秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

東京2

確か、彼女はそれには答えなかったと思う。その代わり、彼女は前から気になっていたという様子でぼく

に尋ねてきた。

「給食のミルク、飲めるようになった?」

「だめ。やっぱり飲めん」

「毎日、家で牛乳飲んでる?」

「牛乳と給食のミルクはやっぱ違うけん」

「言ったでしょ。毎日飲んでれば慣れるって…」

「そうかもしれんけど…」

「約束したでしょ。毎日、牛乳で練習するって」

「うん」

「練習して、早く飲めるようになってね」

「うん…」

ぼくの天敵は、その頃、給食の脱脂粉乳だった。同世代かそれより上の人はわかると思うが、ぼくらの給

食のミルクは、ミルクとは名ばかりで、乳製品の製造過程でカスとして出てくる「脱脂粉乳」と言われる

粉をお湯で溶いたのものだった。

戦後の食糧難時代、吉田茂内閣の要請で米軍が緊急支援として放出した食料品の名残だ。ところが、脱脂

粉乳にはちょっと言葉にできない独特の生臭さがあり、普通の人ならミルクの入ったアルミカップに口を

つけるまでに挫折してしまう。

しかし、クラスメートの大半は何食わぬ顔でそれを飲み、また幾人かは不味いといいながら、それでもさ

らりと飲んでいた。残り数人がどうしても飲めないという連中で、おおよそ、4、5人くらいのその中にぼ

くはいつも入っていた。

東京から転校してきた彼女とぼくが初めて会話を交わしたのは、その脱脂粉乳についてだったのだ。

「わたしも全然、飲めなかったのよ。でもね。夏休みに毎日牛乳飲んでたら、2学期から飲めるようにな

っちゃったの。島田くんもきっと飲めるようになるよ」

幸いにして、小学校高学年から給食のミルクは牛乳に変わった。しかし、それまでの間、結局、ぼくは脱

脂粉乳を飲めるようにはならなかった。彼女への愛から幾度かトライはしたが、それは鼻をつまんでの一

気飲みだった。椎名さんが転校してからしばらくは、また残すようになった覚えがある。


「じゃあね」と言ったあと、ぼくは彼女の後ろ姿をしばらく見つめていたと思う。そして、「変わった子

だな」と思った。いまはどうか知らないが、当時、九州大学教養学部の脇には側溝があった。大学の柵は

その側溝から石と土でつくられた土手の上にあったのだ。彼女が歩いていたのは、道路から蓋もされてい

ないその側溝まで1メートルはある土手の上だ。九州大学構内の小さな池をザリガニ取りの遊び場にして

いたぼくらでも、そんな場所をトコトコ歩いたことはない。そこを人目を気にせず、実に自然に、涼しげ

に歩いている。しかも、少し俯き加減に、ひとり歌を口ずさみながら…。

少なくとも、当時のぼくのクラスメートの女の子にそんなしぐさや態度を見せる子はだれもいなかった。

それは実に不思議な光景に見えた。

そして、その翌日、彼女はみんなの前で、「短い間でしたけど、お世話になりました」という言葉を残し

て東京へ去っていったのだ。

ショックだった。

なぜ、あのとき、一言もぼくに教えてくれなかったのか。知っていれば、自分の気持ちをコクったのに!

そして、東京に行って、きちんと自分の気持ちを伝えようとぼくはそのとき、上京を決意しのだ。

しかし、どこに住んでいるのか、どこへ行けば、彼女に会えるのか。思案した挙句、ぼくは「そうだ。ま

ず、交番で聞けばいい」という結論に達した。

東京に行って、まず交番に行き、椎名さんの住所を調べて彼女に会いに行く。そして、気持ちを告白す

る。それが当時のぼくの固い決意だった。先生に住所を尋ねようという安易な発想は全く浮ばなかった。

バカではない。一途だったのだ。


ぼくのあの子は東京へイッチッチ
ぼくの気持ちも知らないで
なんでなんで、なんで
どうしてどうして、どうして
どうしてそんなに東京がいいんだろう

当時、守屋ヒロシのロカビリー調のその歌がとても流行っていた。確か、同名のタイトルで映画にもなっ

たと思う。椎名さんが転校してからしばらく、ぼくのヒットチャートは坂本九の「上を向いて歩こう」や

中尾ミエの「可愛いベビー」を抜き、トップの座を守り続けた。

そして、それから十年以上経って、ぼくの上京の夢は実現した。しかし、そのときぼくは幼い恋を探すこ

とではなく、家族やいとしいものたちと決別することにより多くの意味を見出そうとしていた。

そのときのぼくのテーマ曲は言うまでもない、「青年は荒野を目指す」だったのだ。