デラシネの旗
三井住友不動産や森ビルが競うように複合型高層ビルを建設し、これに合わせた道路整備事業も加速している。
ぼくの住む乃木坂、赤坂周辺も道路拡張工事とマンション建設が続き、20年前の風景も次々に消えている。
新橋や虎ノ門で打ち合わせなどがあると、徒歩で乃木坂まで帰ることが多い。今日も夕刻のラッシュを避けて徒歩で乃木坂まで戻った。
その帰路の道すがら、溜池から六本木へと歩き、高層ビルを仰ぎながら、ふと、10代の頃読んだ、小説のタイトルを思い出した。
デラシネとはフランス語で、根無し草、自分の居場所を持たない流れ者といった意味だ。初期から中期の五木寛之の作品の主人公や登場人物たちは、そうしたデラシネを生きる人々の物語だった。
過去に、あるいはいま、組織や権力から弾かれ、居場所をなくした人間たちが、挫折の中で出逢い、対立や葛藤の中で、それぞれの生き方や考え方を越え、ゆるやかに団結していく。そして、到底力及ばない、権力と癒着した大企業や大組織に立ち向かっていく…。勝つためではなく、旧来の制度的価値感や基準を揺るがすために。それによって、社会が自ら制度変更を目指すことを期待して…。
五木らしい正義感を背景に、巨大権力悪に敗北覚悟でドン・キホーテのように挑みかかる登場人物たちの姿は、甘く、頼りないロマンティシズムに溢れている。
甘く、頼りないものでありながら、しかし、当時は、これに多くの読者が共感し、大企業、大組織といえども決して善ならずという意識を共有することができた。
過去に、あるいはいま、組織や権力から弾かれ、居場所をなくした人間たちが、挫折の中で出逢い、対立や葛藤の中で、それぞれの生き方や考え方を越え、ゆるやかに団結していく。そして、到底力及ばない、権力と癒着した大企業や大組織に立ち向かっていく…。勝つためではなく、旧来の制度的価値感や基準を揺るがすために。それによって、社会が自ら制度変更を目指すことを期待して…。
五木らしい正義感を背景に、巨大権力悪に敗北覚悟でドン・キホーテのように挑みかかる登場人物たちの姿は、甘く、頼りないロマンティシズムに溢れている。
甘く、頼りないものでありながら、しかし、当時は、これに多くの読者が共感し、大企業、大組織といえども決して善ならずという意識を共有することができた。
だが…。いまぼくが見上げている複合型都市開発から生まれた建造物で一日の大半を過ごす人々には、自らが所属する組織や集団を疑う人は決して多くはないだろう。
社会へアンテナを張り、そうではない人々の実状を知って疑問を持つとしても、現状の変革ではなく、現状の枠組みの中のなにがしかの手当でそれは可能と考えている人たちが大半だ。
そして、じつは、そうした人々が、これだけ想像を絶する疑惑満載の政治状況を支え、多くの国民とは真逆に現政権と現状を支持している。
かつて、『デラシネの旗』を最も支持したのは、大組織、大企業、マスコミに属する知性的で社会認識の高い人々だった。学生時代から社会問題への関心が高く、社会人となっても、格差とそれによる社会階層の断絶が少なかったからだ。つまり、社会的問題が身近な人々の問題としてあったからだ。
自らの環境をすべてとせず、社会全体がどうであるかに目を向けることが良識としてあった。
甘い、頼りないロマンチシズムでは社会は変わらない。だが、同時に、知性と社会認識を持たない社会は社会そのものをダメにする。
デラシネの旗は、過去のだれもいない夜の風景の中で、月あかりだけを受けて、風にパタパタと音を立てて、ひとり屹立している。人々のだれかが、旗竿を強く握りしめて、空高く、掲げてくれることを期待して…。