秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

東京1

小学校の2年の頃だったと思う。ぼくは母に連れられて初めて上京した。

いま福岡、東京間は新幹線のぞみを使えば、5時間ほどらしい。ぼくが上京した当時は、まだ蒸気機関車

で20時間くらいかかった。寝台特急あさかぜ号が走り出したのはいつか知らないが、ぼくらの乗った列車

に寝台などなくて、堅い木製の椅子に座ったまま寝るという苛酷な旅だった。母が熱心に信仰しているあ

あるリベラルな宗教団体の団体参拝に連れていかれたのだが、たぶん、どの家もそうした参拝に多額のお

金を出すゆとりなどなかったからだろう。

お蔭で、ぼくは汽車の旅ではトンネルに入るとき車窓を閉めなければ、煙で客室がむせることを体験的に

覚えることができた。

余談だが、ぼくが中学生になるまで、蒸気機関車国鉄車両区でまだいくらでも目にすることができた。


最後の大学受験のときだったか、お金もなかったが、きっと不合格だからもう乗ることはないだろうと東

京駅から寝台特急のあさかぜ号に乗った。東京駅の丸の内口の駅正面に大きな時計がある。そのとき、そ

れを見ながら、子どもの頃、あの時計を「東京」だと思い込んでいた自分をふと思い出して苦笑いしたこ

とがある。

母に連れられて上京したそのとき、母の「東京に着いたよ」という言葉と同時に、移動するバスの車窓か

ら目に飛び込んできたのが、あの時計だった。ぼくは寝ぼけていて、あれが東京なのかと思いつつ、さす

がにそれはおかしいと気づいたのだろう。母に時計を指して、「ねえ、あれが東京?」と尋ねた。母はぼ

くの質問をいい加減に聞いていて、「そう、東京よ」と答えてしまったのだ。それほど時間を置かず、自

分の勘違いに気づいたが、その後しばらくは、「東京」と聞くとほどんど反射的にあの丸の内の丸い時計

を思い浮かべていた。


ぼくが最初にはっきり東京へ行こうと決意したのは小学校2年のときだ。

原因は失恋だった。

とはいっても、相手に自分の気持ちを伝えたわけでも、その子と特に仲がよかったわけでもない。一方的

な片思いだった。

相手は当然、東京からの転校生である。

その子の名は、椎名真理子さんと言った。最後に「美」はついていないが、彼女と出会ったのは坂本さん

ちと出会う前だった。だが、福岡辺りで「椎名」という姓は珍しく、それはぼくに「東京」を思わせるの

に十分な音感と響きを持っていた。

真理子の名はおぼつかないが、姓名をはっきり覚えているのは転校してきたときのクラス紹介と転校して

いくときのお別れの挨拶までが短かったからだと思う。

椎名さんはぼくのクラスメートの女の子のだれもかなわない、長くて、きれいな髪をした子だった。長い

髪はいつもきちんと三つ編みにされていた。目鼻立ちが上品で、切れ長の目と眉が紛れもなく「福岡」に

はないものだった。そして、なぜか、いつもカーディガンを着ていた。

これも余談だが、当時、ガーディガン、しかもカシミアのそれを着ている女の子は「よかとこの子」だっ

たのだ。犬で言えば、スピッツ、調度品で言えば、ピアノ、時計で言えば、鳩時計。

小学校3年のとき好きになった、六本松の高級住宅街から通っていた木曽さんもカシミアのカーディガン

をよく着ていた。そして、共通するのは日差しの強いときには、カーディガンの袖を通さず、肩や赤いラ

ンドセルに引っ掛けていることだった。

これも余談だが、ぼくはいまでもカーディガンを肩にかけてサマになる女性に弱い。オードリー・ヘップ

バーンにもキム・ノバックにも、シャーリーズ・セロンにも弱い。カーディガンが似合う女性だからだ。

彼女は、確か1学期も福岡にいなかったのではないだろうか。彼女が転校するまでの間、ぼくは彼女の三

つ編の髪をひっぱったり、からかったりするイタズラはしたが、特におしゃべりをした記憶はない。

たったひとつ、彼女のことで鮮明に覚えているのは彼女の転校を知る前日の出来事だ。

ぼくは友だちと別れ、九州大学教養学部の脇の道をトコトコ歩いていた。日差しの強い午後だった。


明るい日差しをいまでも覚えている。

道徳の時間、ぼくの反省の告白に「そうじゃない。島田くんにはもっといけないところがあります!」

と手を挙げた急先鋒のクラスメートがその日、ぼくに詫びを入れた。

どういう経緯でその子が突然ぼくに謝ったのか覚えていない。かすかに記憶に残っているのは「島田が

うらやましかったから」という言葉だけだ。確か、その子は謝ったあと、泣いていた。

ぼくをかばっていた数少ない友だちのだれかと諍いになり、その言い合いの中で、彼が意図してぼくを落

とし入れようとしていたことを改めて糾弾されて、事実を認めるしかなかったのだ。はっきりしないが、

ぼくの目の前で、そんな諍いがあったような気がする。

しかし、ぼくにとって、それはもう蒸し返したくない事件だったし、一度受けた傷が癒えるわけでもな

かった。いや、それ以上にそれはもうどうでもいいことだった。彼が扇動したにせよ、他人が自分をどう

思っているかを知った以上、ぼくのクラスでの身の処し方は決まっていた。

「また、友だちになろう」ぼくは彼に言った。

しかし、その一方でちくはぐになった関係がそう簡単には修復できないだろういう諦めがあった。だが、

いずれにせよ、彼がすまなかったと言ってくれたことは嬉しかったのだ。話が長くなったが、その帰り

道だったせいか、一際空の青さや太陽の光がキラキラ輝いて見えたのだと思う。


彼女は教養部の柵のある土手の上を何か歌いながらこちらに歩いてきた。

校外で彼女と行き違ったのはそれが最初で最後だった。カーディガンを赤いランドセルに引っ掛けた彼女

の姿は眩い光の中でキラキラして見えた。

クラスでも特におしゃべりをしたことのないぼくは「チャンス!」と心で叫びながら、結局、バカみたい

な声のかけ方しかできなかった。

「なんばしょうと?」

余談が多いが、福岡では道で女の子をナンパするときよく意味のない、この言葉を使う。