秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

オルガン

その日、父は「今日、テレビを買ってくる」と少し誇らしげに出掛けていった。

そして、ぼくら家族は父の帰るのを首を長くして待ち続けた。確か、その時刻になると家族3人、玄関の

上がりのところに並んで座って待っていた記憶がある。

テレビを買うということは、当時、それほどの家族の大イベントだったのだ。

父が玄関を開けたとき「テレビ、買ってきた!?」と3人がいっせいに叫んだ。

しかし、父は買ってこなかった。

買ってきたのは、なんとオルガンだったのだ。

母もぼくもずいぶん長いことブツクサ言ったと思う。ミーハーな母は近所にふれまわっていたらしく、ほ

とんど怒っていたと言っていい。

姉はその頃、ピアノを欲しがっていた。高価なピアノなど買えるはずはないのはわかっている。だから、

近所のピアノのある家に行って、弾かせてもらっていた。家ではピアノの鍵盤を書いた紙で運指の練習

をしていた。父はそれを見ていたのだと思う。そして、もっと若い頃の自分の夢もいっしょに思い出した

のだ。



父が譜面が読めること。ピアノやオルガンが弾けることをぼくはわが家にオルガンが入って初めて知っ

た。そして、父が警察官になった動機が「警察音楽隊」に入りたかったからだということもそのとき知っ

た。

戦争直後で就職難だった。たまたま道を歩いていて警察官募集の広告を見て応募した。正義を守るとか市

民のためにとかいう意識はまったくなかった。公務員なら食いっぱぐれがないだろう。それに警察官は制

服だから衣裳代もかからない。父はぼくが浪人生活の末、大学受験に失敗してこれからの指針を見出せず

意気消沈していたとき、なぜか自分の就職の動機を淡々と話して聞かせた。

しかし、母の話によれば、若い頃音楽をやりたいと思っていたのは本当らしかった。確かに、普段はお笑

い番組が好きな父が時折テレビのチャンネルをNHKの「N響アワー」に合わせ、あれこれぼくら家族に

音楽の解説をすることがあった。海外から凱旋帰国してN響の指揮をした小沢征爾をすごい指揮者だと絶

賛した父の言葉をいまでも覚えている。N響からボイコットされたニュースが流れたときも父は世界に通

用する音楽家の才能がわかっていないと嘆いた。

警察音楽隊」に入るのにどういう規定があるのか知らない。だが、たぶん、父はその規定を学歴や音楽

経験のキャリアでクリアできなかったのではないかと思う。父たち世代にとって音楽をやるということ

は、しかもクラッシックをやるということはいま以上の高価な世界だった。

警察機構というところは東大を頂点とした学歴、学閥社会だ。ノンキャリアにとって昇進は検挙率ではな

く、昇級試験に合格しなければ道はない。それも退職警察官の平均寿命が65歳という激務の中でだ。そし

て、県警の係長以上のポストにはどうあがいてもノンキャリアは就くことはできない。

父は高校も満足に出ていないことで、想像を絶する苦労をしたのだと思う。実力主義の世界にいればそれ

を感じることもなかっただろうが、父のいた世界は絶えずそれを意識させられるところだったのだ。

まして、凋落した武家の貧乏な家庭に育った父が音楽教育を受けることなど不可能なことだった。その父

がどこで音楽を学んだのか。それはいまも謎のままだ。

父のアルバムに警察官になってすぐの頃の写真がある。オルガンの前で同僚の若い警察官と撮ったもの

だ。父と音楽の繋がりを知らせるものはその写真しか残っていない。

祖父の家にいくとアコーディオンがあったのをかすかに記憶している。道楽者だった祖父は長唄も三味線

も尺八もやった。音楽はもしかしたら祖父ゆずりのものだったのかもしれない。

ぼくは小学生の頃からクラッシックばかりを聴いていた。その後、中学からモダンフォークをやるように

なり、やがてボサノバやジャズに嵌り、自分でアコーステックをぶら下げ、あちこちのコンサートに出演

するようになっていった。それもどこかで祖父や父からゆずられたものかもしれない。



父はオルガンが入ると指の使い方を姉に教えたり、自分でもバイエルを弾いて見せたりした。土曜日に早

く帰った日や休みの日には何かを思い出したようにオルガンにひとり向かっていた。父の18番はベートー

ヴェンでもバッハでもなかった。バッハは時折弾いたが、普段は警察官にふさわしく「若いおまわり

さん」という歌謡曲だった。

もしもし ベンチでささやく お二人さん
近頃 ここらは ぶっそうだ
話の続きは 明日にして
早く お帰り お二人さん

確かそんな歌詞だった。

父はそれをオルガンの演奏に合わせて唄っていた。そして、その姿にはどこか家族もよせつけない父だけ

の世界があったような気がする。

たぶん、父は警察官という学歴社会の中で、あるいは幼い頃からの貧乏の中で多くの夢と希望を置き去り

にしなければならなかったのだと思う。音楽という未知なる自分の可能性への挑戦すら学歴という厚い壁

の前で諦めなくてはなかった。そして、ささやかな贅沢としてテレビを買える身分になったとき、奪われ

た若い日の夢をオルガンを買うという行為の中で手に入れたかったのだと思う。

若い父が仕事の後、夜の明かりに浮ぶ、天神の電気店を歩き、中洲の商店街を歩き、そこに楽器店をみつ

け、そのショーウィンドウにあるオルガンをみつけたときの表情がぼくには浮ぶ。ただ無言のままオルガ

ンをみつめている父の無表情な顔に、失った青春の夢が見える。


高校3年で父に2度目に殴られたとき、激怒した後で父は泣いていた。

ぼくが非人間的だと非難したことが動機だったが、息子の前で泣いている父はぼくは久しぶりに見た。

それは北九州の門司から転勤して福岡に戻るとき以来のことだった。しかし、そのときの涙は以前とは別

のものだった。

父はその頃、県警本部の捜査2課でノンキャリアとしては重要なポストに就いていた。検察庁や高等裁判

所などへの出入りもしていたらしい。そして、父の前に現れるのは東大法学部を出て数年の息子といって

もいい年齢の管理職だ。若いながら父より立場は当然上になる。県警本部でも対面する上司はそういう学

歴と立場の人間ばかりだ。そういう中でノンキャリアの父はノンキャリアと後ろ指を差されないために相

当神経をすり減らして仕事をしてたのだと思う。

また、高校も出ていないのに、県警本部捜査2課という花形の部署でそれなりのポストを与えられている

ことへの地方大学卒組の所轄署長たちのやっかみや嫌がらせもあったらしい。

ぼくの非人間的という言葉は、そうした中でなんとか職務を貫徹しようとしている父の忍耐をさかなです

る言葉だったのだ。父はその頃、十二指腸潰瘍で手術が必要といわれながら、仕事を休もうとはしなかっ

た。きっと、人間としての、男としての意地で学歴社会に負けたくなかったのだと思う。


それだけ学歴で苦労した父なのに、息子に進学先や就職のことであれこれ言うことはなかった。どうして

も大学へ行けとは言わなかった。

「蛙の子は蛙やけん」

父は小学校の父兄参観などで、ぼくが間違った答えをするのを見て、笑いながらそう言った。その笑い顔

はどこか寂しげだったが、親が満足な学歴がないのだから、それも仕方ないという諦めた雰囲気があ

った。

ぼくが東京の大学に合格したとき、父は受験用の大学案内を見ながら泣いていた。しかし、それは就職

や出世のための安心できるパスポートを息子が手に入れたことの喜びではなかったと思う。著名な作家

文人を多く輩出していた大学の文学部だったからのような気がする。

父は息子の将来に自分に果たせなかったオルガンの夢を見たいと、本当は思っていたのかもしれない。