秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ビジュアルを持て

自分のやりたいこと、こうありたい、成りたいと思うことがあったら、それが達成されたときの姿を映像化することだ。
 
映像化といっても、あたかも現実の出来事のように、詳細に、具体的に描くことだ。
 
よく、イメージトレーニングでいわれることだが、よくあるイメージパースのような曖昧な画像ではダメ。

なぜか。
それは、達成のイメージの具体性に欠けるから。
 
自分や自分が求めている世界を報道やドキュメンタリー、ドラマのような動画の画像として持つためには、先ほどいったように、リアリティが必要になる。
 
大事なのは、ただ漠然とイメージするのではなく、確かにありえるという形にまで具体化できているかどうか。目標達成のビジュアルにリアリティがあるかどうかだ。

それが結果的に、いま、そして次に、さらに、その次に何をしなくてはいけないか、何を準備しておかなくてはいけないかを教えてくる。曖昧なイメージのレベル、なんとなくでは、それが見えて来ない。

イベントでも、映画やテレビでも、あるいは舞台やパフォーマンスでも、コンサートでもいい。腰砕けになっていたり、細かいところまで目が行き届いてなくて、ズブズブで終わるのは、ほぼ、それをやろうとした時点で、このイメージがつくられていない。やる人間に、リアリティが見えていないからだ。

私は15歳の頃から、自然とそれをやるようになった。

意図してやる人もいるのだろうが、私の場合、どうしてもこれをやりたいという強い願いにまで高まってくると、自ずと完成、達成したときの具体的なビジュアルが見え、それを実現するための数式が浮かび、浮かんだときには、即、行動に移している。

机上で議論したり、計画を練って生み出すというのは、だから、正しくない。議論や計画のための討論が必要なのは、行動に移す段階での実質作業をどうするかというレベルのものだ。

おそらく、そうした具体的ビジュアルイメージを動画で持てる人は、そう多くない。だから、私に見えている風景は、映画や舞台のスタッフであっても、何度も仕事や活動を共にしてきた仲間でも、すぐには見えない。
 
だが、それでいいのだ。具体的な行動をしていく中で、自ずとビジュアルは共有されていく。大事なのは、取り掛かる最初にある、なぜ、どうしてやらなければならないのか、そして、それはどうしていまでなければならないのか。その必然の共有だ。

大方、うまくいかないそれらは、「なぜ」「どうして」「どうしていまでなくては」「どうしてそこでなくては」…が間違いなく、欠落している。必然性がない。それがないということは、リアリティを支える共感の共有もないということだ。

いま私の前には、いくつかの具体的ビジュアルがある。それはすべてに理解されてはいないだろう。だが、私や私の仲間たちには、その進むべき、必然性だけは共有できている。