砕けたステンドグラスたちの壊れた承認
片割れのいくつものステンドクラスがそれ自体、自分という存在のすべてを表象できないように、ぼくらは、ぼくであることの感触を得ることができないでいる。
それでいながら、破片の一つひとつの存在、どれひとつ欠けても自分足りえない。自分でありながら、自分足りえていない。そのもどかしさをぼくらはどこか感じている。
それがいまという時代のぼくらだ。
問題になっている内閣府と内閣府を取り巻く中央官僚たち、またその部下として事情を知る管理職、職員たちも、この危うさを痛烈に実感する、官庁・公務員という公職にいる。
公に職があることは、公の前で「私」は抹消しなければならない、あるいはされる存在であることを事前承認しなくてはいけない。
その危うさが、常軌を逸した改ざんや隠ぺい、虚偽答弁を組織からの承認を得るために平然と、ときにはしどろもどろにできてしまう。大衆からの「私」への承認以上に、官僚機構、公職という砕け散ったステンドグラスの一片の中での「公としての私」の承認を得るために。
それが組織ぐるみで隠ぺい、改ざんし、組織ぐるみでそれを否定し、さらなる書類の改ざんへと常識を逸脱させる動因となっているのだ。
公務員という職が定期的異動があっても成り立つように、彼らは入れ替え可能なだれでもいいだれかだ。そのことを自身よく承知している。
だが、いまは、だれもが砕け散ったステンドグラスだ。本来のあるべき自分たちは、聖堂に暁光を取り込む荘厳なステンドグラスの窓であったことも、人々の衆目を集める貴重な職芸の美の花瓶であったことも示すことができない。
その結果、自分にはそうした威光も知恵も能力もないことを徹底的に知った凡庸な人間たちが、自己承認のために政権トップに立つと、「公」という欠けた破片の世界での承認を「公の私たち」に要求する。
彼らに国民、大衆の承認はさほど重要ではない。国民、大衆にとって非常識、常軌を逸することも厭わない。いや、厭うという感覚すらなくなっている。望むのは、常軌や社会規範、社会常識ではなく、ただただ、否定のない、承認だけある世界なのだ。
ジャーナリズムへの圧力もそのためにだけなされ、その後先は彼らのスカスカの脳では想像できていない。
常識や社会倫理で議論しても、前へは進めないことをぼくらは気づいた方がよい。
信じられる大人の姿
そして、8年のという歳月の中で、また、それぞれの現実も大きく変わっている。どう俯瞰しても、一律に語れる、解釈できるような代物ではない…とぼくは思う。
冷たい言い方に聴こえる人もいるだろう。だが、ぼくがこの8年、福島で、あるいは東北の各地で見て学び、そこに生き、現実と向き合う人たちから教えられたのはそれだった。
特に原発事故を抱えた福島は、原発とのかかわり方の深度、その距離の取り方で人々の意識も違う。
ことさらに、放射線量の危険を声高にいう人の中には、線量の低い地域から自主避難し、自らの地域を否定するように、福島のマイナススピーカーになっている人たちも少なくない。また、そうした声を支援という名で、過剰に祭り上げる人たちもいる。
何が真実で、何が嘘なのか。嘘ではないとしても、主観的で、矮小化されたものなのか、そうではないのか。それを見極めることがとても大事だ…ぼくは3.11の後、福島と関わるようになったときから、心にそう決めていた。
そう決意させていたのは、何よりもぼくが被災の当時者ではないからだ。そこに生きる人間ではないからだ。そして、様々な形で、何がしか表現できる場と機会を持つ人間だったからだ。
冷静であること。感情に押し流され、同情や憐憫を持たないこと。心情的に共感するものであったとしても、そこに留まらないこと、溺れないこと。
それが物事をしっかりととらえ、被災者とそうでない者という関係を越えることになる。同じ立場で、志を同じに、これからの道を探る…そのことの方がはるかに震災・原子力災害に立ち向かう、そのときの逼迫した課題だった。
そして、それが、あの日を契機に、いや、あの日がなければ出会うことのなかった、ぼくらが出会ったことを明日へ生かす道だと確信していた。
その思いはいまも揺るがない。
過去を振り返ることは大切なことだ。奪われたいのち、生活に思いを寄せ続けることも当然な感情だと思う。ぼく自身、震災直後の風景を目にし、胸に突き刺さった感情がいまの活動の動機になったことは否定しない。
けれど、だからこそ、失われたすべてのいのちに、奪われたいろいろな思いに応える道は、いままでを取り返すことでも、いままでと同じ日常に戻ることでもないのだ。
次へつなぐための、いまをつくることこそ、あの日を未来に生かす道だとぼくは思う。
いままでとは同じじゃない。そう胸を張って、次の人たちに言える、恥ずかしくない行動をし、完全ではなくとも、実現してみせる道を歩むことこだ。
信じられる大人の姿を遺すということだ。
大人がいなくなった社会
芝居や映画の世界では常識とされていた、レンブラント照明。
オランダの巨匠レンブラントの絵画から引用されていると御存じの方も多いはずだ。
あるいは透明感に満ちたフェルメールの窓から差し込む光…。
中世や近世の絵画はモチーフとされる表象の一つひとつに含意、隠喩がある。それが知識としてないと、正確には中世・近世絵画が描こうとしてる世界を把握することは難しい。
シェークスピアでも、一つの単語やフレーズに幾重にも意味が塗り込められ、解読書といってもいいグロッサリー(専用辞書)がないと韻文に含まれるシェークスピアの悪だくみ、おふざけ、批評性といった原書のおもしろみは楽しめない。
ぼくらの日常といわれる世界は、幾重にも重なる小世界がつくっている。
そして、観客の前に幾重にもあるぼくらのいまを断片のひとつとして切り抜いて、客の前に現前化させるのに、レンブラントやフェルメールを応用することはとても重要なことだった。
いま演劇でも映画でも、幾重にも重なる小世界を意識して、その断片として人、世界を捉える深く、洞察に富んだ視点がすこぶる脆弱になっている。
光の当たることころだけを捉えて、これがぼくらの現実であり、日常であり、世界なのだとする表層的な考え方が広がっているような気がする。
それは実に狭隘で、自己本位で、排他的で、やがては密室化し、萎縮し、濃密化することで、逆に光のない世界へぼくらを招き寄せる。
光の当たるところにいよう、光をより自分に当たるようにしよう…そうすることで影のあること、影そのものが存在しないことにする。
それではぼくらの日常が何たるかを知ることも、社会、世界の現実がどうなっているかを理解することも、遠く及ばないだろう。
光の当たる場所で、ぼくらは子どものように燥ぎ、もっと光の当たる場所にするためにはどうすればいいかだけに腐心する。影があることさえ無知なまま。無知であること、それ自体が罪であることに気づけぬほどの幼児性で。
大人がいなくなった社会…。それがぼくらがいまいる時代の断片のすべてだ。
考えてみてくれ。舞台や映画にこうした知性がなく、舞台上を画面上を溢れる光で照らすだけの何の陰影もない、芝居や映画の一コマを。それがぼくらのいまだ。
ゆりかごの中のぼくら
三島由紀夫は左翼も右翼も遥かに越えたところで、日本の未来を見据えていた…と、ぼくは思っている。
現実に、小説世界を逸脱し、三島が最後に選択した自決への道は、ナルシズムの典型的な形で終わったし、当時、三島の行動はその文学への高い評価とは裏腹に、大衆の支持を勝ち得なかった。余談だが、その結末は太宰とあまりにも相似している。
アメリカ従属主義は戦後以上に、この国の政財官に蔓延した。重要法案の国会提出も、その決議も、アメリカの影が常に付きまとう。
日産のゴーンCEOの事件で、裁判所は、これまで多くの冤罪の温床となるとして、国内司法関係者からの批判があった再逮捕による拘留延長を異例中の異例で反故にした。かつ、検察は、フランス国籍のゴーン氏に対してはさらに再逮捕を突きつけ、拘留延長を図ろうとしている。
沖縄では、知事選で明確に県民の意志を示したにもかかわらず、辺野古湾への強引な土砂搬入が行われている。アメリカとの地位協定の見直しさえ進まない中での強行だ。
いまぼくらは、三権(司法・立法・行政)をすべて、アメリカのご都合主義の掌の中にゆだねられている。アメリカ経済は来年以後、急速な不況が予想されている。この国は、2020を隠れ蓑に、そのアメリカの後ろを着いて行くだろう。
大人の姿勢と知性
思春期、青年期の子どもたち、若者たちが一番疎ましく思うのは、そんな大人たちだ。
自分たちが思春期、青年期の頃のことを少しでも謙虚に振り返れば、そんな大人たちに信頼や尊敬の感情など芽生えなかったことがわかるだろうに。
先週の日曜日、今年最後で最大のイベント事業が終わった。半年がかりの本業の仕事とのブッキングで昨年にも増して、多忙だった1年だったが、イベントも作品も無事、約束通りに仕事を片づけることができた。
そのごあいさつの内容は、85歳という最高齢者であるがゆえの、参加した高校生たちへの熱い思いにあふれていた。しかも、今回、超難関の科学技術高校生徒たちの参加があったことを念頭に置かれての気配りのあるお話だった。
「高校生諸君には、ぜひ、サイエンスを極めてもらいたい。資源もないこの国がこれから生き残るためには、人しかない。それも科学技術の最先端を拓く人材が何としても必要なんです…」。
かつて、敗戦からこの国が立ち上がろうとしたとき、それと同じ言葉があったことを思い出した。
意見交換の場でも、ジョークや笑いが生まれる交流となった。参加した高校生たちの自由な意見や発想が飛び交い、客席も笑いに包まれた。音楽公演は終わっても
何かはわからくなくても、詳細にぼくらの活動やぼくの願いはわからなくても、あるいは、来賓の方々のあいさつやコメントの全部はわからなくても…
そこにあるメッセージが「君たち高校生」のものであることは確かに伝わっていたのだ。そして、それを受け止めようとする高校生たちの姿が、だれも席から立とうとはさせなかった。
そこには、おバカな大人がいなかったからだ。謙虚に高校生たちの音楽、姿、姿勢、言葉に耳を傾ける大人たちがいたからこそ、高校生たちも自由でいられた。
信頼や尊敬は肩書でもなければ、年齢でもない。まして立場や学歴でもない。その人の教養と素養、そして、生きる姿勢が、その言葉がどれだけ知性に満ち、開かれたものであるかどうかだけだ。
I have a dream
明日への、数年先への、あるいは10年、20年先の未来を考えない人たち、考えられない人たちは、変えていくこともできないけれど、いまを充実させることも、充足させることもできない人たちだ。
やっているつもり。いまを充足させているつもりが、そうした人たちがやっていることは、いまをやせ細らせ、日々、明日をぶちこわしているだけのことだ。
ぼくが福島で出会い、原子力災害と向き合う人たちの多くは、志や誇りを持った自分たちであるために、そういう自分たちであることを示すために、不可能といわれることに挑戦している。
震災や原子力災害の前に戻ればいいのではない。震災と原子力災害を教訓に、自分たちの文化や生活をどう守り、明日へ向けてどう新しくしていけばいいかを考え、行動する人たちだ。
だから、ただ物が売れればいいのでもなく、ましてや同情などで支えてもらおうなどと考えてはいない。
それができるのは、そこに彼らのI have a dreamがあるからだ。
東北3県を回ったこの半年。ぼくは改めて知らされた。
岩手、宮城で新しい、多くの夢と出逢いながら、ぼくは、それを痛感した。岩手で、宮城で出会ったたくさんの夢…。それは、また、ぼくの夢をまた膨らませ、実現不可能と思えることに挑戦する力を与えてくれている。
明日のために、夢をつむぐ…。それがぼくがこの8年やってきたことなのかもしれない。
まやかしの日常
日常と思い込もうとし、思い込むことによって、初めて日常が成立し、維持されるていることを。思い込むことによって、世界からはじき出されずに済んでいることを。
「まやかし」としての日常だからこそ、ぼくらは、日常を揺るがす日々の事柄に対して、途轍もなく鈍感でいられる。日常を否定する非常識や不正や悪行、規範からの逸脱を見逃すことができている。つまりは、日常を揺るがすものに、高い適合性、適正を身に付けてしまっているのだ。
日常というものが、捉えどころのない、あいまいで、根拠のないものとわかっているから、逆に、日常を揺るがす非常識や不正、悪行にもじつに寛容になれる。
それに強く異議を唱えることも、変革しようともしない。
野党を含め、政治家や政党が信じられない時代の「まかやし」の日常の中で、ぼくらは、またいつものように「まやかし」の政治に無言であることで、自分たちの日常を手放していく…。
自問と反省
さすがに、それなりの歳になって、協調とか、調和とか、同調するとかいったことは形ばかりできるようになってはいるが、それは目的や目標を形にするには、やむなく必要とされているからだけであって、そんなまどろっこしいことをやらないで事が成就するなら、そうしたい思いは山々で、実のところ、その思いの方がはるかに勝っている。
だが、いずれにしても、閉じた扉というのは、容易に開くものではない。
今日、何をしたいのか、さっぱりわからない内閣が発足した。ひとつだけわかるのは、内部固めの人事。それだけだ。だが、政権ばかりを非難していられるのか。いまのぼくらがつくっている社会や組織がそうではないのか。
忘れてはいけない感動と課題
前回の弾丸ロケハン、それに続く撮影。そして今回の弾丸ロケハン。あの震災のときと同じように、回を重ねる毎に、見えていなかった現実、人々の言葉にしない向こうにある思いの形を垣間見させてもらっている。
取材で大事なのは、こちらの投げかけに応えてもらっている言葉やそのときの表情ではなく、話の中でふと飛び出すその人自らの言葉。そこにある断片的な思い、普段の会話ではみせない表情、止まったような瞬間の空気だとぼくは思っている。
取材対象でないのに、取材のように出逢った人もいた。駅前旅館のおかみさん、タクシーの運転手さん、40年創業だが、海の家のように夏だけが盛りで、あとは客がいなと笑うレストハウスの若女将。漁師経験もある、×3のいまは無職のおじさん…といってもぼくより二つ下w
言葉は交わさなかったが、朝、三陸鉄道で学校へ通う高校生や中学生の無口な後ろ姿。道の駅で、行くと必ずレジをやっている地元の女性たちの姿。夜遅い時間のローカル線で帰宅する高校生…。ぼくともう一人若い青年しか乗っていない最終ひとつ前の車輛を運転する運転手さんの姿…。
昼間取材以外のことで語り合った、地域の現実がそこに重なり、いろいろな思いが心を巡った。
今回の作品づくりは、なにかをぼくに教えよう、伝えようとしているのかもしれない。そして、それを次の作品に生かせ…そういわれているような気がしてならない。
東北3県は、ぼくには無理。そう思っていた。福島に集中したのは、原子力災害の直接的な影響があり、それはこの国の地域のあり方を考えるはずしてならない課題と考えていたからだ。
それは決して、岩手、宮城、福島に限ったことではない。この国の地方というものにある、忘れてはいけない感動と課題なのだ。
また、いろいろな学びをいただきました。ありがとうございました。
ありがとうございました。
ぼくらの仕事は、悲嘆や恩讐や後悔や無念…それらを乗り越え、回復や挑戦へと向かい、喜びや感動、新しい世界と出逢う人々の姿を知り、学び、その人生の傍らから、そこにある人の思いを整理し、伝えやすい形とし、そこから見える地域や社会、国、世界のあり方を自らの問題、課題として問いかけることだけだ。
だから、ぼくらの仕事は、人々のどんなに近くにあっても、常に脇役であり、お手伝いさんであり、観察者、分析する人であり、どこまでいっても所詮、当事者ではない。
脇役としての役回りに不遜な態度やふるまいに、ぼくがスタッフや仲間を厳しく叱責するのは、そのことをないがしろにした、されたと感じたときだ。人が心を開き、語れなかったこと、言葉にできなかったことを語るとき、それにふさわしい脇役でありたい、脇役であってもらいたいとぼくは思う。
イベントや舞台、映画の制作が終わると、ぼくの心にはいつも風が吹く。その風が何なのか。毎回それを確かめるために、ぼく、ぼくらは仕事をしている。
そのかすかな可能性に賭けて、人知れず、ぼくらは人を撮り続ける。
それができるのは、出逢いが感動をいつも運んできてくれることを知っているからだ。