秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

幻想としての国、社会

ぼくは、20年以上前からいっている。
 
国、社会といった公的概念は、人々が同じ幻想を共有し合うことで成り立っている。同じ規範、同じ倫理・道徳観を共有することで、法があり、法に基づき、社会制度やシステムが維持されているのだ。
 
欧米や中東など諸外国では、さらに、これに宗教が深く関与し、公的概念を宗教的概念が根幹で支えている。

人々に概ね共有された社会的、宗教的ルールが成立することで、国、社会は維持されているだけに過ぎず、じつは、人々のそうした共同幻想の上にからくも成立しているのが国、社会の実体に過ぎない。
 
言い換えれば、幻想の共有を維持するものがなくなれば、国、社会は、粘度の弱い地盤のように、果てしなく溶解し、法も秩序も、社会倫理や道徳も意味をなさなくなる。

国家の概念の形成過程で、この危機を回避するために、つまり、幻想を成立させるために、国民と治世者間に契約の概念を用いた。国は、国民、市民の生活の安全と保障、福祉を提供し、国民、市民は、その代償として、税と兵役の義務を負ったのだ。
 
これを双方が裏切れば、税、兵役の拒否が生まれ、生活保障と福祉は瓦解する。幻想としてあった国、社会の概念は崩壊し、犯罪、暴力、略奪が至るところに広がり、治世者の転覆につながる。フランス市民革命やロシア革命はその結末だ。
 
欧米、中東などの宗教国家では、大きな変革や内戦があっても新たなパラダイムへ移行し、からくも幻想を維持できる。共有できる宗教的概念があるからだ。
 
この国の大きな問題は、そうした溶解が起きたとき、欧米や中東など宗教国家のように、それをギリギリで支える宗教的概念がないことだ。かつては、天皇をそれとしてきたが、戦後、日本人にとって崇めるお父さんは、天皇から、もっと大きいお父さん、アメリカに変わった。

アメリカは天皇と違い、DNAにしみ込んだ天皇の概念とは真逆の存在で、精神性、つまり、社会倫理や通念、社会的ルールの規範をこれで補うことはできない。つまり、共同幻想とはなりえない。

いま、この国の政治、政権が戦後これほど、国、社会の公的概念を自ら壊し、からくもこれを維持してきた、人々の幻想、共有の社会倫理や通念、ルールを無視し、無効にしている時代はない。

幻想としての社会、国は、いま現実のものになっている。

政治は政治のためにあるのではない。政治は人のためにあるのです。国は国のためにあるのではない。国は人のためにあるのです。この根本があって初めて、人々は幻想とはいえ、社会を維持する一定のルールを幻想としてではなく、承認し、公民や公共財意識、国家への帰属意識が持てるのです。(今週のOUT秀嶋賢人著より)