秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

中途半端な思い切り

子ども頃、よく親にも、教師や先輩にも、「中途半端なことはするな!」と叱られた。

やるなら、やる。やらないなら、やらない。やりもしないで、あきらめる。やっていても、途中で投げ出す。やっているのに、ほかに気をとられる。あれもこれもと手を出す。

いわば、思い切りの悪さだ。その背後には、不安がある。

高校生の頃だったか、別役実作のテレビドラマを観ていたら、姉が、「なんか、こうはっきりせんドラマ、すかん!」とつぶやいた。ぼくは笑いそうになった。なんでも白黒つけたがった当時の姉の性格がそういわせているのがよくわかったからだ。

姉は、別役実の世界が思い切りのない、中途半端な世界に思えたのだろう。

だけど、別役実の独特の曖昧で、頼りないセリフや展開は、決して、中途半端に曖昧に描いているのでもなく、はっきりしてないのでもない。明確な基準や価値を見いだせない、方向を見いだせない人の本質、不安を思い切りよく、描いているのだ。

これは、演劇に詳しい人ならわかるだろうが、別役実は、ものすごく、ベケットに影響を受けている。ベケットの世界も、じつに曖昧で、中途半端で、よくわからない、不協和音に聞こえる。そのため、じつに和訳が難しい。だが、それに徹底した明確な思想と信念、つまり、思い切りがある。

別役の戯曲は、英訳が途轍もなく難しいだろう。だが、物事の本質をつかまえようとすれば、じつに中途半端な表象になるものだ。あるいは、沈黙。ぼくの芝居や映画でもそうだが、「……」という返事が多い。

シェースピアは饒舌な芝居だと思われているし、その饒舌さがじつにうまい。だが、シェークスピアを原書で丹念に読めば、いかに「間」、沈黙の時間が大事かがわかる。

語ろうとして、語りえないものを人は持っている。その現実、人の現実を、自分にもあるそれを認めることができないと、どうしてそこで、「……」なの!と、イライラすることになる。

物事の本質も、人の心も、ぼくらはよく気づいていないが、生理的には理解しているはずだ。「そこにある」のではなく、言葉を費やせば現れるのでもなく、「浮かびあがる」のだ。

ぼくらは、このところ、ウソでも、マコトでも、明確な言葉、明るい言葉、あるいは、そうした人たちであろうとしているような気がする。明確さは必要だし、明るさもいるだろう。

けれど、それを求めるあまり、沈黙が語る人間の心象や言葉にしない、できない者の痛みや悲しみ、苦しさといったものをわかろうとしていないのじゃないだろうか…
わかろうとするどころか、わかる、知るというアンテナも鈍化していっているじゃないだろうか…

それは、じつに、この世の、物事の本質を皮相でしか、外見や外聞や表向きの言葉や姿でしかわかろうとしていないことじゃないのだろうか。

思い切りのよさは大事だし、ぼくも心掛けてはいるけれど、ほんとの思い切りのよさっていうのは、ぼくらが思っているようなことじゃない。

イギリスがそうであったように、アメリカがそうであったように、いまフランスでも、思い切りのよさが大衆の心をつかんでいる。沈黙を嫌い、ただ饒舌であることが思い切りのよさ、気持ちよさのようにされて…

ロシアに、アメリカに、中国に、右往左往しているこの国も、右往左往するほどに、思い切りのいい中途半端さではなく、経済、金、富、外聞に翻弄される、ありがちな中途半端さで、逆に思い切りの悪さを露呈している。