大人がいなくなった社会
芝居や映画の世界では常識とされていた、レンブラント照明。
オランダの巨匠レンブラントの絵画から引用されていると御存じの方も多いはずだ。
あるいは透明感に満ちたフェルメールの窓から差し込む光…。
中世や近世の絵画はモチーフとされる表象の一つひとつに含意、隠喩がある。それが知識としてないと、正確には中世・近世絵画が描こうとしてる世界を把握することは難しい。
シェークスピアでも、一つの単語やフレーズに幾重にも意味が塗り込められ、解読書といってもいいグロッサリー(専用辞書)がないと韻文に含まれるシェークスピアの悪だくみ、おふざけ、批評性といった原書のおもしろみは楽しめない。
ぼくらの日常といわれる世界は、幾重にも重なる小世界がつくっている。
素数の謎を解く、ひとつの鍵だとされる非可換幾何学を応用すると、ぼくらの時空は3次元ではなく、12次元で成り立っているらしい。つまり、いくつもの時空の断片がひとつの「いま」としてぼくらに現実認識をさせている…ということだ。
ぼくが演劇にのめり込んだのは、ひとつの現実の表象が見えない多くの何かによって複合的につくられ、いま断片としてそこにあるのだと直感させる、劇的なるものへのワクワク感だった。
そして、観客の前に幾重にもあるぼくらのいまを断片のひとつとして切り抜いて、客の前に現前化させるのに、レンブラントやフェルメールを応用することはとても重要なことだった。
いま演劇でも映画でも、幾重にも重なる小世界を意識して、その断片として人、世界を捉える深く、洞察に富んだ視点がすこぶる脆弱になっている。
光の当たることころだけを捉えて、これがぼくらの現実であり、日常であり、世界なのだとする表層的な考え方が広がっているような気がする。
それは実に狭隘で、自己本位で、排他的で、やがては密室化し、萎縮し、濃密化することで、逆に光のない世界へぼくらを招き寄せる。
光の当たるところにいよう、光をより自分に当たるようにしよう…そうすることで影のあること、影そのものが存在しないことにする。
それではぼくらの日常が何たるかを知ることも、社会、世界の現実がどうなっているかを理解することも、遠く及ばないだろう。
光の当たる場所で、ぼくらは子どものように燥ぎ、もっと光の当たる場所にするためにはどうすればいいかだけに腐心する。影があることさえ無知なまま。無知であること、それ自体が罪であることに気づけぬほどの幼児性で。
大人がいなくなった社会…。それがぼくらがいまいる時代の断片のすべてだ。
考えてみてくれ。舞台や映画にこうした知性がなく、舞台上を画面上を溢れる光で照らすだけの何の陰影もない、芝居や映画の一コマを。それがぼくらのいまだ。