秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

上を向いて歩こう

 幼稚園のときに転居した福岡市六本松の官舎にぼくら一家は5年近く住んでいた。黒田藩の居城、舞鶴

城の内堀の跡、大濠公園のすぐそばだった。いまは昔あった、自動車試験場跡がなくなり、そこに福岡大

学大濠高校の校舎が建っている。そこに隣接した場所に、木造平屋二軒長屋の警察官舎があった。

 ぼくら一家がいた頃は安保闘争で岸内閣が倒れ、池田内閣が所得倍増計画をぶち上げ、高度成長へと日

本経済が走り出した時期だった。それまで高嶺の花だったテレビ、冷蔵庫といった家電製品が次第に家庭

に入り、大人たちが自分たちにもテレビで見るアメリカのホームドラマにあるような豊かな生活ができる

のではないかという予感を抱き始めたときだと思う。

 郊外の農場一家を舞台にした『名犬ラッシー』の朝食シーンに出てくる大きな冷蔵庫や掃除機が人々の

憧れであり、食卓に並ぶ、大瓶の牛乳やベーコンエッグ、ボールに山盛りになったマッシュポテトが子ど

もたちの食欲の憧れだった。

 経済成長をひた走る中国が内陸部の貧しい農家の労働力を上海や北京に集中するように、当時、日本で

は東北、北陸、九州の田舎から集団就職の列車が編成され、中学を出たばかりの少年や少女が経済成長を

底辺で支える貴重な労働力として駆り出されていた。

 マスコミは彼らを「金の卵」と呼び、ひとりでも多くの工場労働の人材を確保しようと地方の山村では

企業の「青田刈り」が行われていた。いわゆる重厚長大産業の進展で、日本は農業や水産業、自営業中心

の産業構造から重化学工業中心のそれへと移り始めていたのだ。福岡市に近い北九州市八幡製鉄所(の

ちの新日鉄八幡)はそれを象徴するように黒煙をもうもうと上げていた。

 東洋一と謳われた若戸大橋関門トンネルが開通したものあの頃だったと思う。社会資本の整備が急速

に進んでいった。おそらく、働くという目的であれだけ大量の若年労働力が田舎から都会へ流れたのは日

本の歴史始まって以来のことだったのではないだろうか。そして、あのときから、過疎や高齢化の問題、

農業の破綻や公害、環境破壊といった今日に続く多くの社会問題が生まれたように思う。

 そして、それまで、貧しさゆえに互いに寄り添い合うことで成り立たせようとしていた人々の生活にも

変化の兆しが見え始めた。

 幼い頃、女の子におしっこをかけたり、畑からじゃがいもを獲ったりていた、いたずらっ子はその頃、

信じられないほど内気な子に変わっていた。

 ぼくは幼稚園の頃から勉強のできない子だった。小学校に入ってからも学校から帰って教科書を開いた

記憶がない。ランドセルを投げ出すといつも一目散に自動車試験場跡の原っぱに駆け出していた。

 他のポジションではエラーが多かったせいか、野球はいつもピッチャーだった。けれど、チームの中心

にいられるポジションだったからぼくはそれで結構満足していたし、学校の休み時間にみんなで遊ぶ「月

光仮面」ごっこでもいつも主役だった。

 内気な子どもに変わる以前、ぼくは遊びでは親分肌で、友だちを仕切っていたのだと思う。当時、ヒッ

トしていた植木等のサラリーマン映画に出てくる宴会課長のようなものだった。相変わらず、女の子も好

きだったから、休み時間、クラスの女の子に、高視聴率をとっていたバラエティ番組の「シャボン玉ホリ

デー」で仕入れたクレージーキャッツのネタを見せて笑わせ、それを楽しんでいた。ぼくの芸は結構受け

ていたと思う。だから、仲間から尊敬されているとは思わなかったが、愛されてはいるだろうと思ってい

たのだ。

 ある日、先生が反省というテーマで話を始めた。道徳の時間だった。自分のいけない所を反省して、み

んなの前でごめんなさいしようというものだった。ひとりひとり席を立って、自分のいけない所を告白し

ていく。「お母さんの手伝いをしませんでした」とか、「お掃除をまじめにやりませんでした」とか、

「だれだれちゃんをいじめました」とか告白し、本人の気づいてないところは、みんなで指摘してあげよ

うという流れで、ぼくのところに回ってきた。

 何を言ったか覚えていない。

 その後のショックの方が大きかったからだ。

 告白を終えた後でだれかが「それだけじゃない。島田くんにはもっといけないところがります」と手を

上げた。すると、教室のあちこちから「そうだ、そうだ」と同調する声が一斉に沸きあがった。みんなの

島田くんを糾弾する声は延々続いたような記憶がある。その時間の終わりのチャイムが鳴るまで、ぼくは

ずっと立ち尽くしたまま、予想だにしなかった非難を浴び続けていた。

 不意打ちを喰らった衝撃と怒り、反論したいけど、感情が高ぶり言葉にならないもどかしさ。裏切りと

いっていいかどうかわからないが、寝首をかかれることの歯がゆさをぼくは小学校2年生で味わされるこ

とになったのだ。

 糾弾の趣旨は、ぼくがどんなときでも主役をやるのはまちがっており、それへの反省がないというもの

だった。しかし、それは反省を促すというようなものでなく、積年の恨みを晴らすといったもので、言葉

による集団リンチだったと思う。ぼくは溢れそうな涙を必死にこらえ、じっと立ち続けていた。泣かない

ことが勝てないまでも、戦い抜くことのような気がしていたからだ。授業が終わった後、結局、ぼくは

泣いてしまったのだが、涙を見せまいと下敷きて目の下を押さえていた。下敷きに流れる涙の風景をいま

でも覚えている。

 数日後、担任の教師が家庭訪問にきた。

 どういう話を母と教師がしたのか知らない。しかし、行き着いた結論は、「いけないところは直しまし

ょうね」ということだった。ぼくはそれに反論する気持ちはなかったが、いけないところを直す気持ちに

なれなかった。何よりも、そのいけないところがわからなかったのだ。

 結局、ぼくは友だちの輪から離れることでそれを乗り切ろうとした。学校から戻ってもランドセルを

放り投げて外へ飛び出すことはなくなった。野球のピッチャーは降板した。

 小学校2年から3年、4年と進級する中で、ぼくはごくわずかの友だちとしか交流を持たなかった気が

する。それもかつてのように遊びを仕切るというより、仲間の遊びに合わせるといった調子で。そして、

学校での成績に悪く、遊びでも自己主張できなかったぼくは二重のコンプレックスを持つようになってい

った。他人に対して自分をアピールするものがなくなってしまったのだ。世界からの承認をそのとき、ぼ

くは失っていた。

 あの頃、NHKで、バラエティドラマ番組「若い季節」やバラエティショー「夢で会いましょう」が人

気だった。そこからたくさんの流行歌が生まれていた。その中でも、坂本九の歌う唄は田舎を離れ、帰る

場所もなく、工場や店舗など都会で汗し、涙して働く若い人たちに絶大の人気があった。豊かさを目指し

ながら、現実の生活は依然苦しい大人たちの多くも彼の歌に慰められ、励まされていたように思う。そこ

はかんとなく寄り添うことで生きようとしていた互いへのいたわりが次第に失われ、格差や競争という

新しい土壌に乗せられていることに大人たちはどこかで気づいていたのではないだろうか。

 貧しさと豊かさの差が生む歴然とした生活の違い。大人たちはそれをやるせない思いで認め始めたのだ

と思う。


 上を向いて 歩こう
 涙がこぼれないように
 思い出す 夏の日
 ひとりぼちっの夜
 しあわせは雲の上に
 しあわせは空の上に

 ぼくは小学校の帰り道、ひとり空を見上げながら、それを毎日唄って歩いた。空の向こうには、ほんと

うにしあわせがあるような気がしていたのだと思う。

 日本航空御巣鷹山で飛行機事故があり、坂本九の死を知らせるニュース速報が流れたとき、ぼくは小

学校2年のそのときの出来事を思い出していた。そして、ぼくが少年時代から生きてきた高度成長という

時代が坂本九の死といっしょに、いま終わったのだなという気持ちになっていた。