秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

くるみ割り人形1

小学校3年のとき、転校生という言葉にあこがれていてた。

念願叶って、ぼくは小学校4年のとき、源平合戦の舞台となった北九州市門司区の田ノ浦という片田舎に

引越した。しかし、その1年も前から担任の教師に「ぼくの家は引越しするかもしれない」と平気とウソ

をふれ回っていたのだ。

あの頃、転校してくる子どもは東京の子がほとんどだった。たぶん、国内景気が高度成長で景気づいてい

た関係で、東京に本社のある企業が福岡のような地方都市へ支店や営業所を続々と進出させていたためだ

と思う。

そして、東京から転校してくる同級生は、なぜかみなイケメンでかっこよく、女の子はきれいな子ばかり

だった。

「東京の人はやっぱりあか抜けしちゃあけん」というのは、母が昔よく口にした言葉だが、確かにあの頃

のぼくにとって東京から転校してくる彼らは羨望と憧れの「あか抜けした異人たち」だったのだ。

「山の手」という言葉をぼくは小学校高学年で同級生になった、同じ転校生の星川くんから初めて教えて

もらったが、東京からやってくる転校生には一応にその「東京山の手」の匂いがそこはかとなく漂ってい

たような気がする。当時の地方転勤者は新規営業所や工場、支店の責任者クラスが多く、企業でもそれな

りの立場と収入がある人たちが大半だったからではないだろうか。

ぼくが低学年を過ごした大濠公園周辺もいわば福岡の山の手で、一軒家の立派な家が多かった。雨漏れの

する二軒長屋の警察官舎に住んでいたぼくは、だから、東京の山の手と福岡の六本松界隈をいまでもどこ

かダブらせて考えていることろがある。東京の山の手みなたいな福岡の高級住宅地から通っている数人の

クラスメートたちもみんなござっぱりとしていて、きれいで頭のいい子ばかりだったのだ。

上京して、何かの折に表参道の裏通りや青山、麻布を歩いたとき、小学校の頃走り回っていた大濠公園

動物公園辺りとそっくりなのを実感した。自分の想像力が決していい加減なものではなかったと確信した

覚えがある。余談だが、いまぼくが生活のほとんどを乃木坂で過ごしているのは、乃木坂界隈の空気感が

どこか動物公園の辺りと同じだからなのだ。青山墓地のこんもりとした緑や乃木神社を囲む森は動物公園

周辺のそれと実によく似ている。

話を戻すと、そうした印象のせいなのか、いつか転校生という言葉はぼくの中で、一軒家に住む、きれい

で頭のいい小学生というイメージに統一され、東京と福岡の区別をなくしていった。

クラスからもスポイルされ、勉強でもスポーツでもお笑いでも自己主張する場を失ったぼくは、転校生に

象徴されるそうしたものに強い羨望を抱くようになっていたのだと思う。


小学2年でクラスメートからスポイルされているぼくに救いを与えたのは、その憧れの転校生のいる東京

からの転勤一家、坂本さんちだった。

確か、お父さんは大手乳製品会社の役員だったと思う。知り合ってまもなく、まだ福岡では売っていない

という試作品の「くまさんのアイスクリーム」を食べさせてもらった覚えがある。

母は当時からあるリベラルな宗教団体の活動を熱心にやっていて、そこで知り合ったのが坂本さんちのお

母さんだった。

きっかけはこうだ。

ある日、突然、母が何かにつけ、「坂本さんち」と口にするようになり出した。断わっておくが、母はい

までもそうだが、どうしようもないミーハーだ。付け加えると、養女として育てられ、実の親の顔を知ら

ず、若い頃は父の病気で質屋通いをしたとか、様々に苦労した事実はあるが、戦争の最中から戦後の動乱

まで、日本が貧しさのどん底にあった時代、何ひとつ不自由なく生活できた西戸崎の地回りの成金ヤクザ

の「お嬢さん」だ。したがって、生来、わがまま、浪費家、派手好き、新しい物好き。

そこに、彼女の好奇心をくすぐるように登場したのが東京の坂本さんちだった。

ぼくの家と坂本さんの家が互いの家族を紹介し合い、親密に付き合うようになるかなり前から、ぼくの家

では坂本さんちのことがまるで昔からの知り合いの家のように語られていた。母と姉はほとんど意気投合

して、東京のお土産話に盛り上がっていた。姉はまだ坂本さんに会ってもいないのに、ミーハーな母に調

子を合わせ、始終坂本さんの家のことをあれこれ話していた。

あるとき、母が改まって、「坂本さんがね…」と切り出した。坂本さんちの長女のヒロミちゃんのバレエ

の発表会があって、それにわが家がご招待されたというのだ。

バレエ! ありえないだろう! とぼくは思った。わが家にはクラッシックを細々とテレビで聴くくらい

の文化水準はあっても、バレエを発表会とはいえ、劇場まで見にいく、文化と経済的ゆとりはなかった。

母がいうには、これを機会に家族ぐるみのお付き合いをということらしかった。

そういう場の苦手な父は仕事を口実に逃げた。ぼくも東京の転勤一家への気後れがあったから逃げたかっ

たが、小学生の身分ではその理由がない。母たちの後ろについてバレエの発表会を観るハメになった。


ヒロミちゃんが出た舞台はいくつかったが、メインの演目は「くるみ割り人形」だった。「あれがヒロミ

ちゃんよ」と指された舞台に、スポットライトに浮ぶ艶やかな東京の舞姫がいた。

バレエの公演を観ること自体初体験なのだ。初めて観る舞台の空気に圧倒され、そこで舞う年上の女の子

の艶やかさに圧倒され、ぼくはそれだけで、もうほとんど気後れとコンプレックスが一緒になった固形物

のようになっていた。

公演が終わって、ああ、これで解放されると思ったら、「夕食をご一緒に」ときた。しかも、「天ぷら屋

さんに行きましょう」だ。当時、地方公務員の、しかも警察官は貧乏だったのだ。どうまちがっても「天

ぷら屋さん」で天ぷらを食べることなどできなかったし、ありえなかった。しかも、そこにあの舞姫がく

る!

ヒロミちゃんは舞台の後の片付けを終えて少し後からくることになった。ぼくは生まれて初めて入った天

ぷら屋さんのおいしそうな天ぷらを前にしながら、もうすぐあの舞姫がくる!という緊張でほとんど何も

口にすることができないでいた。

遅れてきたヒロミちゃんは、目の大きなきれいな女の子だった。髪型は舞台のままで、ショートヘアーを

しっかり固めていた。慌ててメークを落としたせいか、少し化粧が残っているような感じがした。

母と姉はお好みの天ぷらを次々に平らげながら、以前からヒロミちゃんや弟のヒロシくんのことを知って

いたかのように何の屈託もなく話に花を咲かせていた。

「あら、タカシちゃんはちっとも食べないのね。天ぷら好きじゃなかたのかしら…」

坂本さんのお母さんがぼくの異常に気づいた。

「いいえ。この子は天ぷら大好きなんですよ」と母。

「そうよ。あんた、イカの天ぷら好きやもんね」と姉。

「あら、そうなの? じゃ、このイカ、タカシちゃん、食べて…」と坂本さんのお母さんが天ぷらをぼく

の皿に乗せる。

「……」

「どうしたと? おなかの調子悪いと?」とデリカシーのない姉は無粋なことを言った。

「ヒロミちゃんがあんまりきれいやけん、緊張しとっちゃろ、あんた」と母。

てめぇ! それでも親か! とぼくは叫びたかったが、母のその言葉はぼくの意に反して、満座の席を笑

いの渦にしてまったのだ。穴があったら入りたいという言葉の意味をぼくはそのときかなり本格的に知っ

たと思う。ヒロミちゃんが笑っていなかったのがせめてもの救いだった。そのとき、一瞬、ヒロミちゃん

と目があった。余談だが、ぼくはいまでも名前の最後に「美」のつく女性にすごく弱い。


そういうふうに出会った二つの家族の子どもたちは、環境も生活水準もまったくかけ離れていたのに、な

ぜか急速に仲良くなっていった。

姉とヒロミちゃんは確か一つ違いで姉が上だったと思う。ヒロシちゃんはぼくより一つ年上だった。互い

の家は近かったが、学区が違っていて、ぼくらは同じ小学校には通っていなかった。なのに、坂本さんち

が再び東京へ帰るまでの1年近く、ぼくらはまるで同じ学校に通っている友だちのようにほとんど毎日会

い、いつも一緒に遊んでいた。

実際にはそんなに長く、頻繁に会ってはいなかったのかもしれない。福岡の友だちからは得られない東京

独特の新規な情報があまりに新鮮で、ぼくにそういう印象をいまも抱かせているのだと思う。

ぼくは坂本さんちの大きな家でそれまで知らなかったたくさんのゲームやおもちゃを知った。人生ゲー

ム、パズル、チェス、ポーカー、セブンブリッジ、豚のしっぽ、動くプラモデル…。おもちゃではないが

くるみとそれを砕くくるみ割り人形もぼくは坂本さんちで初めて体験した。

福岡の脇にあった西鉄スポーツセンターで生まれて初めてスケートをしたのもヒロミちゃんやヒロシくん

に案内されてだった。ポップコーンのおいしさもそのとき初めて知った。それはまるで映画の世界のよう

にぼくら姉弟をそれまで知らなかった新しい世界へ導いてくれた。

そして、ぼくらはまるで姉妹兄弟のようにそれらを一緒に愉しんだ。ゲームやお菓子を囲み、時間を経つ

のも忘れていつまでも遊んでいた。クラスからスポイルされ、行き場を失っていたぼくにとって坂本さん

ちで過ごす時間はその空白を埋めてあまりあるものだった。

お誕生会やクリスマスパーティ、プレゼントの交換、お正月の百人一首とった家族の年中行事をわが家に

吹き込んだのも坂本さんちだった。

子どものために他人を招いてパーティや食事会をやるのはいまでは当たり前のことなのかもしれない。し

かし、日本がやっと経済的に落ち着きを見せ始めたばかりのあの頃、生活以外のことでお金をかけるゆと

りなど庶民生活にはまだなかった。ゲームを始め、子どもの玩具にお金と裂くゆとりもいまのようにはな

かったのだ。

しかし、だからこそ、坂本さんちがぼくの家にもたらした様々な文化はとてもキラキラと輝いて見えた

し、新鮮だった。だが、ぼくは坂本さんちのことをステキとは思ったが、うらやましいとか妬ましいと

か思ったことは一度もない。それは、たぶん、坂本さんちが経済的な豊かさとは別の、もっとステキな

豊かさを身につけていたからだと思う。そして、その豊かさとは、工夫次第でだれにでも容易に手に入れ

られるものだということを無意識のうちにぼくらに示していたためだ。


つづく。