの甘さも、野菜や果物のおいしさもその豊かさと引き換えに失っていったような気がするのだ。

高いお金を出さないといまは、あの頃、もぎとればすぐに食べられた野菜や果物と出会うことはできなくなっている。天の川や蛍、夕暮れに群れをなして飛ぶ赤とんぼの大群、鬼やんま、蛇やトカゲ、こうもり…。見上げれば、いつも空にいた雁の群れやひばり、トビ、ワシなどいまでは身近ではなくった自然をも失ってしまった。

そのことによい悪いの判断をする気はない。意識したしないにかかわらず、そういうものを失ってでも豊かさを手に入れようとした父たち世代の生き方をだれも否定できないような気がする。それはきっと、戦争によって、本当の貧しさと不自由さといのちの儚さを知った世代がぼくら次の世代のために選択するしかなかった道のような気がする。ただ、そのために、次第に大人たちから互いへのいたわりやそこはかとないやさしさが失われていったのも事実のような気がする。

ぼくは決して歌謡曲ファンでも懐メロファンでもないが、当時、ラジオから流れる歌には、どの歌にも大人たちの持つそこはかとないやさしさやわびしさのようなものが漂っていたような気がする。

「なんや、またコロッケや」父は家に帰ると苦笑いしながらよくそう言った。そして、母はまるでごまかすようにひょうきんに『コロッケの唄』を歌った。祖父の使い古しをもらったという真空管式のラジオからは「まぼろし探偵」や「赤胴鈴之助」のドラマが放送され、一家は息子のためにチャンネルを奪われたラジオを聴きながら、卓袱台の上のコロッケを食べた。

 今日もコロッケ 明日もコロッケ
 これじゃ年がら年中 コロッケ コロッケ

食料不足の戦時中に作られたというその唄は、しかし、当時のぼくにとって、今日も幸せ、明日も幸せ これじゃ、年がら年中、幸せ、幸せという唄に聞こえた。きっととぼくは思う。大人たちは戦争の中ではなく、生活は貧しくとも平和の中でその唄を聴き、そして歌うことに幸せを感じていたのではないだろうか。少なくとも、4歳のぼくにとって、それはわびしい唄にはちっとも聞こえなかった。父と母の愛に包まれ、テーブルの上のコロッケにはいつも具がいっぱい詰まっていたのだ。