秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ほんとの月と正直者

人の心は、地上から仰ぐ、月のようにおぼろげで、覚束ないものだ。

人の心に限らず、ぼくらが普段、認識している、あらゆる事象も、事物も、じつは、おぼろげで、覚束ないものでしかない。かつては文学が、いまでは脳科学や宇宙物理学がそれを証明している。

ぼくらは、互いのコミュニケーションを維持するために、とりあえず、おぼろげで、覚束ないものに明確な輪郭や形状、色彩や数字、言葉としての記号を与えているのに過ぎない。

だから、コミュニケーションというのは、人の気持ちや事象、事物がおぼろげなものなのだという前提で、情報共有のために、便宜的に、輪郭や形状、色彩や数字、記号としての言語があるのだと認識できることから始まる。

おぼろげで、覚束ないものだからこそ、いろいろなツールを駆使し、より深く他者や環境を知ろう、たどりつこうとすることができるからだ。それが結果として、他者や環境への認知、認識を高めることにつながっていく。

だが、この足し算によるアプローチは、残念な結末をぼくらに突き付ける。

他者や環境は、どうスキルを高めても、完全な認知も、認識もできないからだ。知ろう、わかろうとした瞬間から、ぼくらに明らかになるのは、それ以上に膨大、無辺な未知や暗部がよこたわっていることだ。

そのとき初めて、ぼくらは気づくのだ。おぼろげで、覚束ないものは、正確な認知や認識がでなくとも、そのままでも十分に感知できるのだということに。そう、月に物語や心象を映すときのように…。

今週前半は、AIの講演会や演劇のトークショーに立て続けに参加した。縁あって参加した会だけれど、まったく分野の違うそれらの内容の根底にあったのは、そんなことだとぼくは感じている。

ぼくらは、このところ、すっかり勘違いをしてしまっていて、おぼろげで、覚束ないものは、すべて、輪郭や色彩、数字や記号としての言語によって、認識できるものだと思い込んでいる。

yesかnoか。白か黒か。プラスかマイナスか。得か損か。正しいか正しくないか。善か悪か。右か左か。コンピュータ言語のように、010101の数列を壊さないように、世界をわかりやすく認識するために、認知のためのシグナルを狭めてきたからだ。

多様性と選択肢が広がるほど、情報が膨大になるほど、先行きが不透明であるほど、物事はおぼろげに、覚束なくなる。それを避けるために、ぼくらは、認識のシグナルを削っていく。簡潔さではなく、簡略化のために。

そして、見えないものを量産していく。おぼろなもの、覚束ないものを認識からはずしていく。それがかえって、世界を認識する力を弱めることに気づかずに。

曖昧さゆえに見えてくる輪郭も、余白が浮かび上がらせる事象や事物のゆるぎなさも、曖昧さや余白があるからこそ生まれてくる、しなやかさ、寛容さ、深さも…。

明確な答え、しっかりした安心できる解答を人々は求め、同時に、人々は、それに応えようと不正直になる。

おぼろで、覚束ないものは、他者を不安にさせ、解答のない状態をつくってしまうことがわかっている。そこで、簡略化されたシグナルを選び、おぼろげで、覚束ないものを遠ざけ、混乱のない正直者をよそおう。

いま、ぼくらの世界は互いに簡略化したレッテルを貼り、殺し合いをし、レイプや略奪を繰り返し、たくさんの難民を生んでいる。

国の政治も、複雑さを避けるための簡略化した言語ゲームのようだ。経済も辻褄合わせの簡略化がまかりとおっている。人々の他者とのかかわりやつつながり方も関係を簡略化できる正直者をよそおった不正直さがないと凌げない。

AIの講演で、AIの未来に幻想を抱く人々にその限界性を伝えたのは、身体の問題だった。フッサールやメルロポンティがすでに指摘している。演劇のトークショー野村萬斎が語ったのは、日本の伝統芸能の身体性にある引き算の表現の海外での有効性だ。

あらん限りのツールを身にまとい、足し算で物事がうまくいくと考え違いをしていることへの警鐘のようにぼくには聞こえた。それは経済を大きく、武力を大きく、そのために、おぼろげで、覚束なくするものを排除していく、いまの世界、国の姿に見えないだろうか…

素手と身体だけで、人と空間と世界と向き合う。そのために余剰をそぎ落とす。その先に、ぼくらは、ほんとの月に出会えるのだ。きっとその瞬間、ぼくらは、人にも、世界にも正直な気持ちになれている…。