秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

それぞれの前提

ぼくらは、人とのかかわりや社会、国、世界とのかかわりにおいて、いろいろな前提を生きている。

だけど、この前提ってやつが、やっかいな代物だ。

何を基準として、それぞれが前提を生きているのか。じつは、それがはっきりしない。はっきりしないどころか、明確な基準がない。

自分がそう思うから、きっと他の多くの人も同じように考えているに違いないとする前提もあれば、自分と意見を同じにする人たちの中では、当然のこととされているのだから、きっと当たり前のはずだ…とする場合もある。だれかに言われたからそうしたとする前提もあるかもしれない。

あるいは、この前提のもとで自分も、人も動けば、自分にとって都合がいい結果が生まれるはずなので、それに従うべきだという身勝手な前提もあるだろう。

あらかじめ共有されているであろう、物事を進める上で、判断、決定する上での条件が、ことほど左様に、曖昧なのだ。

かつては、曖昧ながら、自明のこととして共有されていた前提が壊れ、ぼくらはいま、それぞれが勝手にそれぞれの前提を設けるようになった。

他者とのかかわりにおいても、地域とのかかわり、社会とのかかわり、国と国とのかかわりにおいても、かつて、前提されていたもの、あらかじめ共有されていると認識されていたものが、いま大きく揺らいでいる。

前提というのは、前へ進むために、あるいはよりよいものにするために、互いに共有する考えや決まりのことだ。

自分はこうしたい、相手はこうありたい。その差異や相違を認識した上で、どう調整し、どう運ぶのか。どういう結果になっても、なにがしかの道を探り、テーブルから降りないために、わざわざ設けるものだ。

前提から狂っていれば、後々、双方が大きな禍根を残すことになる。曖昧なままにしておくと、えっ!どうして!という騒ぎや失望、落胆、怒りをつくる。

それだけならいいがそれまで積み上げてきたもの一切が意味を失い、無駄になる。いずれかが傷つくか、双方が傷つき合うことになる。再調整できればいいが、そこには以前より以上のエネルギーが求められることになる。

費やされた時間、失われたコスト、エネルギー…。それはいいとして、そこにあった熱意や思いといったものまで蹂躙されている。

しかも、前提から違うのだから、双方が前提が違うと相手を批判し合い、そこで不毛な議論をすることになりかねない。

簡単にいえば、ボタンの掛け違い。それはよくあることだとしても、いまぼくらに問題なのは、それにだれも気づかなくなっているのではないか…という怖さだ。互いを応酬するばかりで、掛け違っているボタンを直せば済むことが、それで終わらなくさせている。

日本大使館前の少女像設置への対応しかり、トランプ氏のとてつもない理不尽な前提しかり、プーチン計算高い前提しかり。それらに翻弄されている日本の外交の、相手の求める前提を理解できてない姿しかり。

複雑にするのは、させるのは、いつも思慮、分別、人の思いを理解できない無知な人だ、人間だ。