秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

検察の誠

多くの日本人が知らない。そして、政界、法曹界の多くが知っている。

日本の司法、とりわけ検察には、青少年期から東大法学部進学のために勉学に励み、在学中または卒業後、司法試験を突破して、検事、検察庁高官、裁判官、最高裁裁判官になった熱心な創価学会の子弟会員が多い。

池田大作先生の肝いりで、検察、警察、そして自衛隊に多くの学会会員が入庁、入省したことはじつは宗教界や政財界では知られている事実。仮面をかぶっているので、その実態はみえてないが、大きな勢力になっているのは周知の事実だ。

池田先生ご自身が、日本の検察庁長官、最高裁判所裁判官は、すべて学会会員にしてみせるとかつて豪語された語録も残っている。

オウム真理教が宗教団体の中で、徹底的に敵視したのは創価学会池田大作先生の暗殺計画まで考えていた。じつは、オウム真理教も日本の司法権を裏でコントロールするために、創価学会を模倣し、自衛隊、警察に信者を広げている。目の上のたんこぶだったのが創価学会だった。

国家権力の象徴ともいえる、検察、警察力、そして自衛隊を手にすることは、実質的に政治を手中に入れることに等しいからだ。汚職、横領、贈収賄など国政を揺るがす事件が起きたとき、警察、検察が最終的な力を持つ。

起訴も、不起訴も決定するのは検察。その内部に隠然たる力があるとすれば、政界はその力に頼ってくる。池田大作先生の先見性が見事的中している。いまは自公連立。自民党員の不始末を公明党創価学会の力でうまく処理してもらう頼みの政党となっているからだ。

公明党国土交通省の閣僚ポストにこだわるのは、会員の中に地方の工務店経営者が多いということがある。都市整備事業などでゼネコン傘下に地方会員企業が入りやすい。同時に商店街や自営業者に会員が多く、都市整備事業などで彼らの権益や利権を守るというねらいがある。これが自民党公明党に提供している司法権の見返りの担保だ。

公明党は発足から、長く、政教分離に反する宗教政党として嫌われてきた。社会党や他の野党の中でも、4番手、3番手の野党で力がなく、他党からも軽視されたきた。それがいまは単独で勝てない自民党にとってなくてはならない政党となり、確実な組織票を持つがゆえに、選挙結果を左右する存在になった。

民主党政権つぶしとして、鳩山元首相の母親からの寄付が相続ではないかと物議をかもし、小沢代表の西松建設疑惑で不起訴とされながら、4回にわたって検察審査会が起訴相当と再審を求めた背景にも、自民と連立を組む公明党創価学会の力が働いていたといわれている。

創価学会の結束と動員力、そして積極的な地域活動への参加や市民活動へのコミットは見事なものだ。

公明党が野党時代は、立正佼成会自民党を同じように支えたが、いまは創価学会の団結力には遠く及ばない。立正佼成会は、10年前から教団として民主党、いまは立憲民主党を支持しているが、地域の選挙区では自民党よりの自由投票となり、当てにされない組織票になっている。

宗教団体が強く、政治に影響する時代。それはどのような形であれ、決していいことではない。だが、宗教団体が政治に発言をしないことは宗教としての理念を実践していることにはならない。

だから、場合によって政党をつくることも、政党を支持することもいいだろう。

しかし、政治家の不始末を見逃し、政治的な駆け引きで擁護し、社会常識からかい離した忖度を当然とするなら、それは宗教の名を借りた利権集団でしかない。

創価学会の尊敬に値する団結力と、平和への実践をぜひ、発揮し、公明党を糾し、その先にいまの自民党を糾していただきたい。

日本の検察の誠が、まだ内部にあるなら。




デラシネの旗

いま虎ノ門界隈を始め、港区、中央区、渋谷区など、都内主要区では大規模都市開発が進行している。

三井住友不動産や森ビルが競うように複合型高層ビルを建設し、これに合わせた道路整備事業も加速している。

ぼくの住む乃木坂、赤坂周辺も道路拡張工事とマンション建設が続き、20年前の風景も次々に消えている。

新橋や虎ノ門で打ち合わせなどがあると、徒歩で乃木坂まで帰ることが多い。今日も夕刻のラッシュを避けて徒歩で乃木坂まで戻った。

その帰路の道すがら、溜池から六本木へと歩き、高層ビルを仰ぎながら、ふと、10代の頃読んだ、小説のタイトルを思い出した。

五木寛之の名作のひとつ。『デラシネの旗』。

デラシネとはフランス語で、根無し草、自分の居場所を持たない流れ者といった意味だ。初期から中期の五木寛之の作品の主人公や登場人物たちは、そうしたデラシネを生きる人々の物語だった。

過去に、あるいはいま、組織や権力から弾かれ、居場所をなくした人間たちが、挫折の中で出逢い、対立や葛藤の中で、それぞれの生き方や考え方を越え、ゆるやかに団結していく。そして、到底力及ばない、権力と癒着した大企業や大組織に立ち向かっていく…。勝つためではなく、旧来の制度的価値感や基準を揺るがすために。それによって、社会が自ら制度変更を目指すことを期待して…。

五木らしい正義感を背景に、巨大権力悪に敗北覚悟でドン・キホーテのように挑みかかる登場人物たちの姿は、甘く、頼りないロマンティシズムに溢れている。

甘く、頼りないものでありながら、しかし、当時は、これに多くの読者が共感し、大企業、大組織といえども決して善ならずという意識を共有することができた。

だが…。いまぼくが見上げている複合型都市開発から生まれた建造物で一日の大半を過ごす人々には、自らが所属する組織や集団を疑う人は決して多くはないだろう。


恵まれた立地と職場環境、充実した社会保障や福利厚生の中で、それを与えている組織と、組織を支えている現状の政治、制度に不満や疑問を持つ人は少ない。

社会へアンテナを張り、そうではない人々の実状を知って疑問を持つとしても、現状の変革ではなく、現状の枠組みの中のなにがしかの手当でそれは可能と考えている人たちが大半だ。

そして、じつは、そうした人々が、これだけ想像を絶する疑惑満載の政治状況を支え、多くの国民とは真逆に現政権と現状を支持している。

かつて、『デラシネの旗』を最も支持したのは、大組織、大企業、マスコミに属する知性的で社会認識の高い人々だった。学生時代から社会問題への関心が高く、社会人となっても、格差とそれによる社会階層の断絶が少なかったからだ。つまり、社会的問題が身近な人々の問題としてあったからだ。

自らの環境をすべてとせず、社会全体がどうであるかに目を向けることが良識としてあった。

甘い、頼りないロマンチシズムでは社会は変わらない。だが、同時に、知性と社会認識を持たない社会は社会そのものをダメにする。

デラシネの旗は、過去のだれもいない夜の風景の中で、月あかりだけを受けて、風にパタパタと音を立てて、ひとり屹立している。人々のだれかが、旗竿を強く握りしめて、空高く、掲げてくれることを期待して…。

















無恥の文化のいま

「こんな恥ずかしいことがよくできるなー」とか、「恥の上塗りをして、よく平気でいられるものだ」とかいった言葉をぼくらは口にする。あるいは、そういいたくなるような場面を目にする。

アメリカの文化人類学ルース・ベネディクトが『菊と刀』を上梓したのは、1946年。敗戦の1年後のことだ。じつは、ベネディクトは一度も滞日経験がない。

だが、綿密に日本の戦間期資料に当たり、欧米人からみたら、異様、異常にさえ思えた、自決、玉砕、特攻といった無謀な行為の裏側にある、日本人の精神性を見事に解析し、日本及び日本人の精神文化を世界に紹介する体系的な書籍を発表した。大きな参考資料になったのは、戦前、英訳版も出て、ベストセラーになっていた新渡戸稲造の『武士道』だ。

その柱にあるのが、日本人の根底にあった「恥の文化」だというのは、ご存じの方も多いだろう。気づいていない人が多いと思うが、いま、流行りの「おもてなし」もじつは、この「恥の文化」が生んだものだ。

人様に心地よく感じていただくためのサービスを提供するというのは、そうできないことを恥とする文化がぼくらにあるからなのだ。「後ろ指をさされる」ことのないようにする。それが、いま言葉がひとり歩きしている「おもてなし」の正体。

「恥の文化」を持つ自分たちに誇りを感じる人もいるわけだが、じつは、恐ろしく危険な文化性だ。正確には意図して、つくられた文化性といってもいい。

自決や玉砕、特攻を助長し、当然としたのは、陸軍大臣当時から東条英機が盛んに口にし、やがて、国民の常識とされた「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」。東条は日本人、日本の精神文化にあるもっとも同調しやすい、大衆意識を利用し、戦争での自決、玉砕に誘導した。

古くは、商人文化の商取引の慣例にあり、手形が割れない、商いに祖語がでる、横領事件を起こすといったことがあると、世間から弾かれ、後ろ指をさされる。そこで、自らいのちを断つという商人、奉公人文化が定着していた。近松門左衛門の心中物はほぼ、これを背景として描かれている。

恥には、縦社会の恥と横社会の恥がある。

上を守ための行為は恥じとされず、主君や権威、権力、組織への忠誠を示し、あっぱれとされた。逆に、上に忠誠を示さないことが恥とされる。これが縦社会の恥の文化だ。武家社会からあったものだが、組織を守ためには、下にいる人間が犠牲にされて当然という文化もここから生まれている。

同性者、近親者、身内親族、友人知人、同調する仲間といった横のつながりで恥をかきたくないというのが横社会の恥の文化。社会的立ち位置での縦関係ではなく、生活や仕事、地域のつながりや子どもつながりといった身近な生活のつながりで、当てにされ、信頼され、信用される者でありたい。そうできないことを恥とする。

「恥の文化」というと、美学の文化とはき違えている人も多いが、裏を返せば、恥をつきつけることで、だれかの存在を社会的に抹消することもできれば、それを利用して、意のままに、縦社会や横社会を動かすことができる代物だ。

いみじくも、ぼくらは、縦社会の恥の文化を利用している政権やそのリーダーと横社会の恥の文化を利用している総理夫人の姿をいま目の当たりにしている。

それは、無恥の文化だ。


人は己の無知に気づかなければ、無恥のままです。
同時に人は、どのような人であれ、仕事や生活を通じて他者へ影響を与えながら生きています。無知の集合体が無知を理解できず、それを正義の輪としたとき、私たちの社会、国家はまた何年か後、何十年か後、自分たちの国の生き方を恥としなければならないときがきます。(今週のOUT秀嶋賢人著より)


幻想としての国、社会

ぼくは、20年以上前からいっている。
 
国、社会といった公的概念は、人々が同じ幻想を共有し合うことで成り立っている。同じ規範、同じ倫理・道徳観を共有することで、法があり、法に基づき、社会制度やシステムが維持されているのだ。
 
欧米や中東など諸外国では、さらに、これに宗教が深く関与し、公的概念を宗教的概念が根幹で支えている。

人々に概ね共有された社会的、宗教的ルールが成立することで、国、社会は維持されているだけに過ぎず、じつは、人々のそうした共同幻想の上にからくも成立しているのが国、社会の実体に過ぎない。
 
言い換えれば、幻想の共有を維持するものがなくなれば、国、社会は、粘度の弱い地盤のように、果てしなく溶解し、法も秩序も、社会倫理や道徳も意味をなさなくなる。

国家の概念の形成過程で、この危機を回避するために、つまり、幻想を成立させるために、国民と治世者間に契約の概念を用いた。国は、国民、市民の生活の安全と保障、福祉を提供し、国民、市民は、その代償として、税と兵役の義務を負ったのだ。
 
これを双方が裏切れば、税、兵役の拒否が生まれ、生活保障と福祉は瓦解する。幻想としてあった国、社会の概念は崩壊し、犯罪、暴力、略奪が至るところに広がり、治世者の転覆につながる。フランス市民革命やロシア革命はその結末だ。
 
欧米、中東などの宗教国家では、大きな変革や内戦があっても新たなパラダイムへ移行し、からくも幻想を維持できる。共有できる宗教的概念があるからだ。
 
この国の大きな問題は、そうした溶解が起きたとき、欧米や中東など宗教国家のように、それをギリギリで支える宗教的概念がないことだ。かつては、天皇をそれとしてきたが、戦後、日本人にとって崇めるお父さんは、天皇から、もっと大きいお父さん、アメリカに変わった。

アメリカは天皇と違い、DNAにしみ込んだ天皇の概念とは真逆の存在で、精神性、つまり、社会倫理や通念、社会的ルールの規範をこれで補うことはできない。つまり、共同幻想とはなりえない。

いま、この国の政治、政権が戦後これほど、国、社会の公的概念を自ら壊し、からくもこれを維持してきた、人々の幻想、共有の社会倫理や通念、ルールを無視し、無効にしている時代はない。

幻想としての社会、国は、いま現実のものになっている。

政治は政治のためにあるのではない。政治は人のためにあるのです。国は国のためにあるのではない。国は人のためにあるのです。この根本があって初めて、人々は幻想とはいえ、社会を維持する一定のルールを幻想としてではなく、承認し、公民や公共財意識、国家への帰属意識が持てるのです。(今週のOUT秀嶋賢人著より)

 


 
 

簡単な問い

国の豊さとは何を基準とするのだろう…。人の幸せの基準って何なのだろう…。世界の安定は何を目指せばいいのだろう。

簡単な問いに、ぼくらは確かな答えを持っていない。

国の豊かさを成長率やGDPが示す時代は、もう終わっている。成長を実感できるのは、限られた人々のものであって、成長による富の再配分が機能しなくなっているからだ。これはこの国だけではなく、先進国すべてに当てはまる。

アダム・スミスが描いた資本主義の理想は瓦解している。

人の幸せが所得の増加だった時代も終わっている。所得が増えても、実質所得は減少している。正社員雇用が増えたのは、非正規雇用者を正規雇用にみせるため社会保険加入を促進したからだ。非正規雇用の実態は増加すらしている。

そもそも、正社員雇用自体が、人を幸せにできるものかどうかも疑わしくなっている。離職者、転職者の増加や過労死がそれを示している。

世界の安定のために軍事バランスが必要だという主張もそれが幻想だと証明された。世界の富の82%をわずか1%の人間が独占している。貧困や差別が生むテロは核でも、軍事力でも抑止できない。

この国の20歳~40歳未満の死亡率のトップは自殺(自死)だ。重篤な病気でも、事故でもない。これから国を、社会を担う世代が自分の未来や将来に希望を抱けない国。

いま、希望を失わせる国、社会、大人の姿が毎日テレビに流れている。政治の場だけではない、朽ち果てたテレビの報道バラエティにも溢れている。

それを変えるのは自分たちだ。だが、希望の持てる国、社会にするための挑戦には、希望がいるのだ。

若い世代の希望を奪い、社会への信頼を失わせ、疑惑の中で自殺者まで出しながら、何の非もないがごとく、ふるまう厚顔無恥な対応は、いったいだれが許しているのだろう。

簡単な問いを持ったことのない大人たちが、まだ、この国には半数以上いるということだ。そんな大人たちが、また今日も、若い世代を苦しめていることにも気づけずに。







犬の遠吠え

高齢化の波と格差の波が同時に進んでいる…ということに、ぼくらはあまりにも無頓着だ。

江戸末期、西欧諸国が脅威とすら考えた、この国。西欧化しかり、軍事力の近代化しかり、敗戦後の高度成長しかり。

システム変更といえば聞こえはいいが、要は、外圧からの刺激によって制度変更しただけのことなのだが、乗り換え方が極端で、素早い。

その理由は、過去の清算をまったくしないこと。清算しないから、切り替えが早い。だが、過去を清算しないままの形式上の乗り換えだから、本質的な変革がない。だから、安心して制度変更がやれ、その後、与えられた道を迷いないばく進が可能だということがある。

だが、成熟社会を迎えると、その方程式が通用しない。ゆるかに成熟社会を迎えた欧米に比べ、それがあまりにも早すぎたがゆえに、見本となる前例のない矛盾に突き当っているのだが、それに対して自覚がない。

高齢化と人口減少。さらに格差。これらへの処方箋をまったく持っていない。

だから、あの夢をもう一度みたいな、すでに終わった成長戦略をバカのように政権が唱え、これにまた先見性のない日銀や財界が後押しをする。労働人口の減少を高齢者の健康寿命の増進や女性の活躍といいながら、やっている施策は陳腐なものばかりだ。少子化対策も同じ。

陳腐の証明は、それがいくらやっても社会に定着していないことであからさまに示されている。それでもお題目だけは仰々しい。国家戦略特区だの、女性活躍社会だの…。しかもそれすら、不公平性の極み。一部の関係者への優遇策だっただけで、国内経済に寄与などひとつもしてない。

現状のままでいくと、20年後くらいには中高年の単身世帯が増大し、3人に1人は結婚しない社会がくる。世界でも例のない、高齢化と少子化、さらにはそれに追い打ちをかける格差が蔓延した社会がやってくる。対策としての社会保障は棚上げにされたまま、その日がやってくる。

旧来からのような行政区域や住民、一企業の努力だけでは、家庭、地域社会の問題を解決できないときに、これまでの血縁、地縁、金縁に頼った対策しか考えられない連中が政治、経済を仕切っていれば、当然ながら、次のパラダイムへ行けるはずもないのだ。

国内対策も万全にできていない政権が、外交の檜舞台にあがりたいと子ども染みて成果があがっているように、みっともない饒舌さでまくしたてている。

政財界に不正が蔓延し、国民生活がひっ迫する。そのくせ利権と結びつく軍事費や機密費が増大する…昭和11年なら、クーデーターが起きている。

だが、問題なのは、若い世代を中心に、将来不安や希望格差を持ちながら、こうした政治や経済のしくみを根底から変えていく発言や行動が生まれていないことだ。

個人の努力があれば、自立する意志があれば、世界はいかようにもいい方向に進む。それで片がつくような問題ではない。また、その言葉にあるのは、そうできない個人は切り捨てる社会を容認するという、己が安泰のうちだけいえる、犬の遠吠えに過ぎない。

それがわかるときが、もうすぐそこにきている。


ツケ

宮澤賢治は一度、現実から逃避したことがある。

父との確執から上京。信奉する法華経の勉強の傍ら、のちに発表される童話の多くをモラトリアムなその時期、書き綴った。

東京での生活苦と妹とし子が肺病にならなければ、きっとそのまま東京で過ごし、農業指導者としての賢治は誕生しなかったかもしれない。

帰郷した賢治は、それでも再び上京することを考えていた。それを引き留めたのは、とし子の言葉だ。

「賢治兄ちゃんさ。法華経こそ人を救うと言い張るけんじょ、兄ちゃんのやってるこだぁ、あべこべだべ。法華経は、いま目の前にいる人を救う教えだべ。だば、なして、花巻、盛岡、自分が生まれ、育った土地で困っている、東北の農家の人だち見捨ててるんだ?」

賢治にしてみれば法華経修行のための遊学だった。そこには生活苦もあった。その苦の中で、自分は救いの修行をしているつもりだったのだ。

だが、とし子は、現実に塗れ、苦しむ人に寄り添ってこそ救いなのだと賢治を折伏させたのだ。そして、とし子のいう通り、賢治の心のどこかに、父との確執を理由に、東北の現実から逃避している自分がいることに賢治は気づく。

いま目の前にある課題、いまそこにある苦しみに対して何ら手を施さず、距離を置き、童話を書きたい、詩を発表したいという利己の心が自分の中にあることを自覚したのだ。

とし子の死によって、賢治はそれまで以上に身を削るように東北の貧農のための取組に没頭し、とし子の後を追うように亡くなっている。

いま、この国の政治の腐敗は底なしだ。虚偽と欺瞞に満ちた政権は無論のこと、それを擁護する連中が厚顔無恥に隠蔽や言い逃れ、反対を唱えるものを強圧的にパッシングする。海外の良識ある人々が見たら、民主主義が根底から壊れている最低国の極みだ。

だが、そうした政治や社会の現実から距離を置き、無党派といわれる多くの人たちが、自分のやりたいことさえつづがなく、滞りなく実現でき、自分の生活が安泰ならば、それでいいと考えている。

政治や社会とコミットすることがまるで、大きな不利益をもらすかのように。政治や社会の課題に意見を述べ、政治を糾すことが邪なことでもあるかのように。

自分や自分の仲間たちの楽しい時間に埋没していることで、社会的な役割を果たしているような気になっている。

だが、それは、とし子にいわせれば、いま目の前にある課題、自らが生まれ、育ったこの国の課題から目を背け、現実から逃避していることだ。

そのツケは、あなたたちが払うか、払わないで済むとしたら、あなたの子ども、あなたの後の世代があなたの想像もしなかった大きな、大きなツケを払わされることになる。

あなた自身が

ぼくらは普段、憲法を意識していない。

人によっては、憲法の条文をまともに読んだことのない人もいるだろう。中学や高校で学んだはずなのだが、全く覚えていないという人もいるに違いない。

確かに、日々の生活で憲法を意識することも、憲法を知っていないと日々の暮らしですぐに行き詰まるということもないかもしれない。

だが、その意識しないでいられる生活を根底で支えているのは、じつは憲法なのだ。日々の生活が平穏である場合、あるいは、試練や困難があっても、乗り切れる程度のものであれば、憲法は人々に強く意識されることはない。

そっと、ぼくらを守ってくれている。それが憲法だ。

だが、もしあなたが、職場や学校、家庭、地域社会で、乗り越えられないほどの困難や試練にぶつかったとき、あるいは、偶発的であれ、必然であれ、犯罪や事件に巻き込まれたとき、家族に介護を必要とする者を持ったとき、自分の尊厳や権利が蹂躙されたとき…

その救いと保障を与えてくれるのは憲法なのだ。平時にあってではなく、何か事あるとき、ぼくらを守り、生活を保障し、人として生きる権利とぼくらの次の世代、またその次の世代が生きる未来を守るのが憲法だ。

どの国においても、憲法の条文がそのまま国のあり方、国民生活に反映している国などない。現実は、憲法の条文に謳われた理想を達成してはいない。

憲法は、第一義として、まず、日々の生活の中で、また、刑法や民法、商法などの法律の制定や施行、改正によって、その理想を実現しなくてはいけないものなのだ。

そして、その意志と決断は、国民であるぼくらひとりひとりのものだ。決して、国会議員のものでも、政党のものでも、まして、内閣総理大臣のものでもない。

そもそも国会議員が国民の代表者であるという憲法の前提は、すでに壊れている。

ひとつには、国民の総意を反映できていない、一票の格差。これは最高裁違憲と指摘している。ひとつには、国民の半数以下の投票率。そして、もっとも問題なのは、小選挙区制度と比例区という国会議員の選出法。

投票率が低いほど、大規模政党、組織票を持つ政党が圧倒的に政権を維持できるという乱暴な制度だ。この制度は、無党派層の政治への関心を弱めている。一票の有効性を確信できなくさせているからだ。

ずぶずぶの選挙制度と旧来からの地域エゴや企業エゴ、利権と結びつく政治では、あまなねく国民の声を代表する国会議員などわずかしか当選などできるはずがない。

もちろん。その責任は主権者である国民にある。憲法の理想を実現しよう。理不尽な社会状況、不条理な生活を自らの権利として改善しよう。そうした意志を絶えず持ち続けることで憲法は守られる。

自らを守る憲法は、自ら守ることによって憲法足りえ、民主主義・平和主義・基本的人権の保障を謳う世界に誇る日本国憲法足りえるのだ。

あなたがこの憲法記念日にさえ、憲法を意識しないでいられるのは、その世界にも類をみない3本柱の憲法が、あなたを守っているからであって、これが壊されることは、あなた自身があなたを守るすべを失うことを意味している。










少しずつ勝つ。

高校生のときだ。「北朝鮮のミサイルが日本の米軍基地に発射された!」というデマが流れたことある。

いまの福岡に住む人にはわからないだろうし、基地のある町に住んだことのない人たちにもわからないだろう。

福岡空港が板付空港といわれ、空港の半分が米軍に占領されていた時代だ。いま全日空ホテルが建つ、志賀島に続く、和白には米軍の演習場があり実弾訓練がされていた。

郊外の春日原、白木原などかつて陸軍の基地だった場所は米軍基地だったし、いわゆるハウスといわれる米軍兵家族の家々も並んでいた。ちなみに、ぼくは、そのあたりで、中学、高校時代を生きた。

歌手のMISAがそのハウスで声楽や英会話の勉強をしていたことは知られている。上智大へ進み、いまは某大学の英語科教授になっている高校時代の友人も中学生のときから基地で英語の勉強をしていた。

貧しかった中学時代の同級生の姉は、米兵のオンリー(ひとりの決まった米兵しか相手にしない専属娼婦)だった。

基地があるという中で、突然起きたデマを、だから、ぼくらはデマとは思えなかった。

「戦争が始まる…」。「ミサイルは福岡を標的にしているらしい…」そう思ったときの恐怖感はいまでもはっきり覚えている。朝鮮半島からそう遠くない土地に住んでいる人間は、「やられるなら、ここだろうな」と思い込む地理的環境が整っていた。

ぼくら福岡の人間にとって、そこは生活を共にする人たちの母国であり、すぐそこの異国だった。

そして、半島でまた、戦争が起きるかもしれないという恐怖心の根本にあるのは、だれもが戦争は絶対いやだという切実な思いだった。基地があることで緊張があったとしても、この平穏な暮らしが続かなることだけは、いやだ! と、本気で思ったのだ。それは自分たちの未来がなくなることだから。

今日、南北首脳会談が和平へ向けた朝鮮半島の非核化で合意した。

ここに至るまで、ナントカ評論家やタレント弁護士、タレント評論家たちが圧力、圧力と安倍総理を擁護するように叫んでいた。トランプの圧力外交の先に、まるで戦争が起きることを望むかのように。安保法案の正当性、憲法改正の現実を形にすることを望むように。

そして、南北会談、米朝会談が開催されそうになると、圧力路線は堅持した方がいいと安倍総理の幼稚な国難騒ぎに同調してきた。

この数ヶ月の北朝鮮の急転直下の変質は信じられないと、彼らは驚きと警戒心、猜疑心をむき出しにしてきた。

安倍総理にいたっては、平昌オリンピックで文大統領に圧力優先で、会談は控えてはと言い出し、内政干渉だと突っぱねられている。まさに手前勝手な主戦論内政干渉だ。

朝鮮半島朝鮮民族が日本の占領から自由になった瞬間、大国の利害関係で、民族同士、兄弟同士、家族間で殺し合いをし、70年の分断の歴史をどのような思いで生きてきたのか。まったく、理解していないし、考えてもいない。(韓国映画ブラザーフッド」にその詳細が描かれている)

もっとも戦争をしたくないのは、だれでもない、半島にいない人も含め、朝鮮民族、その人たちなのだ。

危機が強まれば、かつてぼくらが戦争は、絶対にいやだ!と恐怖感の中で感じた幾倍もの思いを持っている。戦争を選択するくらいなら、苦難や失敗、挫折や批判があっても、民族の悲願である統一へ向けた行動をとりたい。そう思って、何の不思議があるだろう。

もちろん。それは簡単なことではない。それでも民族同士が話し合い、そのための一歩を踏み出そうとすることに、他国があれこれ口出しすることではない。成功も失敗も挫折も、すべてはその民族が決め、行動することだ。

その目標が世界平和や地域の安定に寄与するのであれば、非難するのではなく、どう手助けができるか、そのために何が自分たちにできるかを考えよ。

自国の利益や問題を優先するのではなく、まず、自らが明治以後、半島に強いてきた理不尽な支配の反省に立ち、彼らのためにできること、彼らの自立と統一へ向けた行動が成功するために、彼らの行動を邪魔するのではなく、前へ進められる働きをすることだ。

批判することはだれにでもできる。笑うことはだれにでもできる。一番難しいのは、それでも理想へ向けて、小さな一歩を未来を信じて、歩み出すことだ。

一度に、一気に解決できる問題などない。人にできるのは、敗北を重ねながら、あきらめず、少しずつ勝つことだ。










だって、わたし、悪くないもん!

だって、わたし、悪くないもん!

このところ、ぼくらの回りには、言葉にするにせよ、しないにせよ、そう思う人が増えているような気がする。

自分は悪くない。それは加害者ではないという主張だ。果ては、私は悪くない、ほかの誰かが悪いのだという被害者意識にすり替えられてくる。               

このすり替えられた被害者意識…。実は、相当にやっかいな代物だ。本当は、加害者なのに、自分が被害を受けている側だと主張し始める。

自分を被害者にしてしまうことで、加害者という自覚、加害者である事実を帳消しにしてしまうのだ。すり替えとは、自分を守ための置換作用、心の働きのことだ。 

やっかいだというのは、そう開き直ると、辻褄の合わない被害者としての屁理屈、ごまかし、まやかしが本人には至極、理にかなった正当な理屈、事実に思えてくる。

これ、じつは、自己愛性人格障害によくみられる傾向だ。

まず、自分を守るためには、平気で嘘をつく。次に、加害者としての責任を人や環境に転嫁する。つまり、だれかを身代わりの加害者に仕立てる。だれかでなければ、取り巻く条件や組織のせいにする。社会や社会システム、制度のせいにする。

自分は悪くない、自分は正しく、加害者の側だと思い込むから、人の意見や忠告を聞き入れないばかりか、それが嘘だと指摘されると猛烈に反発し、圧力すらかける。

社会的な立場があり、地位や権力を持つ者が、これだと収拾はつかない。そもそも、自己愛性人格障害者は、陰湿で、狡猾、つまり、きわめてずる賢い。ねちねちした圧力をかけ、隷従せざるえないように誘導するのかうまい。

とにかく、否定に弱く、その弱さが強圧的な言動になる。そうなるのがやばいと思うと、平静さを装うために、自分の嘘を棚に上げて、第三者のようなふるまいを平気でできてしまう。

一方で、鬱傾向が強く、追い詰められると精神的に破たんしていく。そうした危機を感じると、自分をほめそやす人や自分を評価してくれていると思える、自分より力のある人にすり寄る。

どうだろう。どこかの国の首相や閣僚、官僚の姿に重ならないだろうか。政治、行政の中央が自己愛性人格障害者ばかりでは、国の未来、将来など覚束ない。

それを正しく評価できない国民は、一層、末期的だ。だけど、彼らは口をそろえていうだろう。

だって、わたし、悪ないもん!   

そこにまともな理屈も、理論も理念も、なにもない。国民のことも、国のことも、お題目として言葉にするだけで、結局は、すべて自己愛がいわせている。

つまりは、国の、政治の、税金の私物化。