秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

キムラくん

小学校2年生のときだった。

学校に来るときは、学生服を着て登校してくる少年がいた。どうして、彼が小さくなった小学生の学生服

を着て登校していたのか、記憶が定かではない。小学校の1年の入学のときに制服が支給されていたの

か、その記憶がないのだ。しかし、当時、家が貧しい子どもは私服の服がなく、クラスでも数人の子ども

が制服を着ていた。

彼の名はキムラくんと言った。2年生になって体が大きくなっているから、彼の学生服はいつもきつきつ

で、毎日、それを着ているために、肩と腕とのつなぎの部分が破れ、中の生地が飛び出している。それに

当時の子どもは栄養不足のせいで、青っ洟を出している子どもが多かった。彼の袖はその青っ洟を拭くた

めにテカテカになり、汚れていた。しかし、それは当時の子どもたちにとって特別に思えることではなか

った。新しい服を買ってもらえるのは正月のときくらいで、それまでの間は、兄弟の着古しや膝が抜けた

ズボンにハギレを縫いつけた服を着ていた。アイビールックでエルボーパッチの付いたスエーターやジャ

ケットが人気になったことがあるが、だったら、ぼくらは小学校のときからアイビールックだ。

だから、キムラくんのことを特別に貧しい家の子だと思うこともなかったし、ぼくがいつも主役をやるい

けない奴だとクラスメートから非難された月光仮面ごっこにも他の子どもたちと同じようにいつも参加し

ていた。

そんな彼が、ある日学校を休んだ。休んだ子の給食に出たコッペパンとマーガリンは届けてあげるのが決

まりだった。小学校の給食は当時まだ有料で、各家庭が給食費を支払っていた。だから、パンはその子が

休んでも家に届けるのがルールだったのだ。もともと休みがちな子で、基本的には担任の教師がパンを届

けていたのだと思う。しかし、その日は教師にも何かの都合があって、パンを届けることができなかった

のだろう。教師は、クラスに、「だれか、キムラくんの家にパンを届けてくれないかしら」と投げかけ

たのだ。

しかし、手を上げる者はいなかった。

ぼくはその頃クラスからスポイルされ、野球のピッチャーも降板していたから、放課後は暇だった。ぼく

が「はい」と手を挙げると、わずかながらぼくをスポイルしなかった友人の何人かも手を挙げた。教師は

その挙げた手の中からぼくを指名して、「じゃ、島田くんね」と言った。教師にキムラくんの家のある場

所を書いた手書きの地図をもらい、ぼくと手を挙げた友人の一人と二人でキムラくんの家へ向かった。

その家は、橋の下にあった。

小学校の近くを流れる生活雑水と汚水で汚れた川にかかる木の橋の下にムシロと竹と木材で組まれた小屋

だった。ぼくは、それを見たとき、いままで知らなかったキムラくんの生活、彼がなぜ学校へ来なくなっ

たのかを一瞬に直感した。公害が社会問題になる以前、都市の河川は生活排水で汚れていた。ぼくらは

だから、その河原で遊ぶことはほとんどなかった。

「キムラくん」と何度か声をかけた。しばらくして、お母さんが出てきた。ぼくは給食のパンを持ってき

たことを告げた。すると、お母さんは「わざわざありがとうね」と何度も頭を下げた。そして、ムシロの

小屋に、「ほら、島田くんが来てくれとうよ」と声をかけた。しかし、キムラくんは出てこなかった。

「ごめんね、ごめんね」とお母さんは何度もぼくらに謝った。「いえ、いいんです。キムラくんに早く

元気になるように言ってください」。ぼくはなぜかそう言っていた。病気で休んでいるんだ。ぼくらが

そう思っているとキムラくんに思わせたかったのだ。

帰り道、ぼくとぼくの友人はあまり口が聞けなかった。「キムラくんって橋の下に住んどったたいね…」

友人が言った言葉に、ぼくは「うん…」としか答えられなかった。

ぼくがキムラくんの家にパンを持っていこうと思ったのは、ぼくがクラスから批判されたとき、同調して

ぼくに揶揄を飛ばすようなことをしなかったからだ。

ぼくは帰り道、友人と黙って歩きながら、パンを持ってこない方がよかったと思った。キムラくんの気持

ちになると、橋の下の自分の家を友だちに見られるのは辛かったのだ。だから、キムラくんは家にいるの

にぼくらに顔を見せなかった。そして、きっととぼくは思った。キムラくんは給食費が払えなくて、それ

が恥ずかしくて学校へこれなくなったのじゃないかと。当時、生活保護世帯の給食費免除はまだ実施され

ていなかったか、されていたとしてもその手続きを恥ずかしいと申請しない世帯があった。一重に子ども

のことを思ってのことだったのだろうが、子どもにすれば、給食費を払っていないのに、昼食の時間、他

の子どもたちと笑顔で食事をすることなどできない。ぼくにはキムラくんの気持ちがわかるような気がし

た。それからしばらくしてキムラくんは転向していった。生活保護の手当てを受けて、市が提供する住宅

に移ったのか、詳細は知らない。しかし、月光仮面ごっこのときのキムラくんの笑顔は忘れない。どんな

生活や境遇にあっても、子どもは笑顔を忘れない。いや、子どもだからこそ、笑顔で過ごす一瞬があれ

ば、厳しい生活にも立ち向かっていけるのだ。

同じ頃、クラスからスポイルされたぼくが、遊んでいた数少ない友だちの一人の家へ遊びにいったことが

ある。

廃品回収業の家だった。

名前は忘れたが、針金や壊れた自転車、鉄材が山のように詰まれた家だった。家といってもゴミの山の

中央に炭鉱の坑道のような空間をつくり、そこに角材で四角い箱をつくり、雨水を凌げるようにビニール

で養生してあった。小学生が立ち上がることもやっとなくらいの高さで、まるでアジトのような雰囲気だ

った。差別や同和問題などの知識のない小学生にとって、そこは実に不思議でおもしろい空間で、彼の家

をうらやましく思ったほどだ。

ぼくが、廃品回収業というだけで世間から蔑視され、差別の対象となっている現実を知ったのは、中学生

になってからだった。しかし、比較的早く、ぼくがそれに気づくことができたのは、小学校の低学年の頃

自分の生活のすぐ側にそうした貧しく、差別の対象とされる人生があったからだと思う。

世の中には人々がダークサイドと呼ぶ世界がある。しかし、ぼくが子どもの頃はそのダークサイドが自分

の生活の中にあり、この眼でダークサイドと呼ばれる生活を垣間見ることができた。その瞬間に何かを学

ぶことはできなくとも、その現実を見ることはこの世の中がどういう仕組みで成り立ち、人々の中にある

差別や偏見が意味のないものであることを将来、何かの機会に学びへと変えることができる。

一番問題なのは、こうした社会矛盾や格差、差別を美しい、幾何学的な風景の中に閉じ込め、子どもの眼

から見えなくさせることだ。

子どもだからこそ感じ取れる世界がある。子どもだからこそ乗り越えられる壁がある。

キムラくんのあの笑顔はそれを語っている。