秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

砕けたステンドグラスたちの壊れた承認

ぼくらは砕け散ったステンドグラスのような存在だ。

片割れのいくつものステンドクラスがそれ自体、自分という存在のすべてを表象できないように、ぼくらは、ぼくであることの感触を得ることができないでいる。

それでいながら、破片の一つひとつの存在、どれひとつ欠けても自分足りえない。自分でありながら、自分足りえていない。そのもどかしさをぼくらはどこか感じている。

しかし、視野を片割れのひとつとしてしか持ち合わせていないぼくらは、砕け散ったステンドグラスをジグソーパズルのように組み合わる視座を持てず、それを明確にすることも、立証することもできないために、不確かさという危うさの中に放り出されたままだ。

その危うさゆえに、散らばった断片の一つひとつとして、満たされない自己承認のあくなき欲求に曝されている。砕け散ったステンドグラスゆえの果てしない哀愁の大海でぼくらは揺らぎ続けている。

それがいまという時代のぼくらだ。

問題になっている内閣府内閣府を取り巻く中央官僚たち、またその部下として事情を知る管理職、職員たちも、この危うさを痛烈に実感する、官庁・公務員という公職にいる。

公に職があることは、公の前で「私」は抹消しなければならない、あるいはされる存在であることを事前承認しなくてはいけない。

その危うさが、常軌を逸した改ざんや隠ぺい、虚偽答弁を組織からの承認を得るために平然と、ときにはしどろもどろにできてしまう。大衆からの「私」への承認以上に、官僚機構、公職という砕け散ったステンドグラスの一片の中での「公としての私」の承認を得るために。

それが組織ぐるみで隠ぺい、改ざんし、組織ぐるみでそれを否定し、さらなる書類の改ざんへと常識を逸脱させる動因となっているのだ。

公務員という職が定期的異動があっても成り立つように、彼らは入れ替え可能なだれでもいいだれかだ。そのことを自身よく承知している。

かつては、その入れ替え可能性の不在をわずかに存在した官僚の良識や矜持、それらを孤高に持ち合わせたリーダーが公平性のある評価で支えていた。あるいは、誇りある政治家たちが存在を裏付けしてくれた。

だが、いまは、だれもが砕け散ったステンドグラスだ。本来のあるべき自分たちは、聖堂に暁光を取り込む荘厳なステンドグラスの窓であったことも、人々の衆目を集める貴重な職芸の美の花瓶であったことも示すことができない。

その結果、自分にはそうした威光も知恵も能力もないことを徹底的に知った凡庸な人間たちが、自己承認のために政権トップに立つと、「公」という欠けた破片の世界での承認を「公の私たち」に要求する。

政権トップとその取り巻きたちは、片割れとしてしか生きられない危うさを、そうやって、「公の私」への承認を必要とする官僚たちを巻き込み、あらゆる虚言や利益誘導、そして利益相反も常識としていく。

彼らに国民、大衆の承認はさほど重要ではない。国民、大衆にとって非常識、常軌を逸することも厭わない。いや、厭うという感覚すらなくなっている。望むのは、常軌や社会規範、社会常識ではなく、ただただ、否定のない、承認だけある世界なのだ。

ジャーナリズムへの圧力もそのためにだけなされ、その後先は彼らのスカスカの脳では想像できていない。

常識や社会倫理で議論しても、前へは進めないことをぼくらは気づいた方がよい。