秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

無恥の文化のいま

「こんな恥ずかしいことがよくできるなー」とか、「恥の上塗りをして、よく平気でいられるものだ」とかいった言葉をぼくらは口にする。あるいは、そういいたくなるような場面を目にする。

アメリカの文化人類学ルース・ベネディクトが『菊と刀』を上梓したのは、1946年。敗戦の1年後のことだ。じつは、ベネディクトは一度も滞日経験がない。

だが、綿密に日本の戦間期資料に当たり、欧米人からみたら、異様、異常にさえ思えた、自決、玉砕、特攻といった無謀な行為の裏側にある、日本人の精神性を見事に解析し、日本及び日本人の精神文化を世界に紹介する体系的な書籍を発表した。大きな参考資料になったのは、戦前、英訳版も出て、ベストセラーになっていた新渡戸稲造の『武士道』だ。

その柱にあるのが、日本人の根底にあった「恥の文化」だというのは、ご存じの方も多いだろう。気づいていない人が多いと思うが、いま、流行りの「おもてなし」もじつは、この「恥の文化」が生んだものだ。

人様に心地よく感じていただくためのサービスを提供するというのは、そうできないことを恥とする文化がぼくらにあるからなのだ。「後ろ指をさされる」ことのないようにする。それが、いま言葉がひとり歩きしている「おもてなし」の正体。

「恥の文化」を持つ自分たちに誇りを感じる人もいるわけだが、じつは、恐ろしく危険な文化性だ。正確には意図して、つくられた文化性といってもいい。

自決や玉砕、特攻を助長し、当然としたのは、陸軍大臣当時から東条英機が盛んに口にし、やがて、国民の常識とされた「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」。東条は日本人、日本の精神文化にあるもっとも同調しやすい、大衆意識を利用し、戦争での自決、玉砕に誘導した。

古くは、商人文化の商取引の慣例にあり、手形が割れない、商いに祖語がでる、横領事件を起こすといったことがあると、世間から弾かれ、後ろ指をさされる。そこで、自らいのちを断つという商人、奉公人文化が定着していた。近松門左衛門の心中物はほぼ、これを背景として描かれている。

恥には、縦社会の恥と横社会の恥がある。

上を守ための行為は恥じとされず、主君や権威、権力、組織への忠誠を示し、あっぱれとされた。逆に、上に忠誠を示さないことが恥とされる。これが縦社会の恥の文化だ。武家社会からあったものだが、組織を守ためには、下にいる人間が犠牲にされて当然という文化もここから生まれている。

同性者、近親者、身内親族、友人知人、同調する仲間といった横のつながりで恥をかきたくないというのが横社会の恥の文化。社会的立ち位置での縦関係ではなく、生活や仕事、地域のつながりや子どもつながりといった身近な生活のつながりで、当てにされ、信頼され、信用される者でありたい。そうできないことを恥とする。

「恥の文化」というと、美学の文化とはき違えている人も多いが、裏を返せば、恥をつきつけることで、だれかの存在を社会的に抹消することもできれば、それを利用して、意のままに、縦社会や横社会を動かすことができる代物だ。

いみじくも、ぼくらは、縦社会の恥の文化を利用している政権やそのリーダーと横社会の恥の文化を利用している総理夫人の姿をいま目の当たりにしている。

それは、無恥の文化だ。


人は己の無知に気づかなければ、無恥のままです。
同時に人は、どのような人であれ、仕事や生活を通じて他者へ影響を与えながら生きています。無知の集合体が無知を理解できず、それを正義の輪としたとき、私たちの社会、国家はまた何年か後、何十年か後、自分たちの国の生き方を恥としなければならないときがきます。(今週のOUT秀嶋賢人著より)