秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

言葉、声と心のありか

人の声、歌声というのは、人の心のありか、姿を映す鏡だ…とぼくは思う。

もちろん、そこで発する言葉、メロディ、選曲がとても重要だけれど、言葉を、曲を生かし、そのよさを伝えられるかどうかも、そこにかかっている。

おしゃべりが上手な人、あるいは、歌が上手で、うまかったとしても、それがそのまま人の心深くを動かすとは限らない。

まともに演劇を学び、現場で検証してきた人ならわかるだろう。ある世界、ある思い、ある境地に入った瞬間の俳優の演技とそうではない、技術や訓練、経験に頼っただけのそれとがいかに違うか。

世阿弥も「心より心に伝うる花」と教えているように、人の声、歌、言葉は、それを発するものの深層に、何かがないと人に伝わらない。

小手先の技や計算では、人の心に伝わり、動かすものは生み出せないということだ。世阿弥は、あるときはそれで衆目を集めても、それは、かりそめのものに過ぎず、見かけや珍しさ、若さゆえの輝きといった、その場限りのもので終わる、「時分の花」と戒めている。

それでも人は弱いから、一時でも、衆目を集めたい、ひと目を惹きつけたいと焦る。
それによって、現実の厳しさ、先行きの見えない不安から逃れたいと思う。鍛錬や訓練、日々の厳しさから解放されたい思う。

そして、そのためには、七面倒臭い「心より心に伝ふる花」などより、珍しさ、見かけ、若さに群がるものに身をまかせた方がいいと考える。身をかませるという受け身ではなく、自ら、身をかまかせていく。

あれほど、過去の所業に犯罪の影が見え隠れするロシアのプーチン氏がいまもってロシアの国民に人気があり、数々の言動で物議をかもし、かもすどころか、プーチン氏との密約や取引までいわれているトランプ氏がまったく説得力のない説明をツイードしながら、依然、国論を二分したままで平然としていられる。

それを許しているのは、いうまでもない、珍しさ、見かけ(表層)に群がり、そこに身をまかせた方がいいと考える人たちがいるからだ。

いずれにしても先々の不安があるなら、はけ口を与えてくれる人がよく、自分に忍耐や厳しさを教え、融和や協調を説く人や考え方は七面倒臭い…そう思う人が半数はいるということだ。

果たして、そうしてつくられる家庭、地域、社会、国、世界とは、本当に人々を確かな幸せに導くのだろうか…。

ひるがえって、ぼくらの国でも、小手先の技、見かけ、珍しさが正しさのようにいわれ、それに身をまかせる人が多数いる。

だれだって、苦しさからは逃れたい。ぼくだって、人から評価される人生の方がいい。だが、そのために、見捨てられる人、犠牲になるだれか、傷つくだれかがいるとしたら、そこで立ち止まり、それでいいのかと心に問いかけたい。

自分が望む生き方とは何なのか。逃れたい苦しさをつくっているのはだれなのか。自分が求めていた評価とは何だったのか…

そうすれば、身をまかせる人の姿に悲しくなり、そうなりたくない人になろうと思えるはずだ。なりたくないだけでなく、人にもそうなってはほしくないと願い、行動できるはずだと、ぼくは思う。

言葉、声、歌声を聴かれて、心のありかがよどんだ人とは、だれも思われたくはない。