秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

くるみ割り人形2

ぼくと同じでちょっと意固地なところのあるヒロシちゃんは大濠公園へ行くと、いつも一人で釣りをして

いた。ヒロミちゃんは人懐っこい性格だったが、1年おきに転勤を繰り返していてはいくら明るい性格で

も心の許せる友だちは少なかったろうと思う。祭日や休日にどこかに遊びに出掛けようにも1年そこらで

は地元の地理にも不案内だったろうし、時間を一緒に過ごしてくれる仲間や友人もいなかったに違いな

い。また、東京からの転勤一家は当時、まだ珍しかったし、会社が容易した一戸建ての立派な家では近所

の人と顔なじみになるのを返って妨げる結果になったと思う。土地や人に馴染みたくでも容易ではなかっ

たに違いない。

坂本さんちはそうした中で、家族みんなで気楽に楽しめる団欒をとても大切に考えていたのではないだろ

うか。ゲームやおもちゃは贅沢かもしれないが、そうしたものを媒介にしながら、それ以上に未知の土地

で家族が寄り添い合うことを大事に考えていたのではないだろうか。その姿が東京とか豊かさの違いとか

を越えて、ぼくら一家と坂本さんちを深く結びつけた大きな要因だと思う。ぼくら一家が父を中心に一番

大事にしていたものと坂本さんちのそれはとても似通っていたのだ。


坂本さんちと一緒に迎えた正月は一度だけだった。

晴れ着を着たヒロミちゃんはとてもきれいだった。ヒロミちゃんへの遠慮や気後れはその頃、もうぼくの

中で薄らいでいたけれど、ヒロミちゃんを美しいと思う気持ちは変わらなかった。

いつもぼくらが遊ぶ坂本さんちの2階の子ども部屋で、食事の後、お母さんも仲間に入って百人一首をし

た。読めない文字や和歌の意味をお母さんに教えてもらいながら、子どもたちは目を皿のようにしてカル

タ取りに夢中になった。「けり」「かな」「や」というわけのわからない言葉のおかしさに子どもたちは

幾度も爆笑し、楽しい時間は瞬く間に過ぎていった。それはいわば、ささやかな家族の過ごし方だ。いま

ではもっといろいろな家族の愉しみ方、遊び方がある。しかし、ぼくにとっては、そのささやかな時間は

みんなでどこかに連れ立って出掛けたり、高いおもちゃを手に入れるより、はるかにステキな時の過ごし

方だった気がしている。


坂本さんちが福岡を離れる日、ぼくらも引越しの手伝いに出掛けた。トラックに荷物を積み込んだ後の

坂本さんの家はあの賑やかな団欒と笑い声に溢れた同じ家とは思えないほど寒々としていた。トラックの

影でぼくとヒロシちゃんは静かに別れを告げた。「もらった戦車のプラモデル大事にするけん」ぼくのそ

の言葉にヒロシくんは軽く頷いただけだった。ヒロシちゃんに教えてもらったプラモデルの趣味はそれか

らもぼくの寂しさを紛らす大切な遺産となった。

姉もぼくも大人になったいま、正月を共に過ごすことはなくなった。しかし、坂本さんが越していってか

らも正月やクリスマスになると決まって坂本さんちと過ごした時間が話題になっていた。そして、たまに

正月や家族のイベントにぼくら家族が顔を合わせるとふと話題になりのは、いまでも坂本さんちのこと

だ。短かったけれど、一緒に過ごしたキラキラした時間のことだ。

ぼくはいま思う。

それら家族のイベントはぼくらが手に入れたくても、どこかであきらめていた夢の世界だったのだ。坂本

さんちはその幻想の玉手箱をぼくの家にそっと置きにきてくれた「くるみ割り人形」だったのかもしれな

い。