秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

夜の炭坑節

12年程前、初めて北京を訪れたとき、その夕暮れの風景に奇妙ななつかしさを覚えたことがある。

開放政策がはじまってまだ間もない頃で、都市整備は始まっていたが、まだ古風な街並みがそこには残っていた。

道路も車両はそう多くないのに、やたらと埃っぽい。信号のない交差点。手旗信号で交通整理をする制服の巡査。やたらとクラクションを鳴らす車。走る車はほとんどがトラックかタクシーで乗用車の数も多くはなかった。トラックの中にはボンネット式といって、エンジンルームが大きな鼻先のように突き出ているものも走っていた。

街灯は少なく、夕闇が迫ると道路の脇に並んだ商店から蛍光灯の白い光でなく、電球の黄色い明かりが点灯する。暗がりの合間にポツリと光るその明かりは、ここに人がいるのだという温もりを伝えているようだった。

昭和34年。幼稚園に上がる頃、ぼくはそんな風景の中にいた。

そこは熊本との県境に近い、大牟田という場所だった。福岡の大手私鉄西日本鉄道の終点駅のあるところだ。

どしゃぶりの雨が降っていた。

たぶん、大きな台風が上陸したのだろう。木造平屋建て二軒長屋の警察官舎の家は強風に雨戸を鳴らし、時折、襲う突風に地震のように揺らいだ。

雷鳴が轟き、白熱球の電灯の傘が左右に揺れる。そして、心霊現象のように度々停電が襲った。

いま電柱のことなど、だれも気に留めないだろうが、2階建ての家がほとんどなかった当時、電柱はやたらに目についた。それも丸太でつくられた頼りないものだ。台風が来れば簡単に傾き、突風に送電線はすぐに寸断された。切れた送電線が風を切る音は映画の世界のものではなく、身近な生活の中にあったのだ。

福岡管区気象台から台風情報が流れると父や母が用意したのは、第1に懐中電灯とロウソク、次に缶詰とおむすびだった。それが初夏から秋にかけ、九州北部に住むぼくら一家の歳時記だった。

昼間、どしゃぶりの雨の中、父が自転車で帰ってきた。

台風の上陸に家族を心配して家に立ち寄った様子だった。庇の長い黒のゴム帽子と雨合羽に全身を包んだ父は、縁側から家の中を覗き込むとぼくと姉を確認し、母と二言三言言葉を交わすと自転車から降りもしないで、署に戻っていった。

笑顔とは裏腹にその動きはとても慌しく、忙しそうな雰囲気が漂っていた。

父が最後に「今日は帰れんけん」と母に言った言葉がぼくの耳に残った。そして、その夜は父の言葉通り、家には母と姉、ぼくの3人だけだった。雨戸を閉め切った部屋は停電でロウソクの明かりだけだったような気がする。

雨戸を叩く激しい風とかすかに揺れるロウソクの光の影で、ふと母がだれに言うでもなしにつぶやくようにいった。

「お父さん。殺されんかったらよかけど…」

ぼくは母の胸に抱かれながら、その言葉をはっきり聞いた。暗がりの不安もあって、ちょっと驚いて「どうして?」と聞き返した。すると母は、「組合の人は粗かけんねぇ」と、やはり独り言のように答えたのだ。

クミアイの人? それが一体どういうものなのか。それと父が殺されるかもしれないという母の不安とがどう結びつくのか。もちろん当時のぼくにはわからなかった。

それが日本の労働運動史に残る大争議、三井三池闘争のことだと知ったのは中学生になってからだった。

時代は石炭から石油エネルギーの時代へと大きく変わり始めていた。経営危機に陥った大手炭鉱会社は合理化という名のもとに、炭鉱労働者の大量解雇を行っていた。それが昭和35年、安保闘争のときにピークを迎える三池闘争の発端となった。

父の職業は警察官だ。しかも、当時はまだ巡査部長でデモ隊の規制に最前線で当たらねばならない立場と年齢だった。

後で聞いた話だが、父はそこでも写真の特技を生かし、めぼしい活動家や公務執行妨害など逮捕要件を満たす行為を記録する写真撮影の仕事を受け持っていたらしい。

「それだけにねらわれやすかったとよ」母は後にそう言った。

九州という土地柄とその気性の粗さ。命を張って働く炭鉱の人たち独特の雰囲気を考え合わせると当時の母の心配が杞憂だったとは思わない。

ただ、こういう言い方をすると不謹慎かもしれないが、あれはひとつの喧嘩祭りだったような気がする。

炭鉱と共に自分たちの土地が成り立っていること、それを否定する者はだれもいなかった。いや、否定どころか、それを多くの人が誇りに思っていたと思う。できれば、炭鉱景気を維持し、守りたい。それは炭鉱に直接関わらない庶民の中にも多分にあったと思うのだ。

飯塚の嘉穂劇場や博多の大博劇場に見られたような「炭鉱文化」と言ってよいようなものがそこには存在した。そういう共通の土壌、感覚、文化を生きながら、喧嘩を買うといった情動的なレベルであの闘争は始まったような気がしてならない。

夏になると盆踊りが開かれた。それは警察官舎の主婦たちのって一大イベントだった。

揃いの浴衣を誂え、踊りの振り付けを練習し、官舎の若い主婦たちが全員出場した。懸賞や賞金もかかっていたような気がする。大会の前になると母も面倒くさいとか、だれだれが仕切ってやりづらいとか文句を言いながら、それでも毎日練習に参加していた。

あの頃の住宅はどこも、下町の長屋みたいなもので、事ある毎に近所が寄り合っていた。特に警察官舎には独特の団結があって、日本警察機構の家族主義的なところは、この「官舎文化」から生まれてのではないかと思うくらいだ。署でも自宅でも同僚が顔を合わせ、勤務後も否応なく、家族ぐるみの付き合いをするのだから、好き嫌いはともかく、互いに折り合いをつけ、一致点を見つめるしかなかったからかもしれない。

官舎の通り道でやる正月の餅つきと並んで、夏の盆踊りはそれを象徴するようなイベントでもあったのだ。そして、そこでの曲目は決まって「炭坑節」だった。

月が出た出た 月が出た
三池炭鉱の上に出た
あんあまり煙突が高いので
さそやお月さん 煙たかろう
さのヨイヨイ

闘争を規制する側の女たちが、その節に合わせて櫓太鼓の周りを踊る。いや、女たちだけではない。闘争を規制する男たちも盆踊りの夜に酒を酌み交わし、炭坑節を大声で唸るのだ。

いま考えればそれは不思議な光景と写らなくもない。

生きるか死ぬかの闘争の合間に、闘っている双方が「インター」でも「ワルシャワ労働歌」でもなく、まして「花の第4機動隊」でもなく、炭坑節を土地の歌として愛情を持って共に歌っていたのだ。

あの頃、見上げると夜の空には満天に星があった。天の川をはっきりと見ることができた。ぼくは、何度も歌われ、踊られる炭坑節に飽きると人垣から離れて、とぼとぼ官舎の前の畑沿いの道を歩きながら、ひとり暗がりの中でその空を見上げていた。

暗い畦の方から盆踊りの会場を見ると、どこか別の世界から自分がいままでいた場所をみつめているような不思議な感覚に襲われた。

いまでも炭坑節を聴くと、あの満天に星の輝く大牟田の空を思い出す。そして、貧しかった街の風景や風呂を焚くために、母や姉、近所のおばさんと行ったボタ山の石炭殻拾いを思い出す。

ボタ山に登ることは危険だからと禁止されていたと思うが、炭鉱の人にそれをとやかく言う人はいなかった。ぼくの記憶では、あの頃の大人たちは、みな一様に、できるだけ互いにやさしくあろうとしていたように思う。

だれもが同じように貧しく、同じように戦争の記憶と傷を持ち、だからこそ、そこはかとなく寄り添い、助け合うことで互いを成り立たせようとしていたような気がする。

それができなくなったところに、三井三池の本当の悲劇はあるのだ。