秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

自問と反省

ぼくは中学生の頃から、大人たちが決めたルールや決まり事といったものに一言二言、場合によって三言以上意見をいう癖があった。それを疑問も持たず受け入れている同世代ともうまくはやれなかった。

唯々諾々と大人の考えや意見に従うという子どもではなかったのだ。

それがいいことだったのか、よくなかったのはわからない。しかし、この歳になっても、それが続いているということは、たぶん、それでよかったのだろう。少なくとも自分の生き方の矜持としては。

さすがに、それなりの歳になって、協調とか、調和とか、同調するとかいったことは形ばかりできるようになってはいるが、それは目的や目標を形にするには、やむなく必要とされているからだけであって、そんなまどろっこしいことをやらないで事が成就するなら、そうしたい思いは山々で、実のところ、その思いの方がはるかに勝っている。

だから、若い頃は賛同する仲間も多かったが、叩かれることの方が多かった。

開かない扉をこじ開けるには力がいる。若いからこそそれができる力がありながら、若いからこそ、それを発揮させない壁や障害が圧い。

それなりの年齢になれば、多少は巧みになり、行く手を阻む圧力にも屈しない、知恵やしたたかさも身に付けるが、果たしてそれでいいのかという疑問は逆に大きくなる。

少なくとも、若い頃からまっとうに開かない扉を開けようとしてきた奴なら、そう思うはずだ。同時に、なかなか開かないことで、自分自身のこだわりを見つめ直し、ただやみくもに、こじ開けるばかりではない、別のやり方に知恵を絞る人間もいるだろう。

だが、いずれにしても、閉じた扉というのは、容易に開くものではない。

多様性や多様性を受け入れるための寛容さが戦争や紛争、対立を越える力、方法としていわれているが、社会の行き詰まりを突破するには、変化が必要とはいわれているが…

残念ながら、己を否定するもの、己と異なるものを受け入れず、多様性とも寛容さとも逆の、より扉を閉じる方向へ、世界もこの国も、人々のマインドも進んでいる。

社会の行き詰まりを突破するといいながら、ありきたりで創造力のない過去の経験に依存した改革まがいの改革を叫ぶのに精いっぱいという連中はまだまだ世の中の中心にいる。

確かに、多様性を生きるのは容易ではない。かつての言葉を使えば、自己批判なしに多様性を受け入れることはできないからだ。自分の意識、それが生む思考の欠陥や内なる排他性に気づきを持つのは並大抵のことではできない。

変革も容易ではない、独創性や想像力が必要な上に、形にできる力がなければ実現しない。改革改革といいながら、いつまで経っても堂々巡りの世の中のありさまを見れば一目瞭然だろう。

閉じてばかりいる世界で、学習やそれによる想像力が養われるものではない。同調性の強い人間ばかりが生まれれば、思考の活力が個人からも集団からも失われて不思議はない。

今日、何をしたいのか、さっぱりわからない内閣が発足した。ひとつだけわかるのは、内部固めの人事。それだけだ。だが、政権ばかりを非難していられるのか。いまのぼくらがつくっている社会や組織がそうではないのか。

ぼくらはもっと、自問し、反省し、学ぶべきだ。