秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ヒューズ

父親に初めて殴られたときのことを覚えていますか?

福岡市内の小学校にいた頃、ぼくの成績はクラスでも最下位だったと思う。

算数の試験で零点をもらったときは、さすがにショックだったが、思案したあげく、家の近くまできたと

ころで、ぼくは笑顔いっぱいにわっと走り出し、家に飛び込むとさもうれしそうに「ねえ! ぼく零点も

らったよ!」と叫んだ。そのはしゃいでいる様子に母はまず絶句し、それからしばらくすると呆れて笑い

出した。

「しめた!」。

ぼくはいまでもそういうところがある。正面から勝負しても勝ち目がないとわかるとバカやお人よしを装

う。あるいは、ごもっともですと相手を立てる。相手の居心地が悪くなくらい。そして、相手が図に乗っ

て隙ができたところを、叩く。

どちらかというと女性的なのかもしれない。若い女の子によくそれをやられてムカッとくる。自分のお株

をとられた気持ちになるのとその手の内が読めるのとで、どうしようもなく腹が立つのだ。いけいないこ

とだ。

父がぼくを殴るきっかけになったのは時計の読み方だった。

とにかく数字に関しては、いまでも尾を引いているが、すごい苦手意識があった。数字を目を合わせるこ

とを避けていたと言ってもいい。だから、算数がダメなのはもちろん、数字と目を合わせていなければな

らない時計の読み方は理屈でなく、イヤだったのだ。

小学館の付録だったか、母が買ってきてくれたドリル帳だったか、宿題帳だったか忘れた。時計の読み方

の練習帳のようなもので、いろいろな時間を示す時計のイラストが書いてあった。母がぼくにそれをやら

せて読み方を覚えさせようとしていたが、ちっとも正解にならない。そのうち、父が乗り出して、壁にか

けてある古い丸時計を指しながら、いろいろ説明し、問題を出した。

やっと答えられるようになるのに、何回も同じ問題を出されたような気がする。ぼくは勉強はできないく

せに、何回も同じことを繰り返してやるのが好きではなかった。暗記とかも苦手ではなく、苦痛だった。

正解を答えて、父に解放されたとき、ぼくは憮然とし、父の「わかったか?」という言葉に返事もしなか

った。


ぼくは父に勉強しろと言われたことは幼稚園から一度もない。ぼくの家はぼくに、勉強しなさいと言わな

い家だった。その後、福岡市内から転校したとき、あまりの成績のひどさに心配した転校した先の担任

教師に促されるまで、母がぼくに勉強しなさいと言ったことはなかった。しかし、それはいわば外圧で、

「お宅のお子さんは、小学校4年生だが、実際には小学校2年生程度の学力しかない」と脅されなければ

勉強しなさいとはきっと言わなかったと思う。平均的でいいという家だった。しかし、姉は学年でもトッ

プクラスの成績だった。ぼくときたら、当然、平均以下だった。だから、小学校中学年から高学年にかけ

てぼくも親も大変な思いをしたのだけれど…。


「返事は?」と父は聞いた。

ぼくは意固地にそれに答えなかった。

「返事ばせんか!」父の声がもう一度した。

そして、それとほぼ同時くらいに突然父の拳骨が飛んできた。

母も姉もまったく予想してなかった。突然の成り行きにものすごく慌て、母は必死で父の暴力を止めに入

った。それでも父の鉄槌はしばらく止まらなかったと思う。

父がぼくに手を挙げるといのは、わが家始まっての大事件だった。

姉は小さい頃、よく叱られたらしい。口答えするとひどく殴られ、しまいには外に出され、家に入れても

らえなかったという。初めての子でどう育てたらよいのかがわからなかったというのもある。しかし、男

の子で、末っ子のぼくはずいぶん甘やかされて育った。

九州には男子を特別視する風土がある。しかし、そのお蔭で、姉はしっかり者に成長したが、ぼくはいく

つになってもあやふやな人生しか生きていない。やはり、子どもはある程度、厳しく育てるべきだ。

ぼくの同世代の友人たちの中には高校生になっても親父がこわいと言っている奴がずいぶんいた。そいつ

らがしっかり者だったとは思わないが、ぼくは父をこわいと思ったことは一度もない。警察官という職業

からは想像がつなかいかもしれないが、当時はまだ権力の権化のように言われていた警察機構に勤めなが

ら、普段はまったく警察官ぽくなかった。ぼくにも手を挙げることはまったくなかった。


そのとき、父がぼくに手を挙げたのは勉強しないからでも、勉強ができないからでもなかった。

父はその年、念願の警部補試験に合格していた。ノンキャリアの警察官にとって、警部補という階級は

管理職候補の切符を手にしたようなものだった。県警本部以外の地域の警察署では、ひとつの課を任せら

れる。それに一定の年齢までに合格するとキャリア組でなくとも、警視正になれるチャンスが与えられ

る。ノンキャリアにとって、警視正は獲得できる最高峰の地位なのだ。

余談だが、父は貧乏と戦争で高等学校も満足に出ていない。大学卒でもなく、規定の年齢で警部補試験

にも合格せず、それでもノンキャリア警視正にまでなったのは福岡県警で父が初めてだったらしい。

警部補試験に合格すると戦争中、陸軍学校のあった東京中野の警察学校で管理職教育を受ける。記憶に

定かではないが、警視正候補枠の年齢の合格だと1年、それを越えていると1ヶ月だったと思う。

父がぼくに手を挙げたのは、その東京での研修が丁度始まろうとする時期だった。

たぶん父は、初めて一ヶ月家を空けることにあって、息子の気持ちを引き締めておこうと思ったのだと

思う。

「おれがいないのだから、息子のお前はちゃんとしていろ」。そんな気持ちだったのではないだろうか。

また、学校で「島田くんはいつも主役をやるわがままな奴だ」とみんなからスポイルされていたことへの

心配もどこかにあったのかもしれない。

しかし、普段おだやかで、ひょうきんな父が突然怒り出したわけが当時のぼくにはわからなかった。何か

の気配に振り返ったとき、まさに拳骨を飛ばそうとする父の顔が怒っているのではなく、いつものように

ひょうきんな冗談を見せてくれる笑顔にぼくには見えた。

ぼくがその後、父になぐられたのは、高校3年のときだ。熊本水俣裁判闘争のニュースを家族で見ていて

カネミ油症も水俣も自己責任だ」という父と議論になり、ぼくが「こういう人たちがの犠牲があって、

ぼくらは被害を免れているのに、そいういう言い方は非人間的だ!」と父に食ってかかったときだった。

「お前に非人間的と呼ばれる覚えはない!」父の怒りは激烈だった。

ぼくは父にボコボコにされた。しかし、ボコボコにされながら、あえて抵抗をしなかった。抵抗すれば、

父との関係を変えてしまいそうで、それがこわかったのだ。父には勝ってはいけなかった。どういう父で

も父には、父であった欲しかった。


子どもの頃から父にはずっと勝てないと思い続けてきた。その思いは、成長するほどに一層強くなって

いった気がする。父は大正15年の生まれだが、身長が180センチ近くある。若い頃やせていはいたが、

世代には少ない大男だ。それに逮捕術や柔道の心得がある。体力的にはまず勝ち目はない。しかし、それ

以上に父には勝てないと思ったのは、高等学校も満足に出ていないのに、父が博識だったことだ。

あの頃の親は戦争や貧しさで十分な教育も受けていないのに、みな一応に字が上手だった。それによく物

を知っていた。それに押しなべて貧しかったから配水管のつまりから雨漏れの修繕、家電製品のちょっと

した故障まで自分たちで直した。家族の絆が失われたといわれて久しいけれど、それはあの頃のように

子どもの前で親が、特に父親が何かをして見せるという生活の場面が失われていったことと無関係では

ないような気がするのだ。

電気がショートするとすぐにヒューズが飛んだ。いまのようなブレーカーがない時代だ。スイッチを上げ

ればよいというものではない。陶器でできたブレーカーボックスの蓋を開け、切れたヒューズを交換しな

くてはいけない。買い置きの20アンペアヒューズをドライバーを使って取り替えるのだ。

いまでも機械音痴の母はいつも電気が切れるとオロオロし、父がヒューズを取り替えるのを遠巻きにして

ながめていた。父は丹前姿のまま、いつも「しょうがないなぁ」という態度でおもむろに立ち上がり、し

かし、どこか誇らし気な感じでそれを取り替えていた。ブレーカーになっている蓋を閉じて、暗かった部

屋にパッと明かりがついた瞬間、「お父さんってすごいな」と家族みんなが心の中でしみじみ思った。そ

れは、ほとんど演劇的といってもいい効果があったと思う。いま思えば、大した作業ではないのだが、ヒ

ューズ交換は男の仕事だった。